The Phantom of the Opera / Gaston Leroux

ガストン・ルルー原作「オペラ座の怪人」

ガヴァルニの好敵手

2007年09月27日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」
「この舞踏会は告解期間(四句節が始まる灰の水曜日の四日間)前に、謝肉祭の変わった衣裳を着た人物とクールティーユの坂を、鉛筆で永遠のものにしたガヴァルニの好敵手の一人、昔の娯楽の場面を描いた有名な素描家の誕生日を記念した、特別のお祭りだった。」
(ハヤカワ文庫 p.166)


まず、仮面舞踏会を「1879年」という風にして計算します。

1879年の復活祭は4月13日なので「灰の水曜日」は2月26日です。
その前の四日間なので2月22日から2月25日あたりと考えられます。
その謝肉祭の期間の最終日を「マルディ・グラ」と言います。


これはフランス語で「太った火曜日」の意味で、キリスト教における「復活祭」の前におこなわれる「四旬節」、40日間肉を一切食べない期間、が水曜日から始まりますので、その直前の火曜日は食いだめをして一番太った状態なのだそうです。





「鉛筆で永遠のものとした素描画家」と言えば有名な風刺画家ドーミエが思い浮かびます



ガヴァルニの好敵手と言うからには同業者も同時代の人物だと考えられます。
ガヴァルニが1804~66年、ドーミエが1808年2月26日~1879年4月10日なのでちゃんと重なります。

一応、版画を手がけた画家としてゴーギャン、ルドン、ムンク、クールベあたりも調べましたが上手く重なりませんでした。
版画家は数が多いと思いますが「有名」で「永遠にした」という事でやはりドーミエのような劇場やパリの風俗を4000枚以上も素描し、後世にパリの息吹を感じされてくれる人物が相応しいような気がします。


誕生日も2月26日なので、四句節の初日・灰の水曜日という禁欲的な日になってしまったドーミエの誕生日を一日繰り上げた、とも考えられるような気がします。

「肉のない誕生日の前夜祭」的な・・・。


ドーミエというのは有名な新聞画家でもあり、新聞記者でもあるルルーが知らなかったと言うこともありえません。


指輪を授けられる・・・

2007年09月27日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」
■ 聖カタリナの神秘の結婚 1518年頃
(Nozze mistiche di santa Caterina)
28×24cm | 油彩・板 | ナポリ, カポディモンテ国立美術館

シエナ派を代表する画家であったベッカフーミの影響が認められる、コレッジョ宗教画の名作『聖カタリナの神秘の結婚』。

聖フランチェスコ同様、聖痕を受けたとされる4世紀の聖女カタリナが、幼きイエスに婚姻の指輪を与えられる場面を描いた≪聖カタリナの神秘の結婚≫です。




Auguste-Emmanuel Vaucorbeil

2007年09月27日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」

 

オーギュスト・エマニュエル・ヴォーコルベイユ

1879年パリ・オペラ座総裁就任。

 

1821年12月15日フランスのルーアンに生まれる。1884年11月 2日パリで死亡。

音楽家。

1878年説は覆りますが、

ラウルがオペラ座に来たのが1878年5月のオペラ座前広場の実験の後だとして、1878年冬から1879年の総裁、支配人交代の後の仮面舞踏会で・・・とも考えられたり。

 

なかなか、ルルー自身が確実な年月日まで想定していたか、仮にモデルがいたとしてもその人物の全てを重ねられるほどにオリキャラに取り入れたかは疑問。

 

1879年説が魅力的なのは 1879年4月16日、復活祭直後聖ベルナデット・ヌヴェールが亡くなっている事。

1876年には聖カタリナ・ラブレがなくなっているので、この不朽体の聖人・・・「死んだ美しい女」の死にはまれているからです。

1879年復活祭のあたりにエリックが死んだとすれば「魂の救済=復活」という図式にもつながるような気がします。

しかも聖ベルナデット・ヌヴェールは「ルルドの泉」の発見者。

原作でも「泉」と言うのは「渇いた心を癒す」「クリスティーヌの憐れみの涙」「魂の救済・復活」などを象徴していますし、エリック自身「ルルドの泉」で自分の醜さを治したい、と言う願望があったかもしれません。

 

少なくともガストン・ルルーが生きていた時代のフランスで「ルルド・ブーム」が起こっていたのは事実です。

ユイスマンの作品にも描かれています。

 


