地方の女たち

夜の街で出会った女達と男達

人生の終わりは・・・

2016-09-28 13:21:41 | 日記
終末医療の大口病院での事件を聞き、少し時間が経つと・・・

「犯人は誰???」と言う野次馬的な感覚とか
病院の対処に批判する気持ちとか      

自分以外のことに対しての思いが少し弱くなり、
それと共に「自分もその時が来たら・・・」どんな道をたどるのかと不安を感じます

介護とか終末医療の世界に突入すると、元気な元の姿には戻りません

そう言い切ると、生きる希望が失われて精神的に落ち込み、その事が死に向かってのスピードを加速する事があるので、心の中で元に戻れないと感じても、その気持ちを打ち消す為に色々と理屈を積み重ねます。


2週間ほど前になりますか・・・
友人(女性)から 
「今日、実家の方にケア・マネェージャーが来るのだけど、時間が有れば一緒に話を聞いてくれないか。」

そんな相談を受けました。(彼女は私がその種の事を体験している事を知っているので)

私も最初は「ケア・マネ」の存在も知らなかったので、その人が介護をする側にとり、どんな役割をするのかなんて、まったく想像も付きませんでした。 きっと彼女もそんな不安も有ったのでしょう。

そして、、、
親・娘・私とケア・マネェージャーと話をする事になった。

娘は自分の母親が認知症の初期ではないかと疑いを持っています。
確かに親子と言う特別な関係だと、自分の親の異変を受け入れるのは心の何処かで「嫌」なんです。
病気なら仕方ないと受け止めるのですが、単なる老化がある一定ラインを超えると受け入れることは出来なくなる

なんで、こんな事が・・・
子として親のしたことで受け入れることが出来ない事が日々増えて行きます。
いくら注意しても改善はしない現実の日々
心の何処かで 「とうとう私の親もボケが始まったのか・・」 と思わなければ腹がたって仕方ありません。

素人の私の感じですが、その親は「物忘れ」の状態で、まだまだボケなんて状況ではなく、頭もしっかりしていると感じています。
結局、話し合いの結果はとりあえず施設の見学をすると言う事になりました。

娘は少しでも認知症の進行を遅らせる為に、日帰りで良いのでトレーニングなどを受けてほしいと、親を思う気持ちなのです。現在は仕事の関係で親とは一緒に暮らしていないので、自分の目が届かない点も多々あり、老化で弱った親を一人にする時間を少しでも減らしたい。
そして施設を利用する事に慣れれば、そこに新しい楽しみも生まれるかもしれないと期待しています

ここが介護で一番難しい点で、娘は善意の行動なのだが、それを親が受け入れるかどうか別問題なんです。

正義は介護をする側に有ります。
ところがこの正義が曲者で、介護を受ける側にとっては反論できない事で攻められるのです。

これは健康な成人でも苦痛ですが、健康な成人なら正義を振りかざす者と接するのを避ければ解決します。
しかし老人にはその手が使えません。
口では「一人で生きて行ける」と強がっても、本心は不安で誰かの関りを期待しています

私の運転する車の後部座席には親子が・・・
親は「何処に行くん???」  不安そうです。
紹介された二ヶ所の施設を見学し、色々と説明も受けました。私にとっては何度も見た光景なので、それほど新しい事は感じませんでした。

親を自宅で送り、その娘と帰りの車のなかで
私が 「これからどうする予定なの???」と聞くと・・・
娘は 「施設を見学している最中に親の顔を見ると、今まで見たことも無い寂しい顔をしていた・・・」

やはり親の子だ、ちゃんと肝心な所は感じ取っている。

介護が必要となる世代の人たちは、テレビ・新聞や回りの同世代の人たちの事をよく見ています。
同世代の友人が施設のデイサービスを受けていて、何処か調子が悪くなり一月ほど病院に入院し、それを二度ほど繰り返して亡くなった事実も知っている。

介護施設のサービスを受け始めることが「人生の終わり」のスタートだと知っているのです。
これは高齢者にとっては、すぐそこにある現実なので、その事実の受け止め方が若い人達とはまったく違います。

でも悲観するばかりでは有りません。この親子の様に積極的に関ってさえいれば、必ず何時か何処かの時点で最善策は発見できます。

生きてる者に必ず訪れる「死」 それは仕方なく受け入れるが、その直前の不自由な状態は誰も受け入れたくない。
しかし、その時の状態を自分で選択は出来ないんです。

家庭の体形が変わり、看取る側の資金と手間の両方の負担も大きくなってる現状。
人口の多い団塊世代が介護の世界に突入すると、今以上に悲惨な出来事が増えると簡単に予測できます。

これと言った解決策など見当たらない。
我々に出来る事は「覚悟」を自分に言い聞かせることだけなのでしょうか・・。