ガヴァルニのライバルが「ドーミエ」と言うのは間違いのないことのように思われます。
版画家で漫画家と言うのも共通ですし・・・。「漫画家」と言うのがよいですね。
「B級作品」と悪く言われる「オペラ座」らしくて(わたしはそんなふうに考えていませんけど。まあ、B級くささのようなものがこの作品の味でもありますので・・・)
という文章中での疑問。
有名な版画家である「誰か個人」のために一応国立であるオペラ座が誕生パーティーをする―――とても不思議です。
大体ドーミエでなかったとしても「素描家」がオペラ座に対して新聞記事以外の功績があったとも考えられません。
天井画やあっちこっちに夥しい絵画がありますから、それを差し置いて「素描家・版画家・漫画家」を祝うのは不自然です。
そして怪人の奇妙な行動―――クリスティーヌとラウルがこそこそしている間「盲人用桟敷に上がって」「降りる」と言う奇妙な行動が気になっていました。
実際そんな行動をしなくてはならない原因はないのです。
強いて言えば「ダロガ」に会うためなのではないかと考えていました。
もともとクリスティーヌを伴って舞踏会に現れたのは「クリスティーヌ自らの意思で怪人といる」という事の証明だったからです。(角川p361あたり参照)
つまり盲人用桟敷席にダロガを待たせて・・・「クリスティーヌがありのままのエリックを愛しているのを見せ付ける」と言う風に考えていました。
しかし「大階段」やクリスの言う(角川p152)「正面ロビーの暖炉の後ろにある小さな応接室」「正面ロビー」と言うのが思い違いでなければ「盲人用桟敷」から見えないのです。
まったく人が入り込まないとも限らない盲人用桟敷席でダロガと会っているのを目撃される事はエリックにとって致命的な事でした。
変わり者のダロガの不審な動きに劇場の誰かが気づき、エリックの存在や湖の家に気づかれる事をもの凄く怒っているのです。(フェルト帽の男のあたり)
何か理由をつけるなら「ダロガと会っていた」あたりかな・・・と思うのですが・・・。
ここから妄想注意なのですが―――
ドーミエという版画家はウィキペディアによれば「晩年、1872年頃から眼の病気を患い、やがて失明に至っている。1879年、パリ郊外ヴァルモンドワで没した」
そう―――ドーミエは「盲人」でした。
しかし仮に仮面舞踏会を1879年とすると彼は約二週間前になくなっているのです。(1879年2月10日死亡)
エリックがドーミエをどう見ていたかは分りません。
ルルーが自作の中にドーミエへのオマージュとも言うべきエピソードを盛り込んだ・・・と考えるのも面白いかと思います。
誕生日を祝っているのは国立「オペラ座」でなくルルーを含めた「ボヘミアン」達。
そしてルルーにとってのオリジナル・キャラクターである「エリック」になって、もしかしたら晩年盲人になっても劇場通いしていたかもしれない新聞挿絵画家の座ったかもしれない盲人用桟敷に行かせてみた―――
と言うのもなかなかロマンティックな妄想なのではないでしょうか?
写真は「19世紀のボヘミアン達」
※ 少年ルルーがたまたまオペラ座で最晩年のドーミエを見た事があったかもしれません。
◆ ものすごい妄想編 ◆
私は今でも新聞の風刺漫画が大好きだ。
その中でも一番愛してやまないのは「ドーミエ」の作品だ。
「版画家」の作品に初めて触れたのは子供時代。
物置の中の古新聞の束の中に彼の絵を発見した。その鋭く、独特な作風は一気に僕の心をとらえた。
19世紀パリの相貌を「版画家」はリトグラフィーに描き通した。卓越したデッサン力で流動化した都市の住民一人ひとりを活写したのだ。
以後、その物置や古本屋をあさるのが子供時代の楽しみになった。
パリの人々の日常、観劇風景などなど見飽きない。
一年後、僕はパリを離れてセーヌ・マルティーヌ県のウー中学校の寄宿舎に入った。
長い休暇での事だった。僕は汽車に乗りパリに戻って来ていた。
今年は中学生になったから、という事でオペラ座の仮面舞踏会を覗いてもいいと両親が言ってくれた。当然弟のちびのジョゼフは置いていく事になっていた。
盲目になった版画家の唯一の娯楽である「オペラ座通い」をしていると言う。
会えるかもしれないと思うと胸が高鳴った。
彼は何と言っても「トランスノナン街」を描いた人物なのだ。僕は彼を尊敬している。
―――だが、華やかな仮面舞踏会に彼の姿はなく今年就任したばかりのヴォルコペール氏の姿が見えた。
彼は今をときめく音楽家たちに囲まれているのだ。
それを尻目に版画家がいつもそこにいるという「盲人用桟敷席」に僕は駆け上がった。だがそこに彼の姿はなかった。
「ドーミエさんは死んだんだよ」
案内係りのおばさんが声をかけてきた。僕は驚き目を見開いた。
「追悼の客が後を立たなくてね・・・」と紛れ込んだ酔客の置いていったグラスを片付けながらおばさんは説明してくれた。
がっかりした僕は階段を降りて、着飾った人でごった返すロビーを抜け、オペラ座を出た。
―――「1789年」は僕を新聞への道へいざなった版画家の死んだ年として忘れられない年になった。
だから私は大人になった今も仮面舞踏会の時はボヘミアン仲間の騒ぎや華やかな貴婦人の横を通り会場をそっと抜け出し「盲人用桟敷席」に行く事にしている。
「彼」に会うために。
今もなお、「盲人用桟敷席」にはバリとオペラ座をこよなく愛した版画家がいるような気がするからだ。
