昨日の午後に眼科の病院に行きました。
午後2時30分からの診察開始ですが、何時も混雑しているので少し早めにと2時に行った。
閉まっている受付の前に診察券を入れる小さな箱と、名前を記入する受付票が置かれています。
待合室で待っている人は4~5人だったので
「少し早く来てよかった」と思いながら名前を記入しようとしたら・・・15番目だった
記入を済ませて何処かに行ってる常連さんが居てるんですねぇ~
少し離れた椅子に並んで座っている高齢の男性と中年女性が何かを話していた。
最初は小声だったので何を話しているのか解らなかったのですが、その中年女性の声が段々と大きくなった。
「ここは眼科。ここはね 眼科なの」
どうも高齢男性は別の病院に行くつもりだったが、間違って来たみたいです。
ゆっくりと立ち上がった老人は歩行も危なっかしい感じで、ゆっくりと閉まっている受付の前に行き、小さなポストから自分の診察券を取り出そうとしたが・・・できない。
その箱は診察券を入れる側は指も入らない、取り出すのは後ろ側にあり引き出しになっているんです。
その光景を見て、、、迷いました
その老人の診察券を取り出すのは簡単なのですが、それをするには名前を聞いて、重なっている診察券の中から探さなくてはならない。当然、他の人の診察券を見る事になる。
老人は片手でカウンターに手を置いて立っているのが精一杯の感じの人でした。
周りに目をやったり、薄暗い受付の奥を見たりして困っている様子です。
時計を見ると2時15分くらい。 何時もなら20分位には受付の人が来るので・・
私は立ち上がり「もう少ししたら人が来るので・・・」と、座って待つことを促そうとしたら・・・
運よく座る前のタイミングで受付の人が来ました。
その後、自分の検査を終えて医師の診察を待つために再び待合室に戻って来たのは1時間30分後です。
すると、、、自動ドアが開き入って来た老人が・・・間違えて来てしまった「あの老人だ」
私は道にでも迷いウロウロしていたのかと心配しました。
一連の行動を見て、勝手に少しボケが始まっているのかと、、、、、。
しかし、よく考えてみると私の判断の方が間違っているのかも知れないと思った。
定期的に行く病院が近い距離で二つあり、A病院に行くつもりで出たかけたが、歩く事に注意を払わなければならない人なら、その道筋に何時も行くB病院が有れば何も考えずに入ってしまう。
確かに病院ではないかも知れないが、何かをしようとしていて別の事を考えると最初の事を忘れてしまう事など普通にある事です。そして、この老人は自分が間違えているかもしれないと、隣に座っている人に確認しているのですからボケていないでしょう。
そして、この日の目的だった病院に行き、そこでの診察が終わった時に、苦労して出て来たのだからついでに眼科にもよって行こうとしているだけなのです。。。合理的です
体力が弱くなっている老人が困っていたら助けてあげるのは当然ですが、その時に「この人はボケが始まっている」と見下した判断をすると、その老人のプライドを傷つけてしまう。
他人の助けなら老人も素直に受け入れるでしょうが、これが身内だと、、、さて、どんな感じになるのか・・・
他人と身内で態度の違う老人はボケてはいませんね
ウイルス感染が拡大しようが、経済活動が鈍化しようが・・・
老人介護の問題は日々深刻化しています。
戦後の日本は 全てにおいて団塊世代が大きく影響します。
その人口の多い世代が元気で働いていた時代は、すべての分野で成長が見られ、その恩恵が大きいので、同時に発生していたマイナス面はさほど気にならなかった。
先の敗戦で後進国となった日本を急速に成長させたのは、この団塊世代の労働力です。
それが団塊世代が退職する時期が近付いた頃には、日本中の自治体で公務員の退職金が払えるのだろうか・・・と不安が広がり、その退職の時期を広くして、年単位の負担を減らす為に「早期退職」と「定年延長」と言う言葉が流行りみたいになりました。