リシャール氏とヴァーグナー

2007年09月27日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」
 

ヴァーグナー略歴
1837年
 4月ケーニヒスベルク劇場の音楽監督に就任した。 
 7月ヴァーグナーはリガ(当時の帝政ロシア、現在のラトビア)で劇場と契約
1839年
 3月ヴァーグナーはリガ劇場を解任されリガの近隣の町ミータウを出発した。全長25mも満たない穀物運搬船で激しい嵐に3度も遭う5)。「さまよえるオランダ人」さながらの経験をし、死をも覚悟してロンドンに着いた。そしてロンドンからは汽船で出発し、マイヤベーアがフランス北海岸の町ブーローニュ・シュル・メールに逗留中であることを知り、同地に滞在することにした。
そこでマイヤーベーアとの知遇を得て、「リエンツィ」の第2幕までの総譜を見せる。

パリ・オペラ座支配人への推薦状を書いて貰った。
 
9月17日大きな期待をもってヴァーグナー夫妻はパリに着いたのである。

 
10月パリでヴァーグナーが認められることはなく、オペラ座への自作の売り込みも失敗に終わる。

ヴァーグナーのパリでの大きな目的はグランド・オペラの大家マイヤベーアから得たオペラ座支配人への紹介状によってオペラ「リエンツィ」の上演のなにがしの手だてを得ることであったのである。
しかし、失望しかなかった。
ヴァーグナーはこれを契機にフランスに対して悪印象を抱くようになる。パリでの生活は惨憺たるものだったからである。

つまりオペラ座の支配人はヴァーグナーのオペラに理解をしめさなかったのです。



以後、ヴァーグナーのオペラがオペラ座で初演を迎える事はなかったようです。


角川p56

「ワグナー(ヴァーグナー)については、リシャール氏は、フランスで最初の、もしかするとただ一人の理解者と自負している」




ま、だからと言って原作中でヴァーグナーのオペラについては触れている箇所は記憶にありません。



話は変わりますが・・・。


現在のオペラ・バレエ上演では客席を暗くするのが常識ですが、昔は日本の歌舞伎と同じように・上演中でも観客席は照明を落とさず明るかったものなのです。

オペラ上演中に観客席を暗くする のはワーグナーが自らの作品を専用に上演するための劇場をバイロイトに建設して・上演を始めた時に行ったのが最初のことで、そんなに昔のことではなかったのです。

何故かと言いますと、もともと貴族や新興ブルジョワの観劇の目的は舞台鑑賞より社交の方が優先であったからです。バルコニー席(日本で言えば桟敷席)が社交族の指定席で・彼らはそこから向かい側の席のお客の顔触れや衣装・ 装飾品の趣味をオペラグラスで互いに観察するのが何よりのお楽しみであったのです。

当然客席は明るくなければなりませんでした。

ワーグナーがバイロイト祝祭劇場で豪華なシャンデリアなどを排して・上演中に観客席の照明を消してしまったのは、「 観客は余計なことを考えずに・俺の作品を見ることだけに集中せよ」という意図であったわけです。

パリ・オペラ座の開場は1875年(日本は明治8年)で・バイロイト祝祭劇場の開場は1876年のことですが、ワーグナーの革命的な試みがすぐにヨーロッパ全土に広まったわけではないのでしょうが「ヴァーグナーの理解者」のリシャールでもあり芸術家肌のこの支配人がそういう事を真似したと考えるのもたのしいかと思います。

客席が暗いほうが怪人さんが舞台を見るのにも都合がいいでしょうし・・・。



クリスティーヌがさらわれた公演の時も客席が暗ければ、エリックは舞台の照明だけ支配すればいいわけです。

モークレール他何人かをまとめて気絶させるとか・・・。してます。「嗅ぎ煙草」入れに何か混入させてます。




・・・で舞台と客席が完全に暗くなった状態と言うのは本当に真っ暗で何も見えません。騙し絵の緞帳も見えないし、シャンデリアも見えなくなります。

数秒間暗闇の中で隣の人間の顔も見えず、怖いくらいです。



舞台が明るくなってやっと隣の人間などの様子が分るのです。





なお『タンホイザー』(パリ版フランス語版)による初演は、1861年3月13日パリ・オペラ座。