ヴァーグナー略歴
1837年
4月ケーニヒスベルク劇場の音楽監督に就任した。
7月ヴァーグナーはリガ(当時の帝政ロシア、現在のラトビア)で劇場と契約
1839年
3月ヴァーグナーはリガ劇場を解任されリガの近隣の町ミータウを出発した。全長25mも満たない穀物運搬船で激しい嵐に3度も遭う5)。「さまよえるオランダ人」さながらの経験をし、死をも覚悟してロンドンに着いた。そしてロンドンからは汽船で出発し、マイヤベーアがフランス北海岸の町ブーローニュ・シュル・メールに逗留中であることを知り、同地に滞在することにした。
そこでマイヤーベーアとの知遇を得て、「リエンツィ」の第2幕までの総譜を見せる。
パリ・オペラ座支配人への推薦状を書いて貰った。
9月17日大きな期待をもってヴァーグナー夫妻はパリに着いたのである。
10月パリでヴァーグナーが認められることはなく、オペラ座への自作の売り込みも失敗に終わる。
ヴァーグナーのパリでの大きな目的はグランド・オペラの大家マイヤベーアから得たオペラ座支配人への紹介状によってオペラ「リエンツィ」の上演のなにがしの手だてを得ることであったのである。
しかし、失望しかなかった。
ヴァーグナーはこれを契機にフランスに対して悪印象を抱くようになる。パリでの生活は惨憺たるものだったからである。
つまりオペラ座の支配人はヴァーグナーのオペラに理解をしめさなかったのです。
以後、ヴァーグナーのオペラがオペラ座で初演を迎える事はなかったようです。
角川p56
「ワグナー(ヴァーグナー)については、リシャール氏は、フランスで最初の、もしかするとただ一人の理解者と自負している」
ま、だからと言って原作中でヴァーグナーのオペラについては触れている箇所は記憶にありません。
話は変わりますが・・・。
現在のオペラ・バレエ上演では客席を暗くするのが常識ですが、昔は日本の歌舞伎と同じように・上演中でも観客席は照明を落とさず明るかったものなのです。
オペラ上演中に観客席を暗くする のはワーグナーが自らの作品を専用に上演するための劇場をバイロイトに建設して・上演を始めた時に行ったのが最初のことで、そんなに昔のことではなかったのです。
何故かと言いますと、もともと貴族や新興ブルジョワの観劇の目的は舞台鑑賞より社交の方が優先であったからです。バルコニー席(日本で言えば桟敷席)が社交族の指定席で・彼らはそこから向かい側の席のお客の顔触れや衣装・ 装飾品の趣味をオペラグラスで互いに観察するのが何よりのお楽しみであったのです。
当然客席は明るくなければなりませんでした。
ワーグナーがバイロイト祝祭劇場で豪華なシャンデリアなどを排して・上演中に観客席の照明を消してしまったのは、「 観客は余計なことを考えずに・俺の作品を見ることだけに集中せよ」という意図であったわけです。
パリ・オペラ座の開場は1875年(日本は明治8年)で・バイロイト祝祭劇場の開場は1876年のことですが、ワーグナーの革命的な試みがすぐにヨーロッパ全土に広まったわけではないのでしょうが「ヴァーグナーの理解者」のリシャールでもあり芸術家肌のこの支配人がそういう事を真似したと考えるのもたのしいかと思います。
客席が暗いほうが怪人さんが舞台を見るのにも都合がいいでしょうし・・・。
クリスティーヌがさらわれた公演の時も客席が暗ければ、エリックは舞台の照明だけ支配すればいいわけです。
モークレール他何人かをまとめて気絶させるとか・・・。してます。「嗅ぎ煙草」入れに何か混入させてます。
・・・で舞台と客席が完全に暗くなった状態と言うのは本当に真っ暗で何も見えません。騙し絵の緞帳も見えないし、シャンデリアも見えなくなります。
数秒間暗闇の中で隣の人間の顔も見えず、怖いくらいです。
舞台が明るくなってやっと隣の人間などの様子が分るのです。
なお『タンホイザー』(パリ版フランス語版)による初演は、1861年3月13日パリ・オペラ座。