その団塊の世代とは1947年(s22)~1949年(s24)生まれの人達で、現在は71才から75才になっています。
普通に健康なら、まだ介護は必要のない人が多いのですが、必要になる時は近い内に必ず来ます。
介護の様な国全体に影響する問題は、少なくとも10年程度は前に行動をスタートしないと間に合いません。
現在の介護保険制度は2000年の4月1日より始まりました。
私の場合は母親の介護が必要になった時期は介護保険制度が始まって間もない時だったので、国は制度の必要性と加入に力を入れていました。 ですから、当時は介護する人の能力は低いが、制度は好待遇で介護のレベルを必要以上に上げて利用を促していました。
家族が介護の手助けをしようとすると・・・
「それは私たちがするし、保険を利用すれば〇〇も出来ます。家族の方の介護は大変ですから・・」と、介護をする家族まで気遣う姿勢でした。
その姿は民間企業の新規開店サービスのようでしたね。
ところが、、、近年では、、、
介護保険を利用する前に介護認定と言うのが有り、介護を受ける人がどの程度の介護が必要かを調べるのですが。。
その姿勢は可能な限り少ないサービス(介護)でと言う方向に変わっています。(以前とは真逆)
介護保険を利用して多くのサービスを受けると、それだけ集めた保険料を使うことになるので、可能な限り使わない様にする方針です。 つまり、加入を勧めて、、、使わせない。そんな馬鹿な状態になっているんです。
このコロナの問題が発生する直前まで、自宅介護の話を頻繁に流していたが、ウイルス感染拡大でそんな話をすることが出来なくなっています。それでもこの問題は待ってはくれません、着実に迫ってきています。
団塊世代の人達は大半が親の介護が終わっています。次は自分たちが介護を受ける順番になっていて、その介護を主として担うのは団塊ジュニアと呼ばれる現在47才~50才位の人達です。
そして団塊世代の人達は兄弟姉妹が3~4人は居たが、ジュニアの世代は1~2人となり親を支える負担が大きくなっています。しかも、多くの人が東京・名古屋・大阪など都会に出ていき同居している人は少なく、どうしても介護のサービスに頼らざるをえない社会構造になっています。
資金不足で自宅介護を薦める国と現実が反する形になっています。これを解決する一番簡単な方法はお金です
ある試算によると現在の介護保険料の2.5倍程度を支払えば、現在と同じ程度のサービスを受けられるとしています。
ところが現実は違います・・・介護を受ける人、介護を中心的に担う人、、、その人たちにとりこれは幻想です。
現在の2.5倍もの保険料を支払っても、これまでと同等の介護サービスや家庭での介護を行うことは出来ません。
この2.5倍の保険料の試算に介護をする人の条件が加味されていないのです。国の勧める自宅介護など、介護を担当する家族の気持ちと実情を理解しなければ成り立たない。兄弟姉妹が多ければ、同居していない人が遊びに来て介護を一時的に代わってくれる。これがどれだけ大きく重要かは、経験しないと解りづらい事です。
その重要なポイントが昔と今と今後では違っています。
一人で親の介護を担当するのは100%無理です
そこを介護保険の利用で解決すればと考えるのは早計で、その費用はだれが負担するのかが抜けています。
保険料が2.5倍になった状態での話ですから、そんな状態が何年も続くと悲惨な結果が待っています。
介護保険によって多くの老人やその家族が助かっているのは事実だし、多くの雇用も生み出しました。
しかし、この制度は早急に大きく変えなければ崩壊します。現状に捉われず、新しく制度を作る気持ちで考えないと、日本中に悲惨な家族・老人が溢れることになるでしょう。
国は介護で不足している労働力を外国人で賄おうとしています。仮に言葉の壁を突破したとしても、国の費用が膨らんでいくことに変わりは有りません。
国は介護に必要な資金と労力の両方を解決するために「自宅介護」を勧めようとしています。
これは都合の良い話で、介護を担当する家族はどうやって生きて行けばいいのでしょうか?