版画家で漫画家と言うのも共通ですし・・・。「漫画家」と言うのがよいですね。
「B級作品」と悪く言われる「オペラ座」らしくて(わたしはそんなふうに考えていませんけど。まあ、B級くささのようなものがこの作品の味でもありますので・・・)
という文章中での疑問。
有名な版画家である「誰か個人」のために一応国立であるオペラ座が誕生パーティーをする―――とても不思議です。
大体ドーミエでなかったとしても「素描家」がオペラ座に対して新聞記事以外の功績があったとも考えられません。
天井画やあっちこっちに夥しい絵画がありますから、それを差し置いて「素描家・版画家・漫画家」を祝うのは不自然です。
そして怪人の奇妙な行動―――クリスティーヌとラウルがこそこそしている間「盲人用桟敷に上がって」「降りる」と言う奇妙な行動が気になっていました。
実際そんな行動をしなくてはならない原因はないのです。
強いて言えば「ダロガ」に会うためなのではないかと考えていました。
もともとクリスティーヌを伴って舞踏会に現れたのは「クリスティーヌ自らの意思で怪人といる」という事の証明だったからです。(角川p361あたり参照)
つまり盲人用桟敷席にダロガを待たせて・・・「クリスティーヌがありのままのエリックを愛しているのを見せ付ける」と言う風に考えていました。
しかし「大階段」やクリスの言う(角川p152)「正面ロビーの暖炉の後ろにある小さな応接室」「正面ロビー」と言うのが思い違いでなければ「盲人用桟敷」から見えないのです。
まったく人が入り込まないとも限らない盲人用桟敷席でダロガと会っているのを目撃される事はエリックにとって致命的な事でした。
変わり者のダロガの不審な動きに劇場の誰かが気づき、エリックの存在や湖の家に気づかれる事をもの凄く怒っているのです。(フェルト帽の男のあたり)
何か理由をつけるなら「ダロガと会っていた」あたりかな・・・と思うのですが・・・。
ここから妄想注意なのですが―――
ドーミエという版画家はウィキペディアによれば「晩年、1872年頃から眼の病気を患い、やがて失明に至っている。1879年、パリ郊外ヴァルモンドワで没した」
そう―――ドーミエは「盲人」でした。
しかし仮に仮面舞踏会を1879年とすると彼は約二週間前になくなっているのです。(1879年2月10日死亡)
エリックがドーミエをどう見ていたかは分りません。
ルルーが自作の中にドーミエへのオマージュとも言うべきエピソードを盛り込んだ・・・と考えるのも面白いかと思います。
誕生日を祝っているのは国立「オペラ座」でなくルルーを含めた「ボヘミアン」達。
そしてルルーにとってのオリジナル・キャラクターである「エリック」になって、もしかしたら晩年盲人になっても劇場通いしていたかもしれない新聞挿絵画家の座ったかもしれない盲人用桟敷に行かせてみた―――
と言うのもなかなかロマンティックな妄想なのではないでしょうか?
写真は「19世紀のボヘミアン達」
※ 少年ルルーがたまたまオペラ座で最晩年のドーミエを見た事があったかもしれません。
◆ ものすごい妄想編 ◆
私は今でも新聞の風刺漫画が大好きだ。
その中でも一番愛してやまないのは「ドーミエ」の作品だ。
「版画家」の作品に初めて触れたのは子供時代。
物置の中の古新聞の束の中に彼の絵を発見した。その鋭く、独特な作風は一気に僕の心をとらえた。
19世紀パリの相貌を「版画家」はリトグラフィーに描き通した。卓越したデッサン力で流動化した都市の住民一人ひとりを活写したのだ。
以後、その物置や古本屋をあさるのが子供時代の楽しみになった。
パリの人々の日常、観劇風景などなど見飽きない。
一年後、僕はパリを離れてセーヌ・マルティーヌ県のウー中学校の寄宿舎に入った。
長い休暇での事だった。僕は汽車に乗りパリに戻って来ていた。
今年は中学生になったから、という事でオペラ座の仮面舞踏会を覗いてもいいと両親が言ってくれた。当然弟のちびのジョゼフは置いていく事になっていた。
盲目になった版画家の唯一の娯楽である「オペラ座通い」をしていると言う。
会えるかもしれないと思うと胸が高鳴った。
彼は何と言っても「トランスノナン街」を描いた人物なのだ。僕は彼を尊敬している。
―――だが、華やかな仮面舞踏会に彼の姿はなく今年就任したばかりのヴォルコペール氏の姿が見えた。
彼は今をときめく音楽家たちに囲まれているのだ。
それを尻目に版画家がいつもそこにいるという「盲人用桟敷席」に僕は駆け上がった。だがそこに彼の姿はなかった。
「ドーミエさんは死んだんだよ」
案内係りのおばさんが声をかけてきた。僕は驚き目を見開いた。
「追悼の客が後を立たなくてね・・・」と紛れ込んだ酔客の置いていったグラスを片付けながらおばさんは説明してくれた。
がっかりした僕は階段を降りて、着飾った人でごった返すロビーを抜け、オペラ座を出た。
―――「1789年」は僕を新聞への道へいざなった版画家の死んだ年として忘れられない年になった。
だから私は大人になった今も仮面舞踏会の時はボヘミアン仲間の騒ぎや華やかな貴婦人の横を通り会場をそっと抜け出し「盲人用桟敷席」に行く事にしている。
「彼」に会うために。
今もなお、「盲人用桟敷席」にはバリとオペラ座をこよなく愛した版画家がいるような気がするからだ。