この問題を解決する方法が一つだけあります。
要介護と認定するように、その人を介護する人を認定し、認定された人には一定の手当てを支払えば、介護をする人(子供)も生活が成り立ちます(義務ではなく申請)
介護士の不足も補えるし、新しい施設を作る必要も無くなり、建設時に出している膨大な補助金も必要なくなります。
親の介護をする子供を「臨時介護士」として国が認定する。
親の介護をする子供に「手当」と言うのはシックリ来ない感じですが、、、
現実を乗り切る為には一定期間は必要だと感じます。
親の介護を卒業して10年近くなり、そろそろ自分が介護される事を考えなくちゃと・・😢
自宅での介護を今思えば、腹が立ったこと・笑った事・悔しかった事・悲しかった事、、、全てが・・・思い出です
今は介護・葬式・法事を経験した事で、それらに初めて直面する人から相談を受けたりします。
親が亡くなった後の行動は一般的な方法でほぼ解決しますが、介護が進行中の人に答えるのは難しいです。
介護される人10人が居たら、その人が求める最良の方法は10種類。
それに、介護する方が10人は居る訳で、その人達がベストと考える方法が10種類。
それぞれが絡み合い、その中からベストな方法を見つける可能性はほぼゼロです。
結局は両者が不満足な妥協点を見つけるしかありません。
介護の専門家が色々と良い方法を言っていますが、介護をする人がその内容を教科書の様に正しいと信じ過ぎると大きな間違いを起こします。
自分は正しい事をやっているのに、親がそれに沿ってくれないので、親の方が間違っていると感じてしまうのです。
その結果、ストレスを余計に感じてしまいます。
親が完全な寝たきり状態とか、完全な認知症状態になれば、介護と言う考え方は捨てた方が良い。
その状態になれば「扶養する」 「扶養しない」 この判断だけです。
※ちなみに、、、民法877条で「直系血族」と「兄弟姉妹」。民法7582条で「夫婦間」で、扶養の義務を定めています。
義務と言う言葉の前段階で解決するのがベストなのは言うまでも有りません。
寝たきりとか認知症はある意味において状態が安定するので、判断するのは要介護者に対して同じ方法を継続できるかどうかだけです。
日々、最良の方法が変化していく介護とはその点で大きく違います。
介護で一番難しい点は親の状態が安定するまでの長い期間です。
寝たきり状態の方は見た目で判断できますが、認知症の方は判断が難しい。
半年程度でティッシュペーパーを食べてみたりして、ボケの進行が一気に進む人の場合は簡単ですが。
多くの老人はゆっくりと悪化して、何処で「見切り」を付ければ良いか解らない。
脳の写真を撮って隙間が大きくなっているとか、認知症の専門医でテストして判定されても、その人によって症状に差があり、最終的には介護をしている人が判断しなくてはなりません。
医師や介護の人がなんだかんだ言っても、最後は医学や介護の素人が判断するのです。
親のもとに行き。
髪の毛が伸びているので
「明日、散髪屋さんに行こう。私が迎えに来て連れて行くから。」
親・「ああ、頼むな。」
こんな会話が有り、帰り際に 「それじゃあ、また明日ね。」と言うと、、、
親・「明日も来てくれるん。遠いのにそんなに来なくても大丈夫。」というのです。
1つ1つの会話は相手(子)に気を使い、間違った事は無い・・・。
※記憶力が弱くなっただけです。
背もたれの有る立派な椅子を買って
「コタツで横になるとなかなか起き上がれないし、オムツもずれてしまって尿を漏らしてしまうので、この椅子に座ってテレビを見たりしてね。」と、、、
親・「コタツの方が横になって寝る事が出来るので良い。」と
「それだと尿をもらして汚くなってるでしょ。誰が掃除するの・・」と、少し強い語気に・・・
数日後に行くと、全く椅子を使った形跡がない。
※その形が高齢者にとって最良の形なんです。正しい事の押し付けは問題発生の原因です。椅子の方が楽だと感じるまで根気よくやるしかない。親が、、子供が心配してやってくれてるのだから仕方ない、嫌だけどそうするかと思うのには時間がかかります。若い時は頑固じゃなかった親でも、体力が落ちると新しい形は何倍も辛いのです。
親の介護が必要かなと感じた時に、、、
・親の経済力、、親の収入がどれくらいなのか。
・自分の現状、、介護の時間をとれるのか、自分の家庭にどれほどの負担をかけるのか。
・物理的な状況、、親の住む家との距離はどれくらいあるのか。
正しい判断をして事前に解決しなければならない事も多い。
介護はどうしても人間関係の近い夫婦だったり親子の間で行われる事がほとんどです。
それだけに遠慮が無くなり、相手に対する要求が厳しくなります。
介護に関する問題はこれからがピークで、人口の多い世代が後期高齢者となり、施設も箱だけでなく人も不足してきて、今までの様に「もう手に負えないから・・」と言って介護施設にお願いしても、直ぐには入れない事も発生するようになるでしょう。
その結果、自宅介護を余儀なくされ、介護を受け持つ人は逃げ場が無くなり、より苦しい状態に追い込まれます。
先に言ったように介護に正解な方法は有りません。
ただ介護をする人がどう思って介護をするかで、その人が受ける苦痛が少なくなる方法は有るかも知れません。
年齢を重ね、介護が必要な状態になると、本人の兄弟姉妹の葬式にも欠席するようになります。
親よりも、子供よりも長く付き合ってきた兄弟姉妹。仲が良くても葬式に行けず、子供に代理を頼んだりします。
そして、葬式が行われていると感じる時間に、家で一人で涙するのです。
老人は色々と理由を言います。
私の様に不自由な人間が行くと相手に迷惑がかかるとか・・・
でも本心はその場に移動するのが厳しいのです。車や車いすで補助してくれても厳しいのです。
それくらい身体を動かすことが辛いと言う事を解ってあげて欲しい。
そこを理解すると親に対しての日々の不満が小さくなり、自分の為にもなります。
片腕がない人が相手なら、その事で粗相が有っても腹は立ちません。
それと同じなんです、ただ精神的な事は目に見えないので理解がしにくく、頑張っていないとか自分の話を聞いてくれないとか思ってしまうのです。
仮に10の部品が身体に有ったとして、その内の1つか2つが故障しているだけ。残りの8つ9つは正常なんですから、その1つや2つで全てを否定してしまっては・・・それは間違いです
1つ故障しているだけで全てが故障していると判断するのは、要介護者と介護する人が同性の場合に起こりやすい。
父親を娘が介護する時は受けるストレスが少ないのに、母親を介護する時は大きなストレスを感じてしまう。
私の知る範囲の話ですが、どうしても女性の方が長生きし、自宅で介護するのも女性の方が多く、ストレスの多い組み合わせが多いと感じます。
ある一例ですが・・・
母親はディサービスに週3で行き、他の日に2人の娘がそれぞれ2度ほど母親のもとを訪れ、1週間を回していました。
毎日誰かが母親と接して、一人にはしない方法をとっていたのです。
それが母親にとり、娘たちにとり最良の方法と考えての行動です。。。
ところが、、、
最近は母親がディサービスに行った日に家に行き、掃除・洗濯・ベットの調整・食べ物の作り置きをやっている。
何故、そんな風に変更したのかを聞くと、答えは即答でした。
「母親の顔を見ると喧嘩になるから。」
そんな状態に変更するまでには色々な事が有ったのでしょう。
それは理解できるのですが、孤独な高齢者と会って話をするのも大事な介護です。
貴女のやってる事は介護じゃなく、チョットした世話をやいてるだけ。
もう二度と親の介護をしているなんて言うな
内心、厳しく言い過ぎたとは思うのですが、今の状態を乗り越えないと、本当に厳しい介護はこれからです。
親が亡くなって後悔しないように、逃げずに自分から向き合ってほしい
かなり腹をくくらないと人間の介護なんて簡単にできるモノじゃない。
私はもう介護に関わる事はないと思います。
これから、もしくは今介護をしている人にほんの少しでも役に立てば良いんですが・・・
東京・八王子で発生した殺人事件。
嫌なニュースです。
83才の妻の首を絞めて殺そうとしたとして、夫が逮捕されました。
妻は亡くなり殺人事件となってしまった。
この夫婦はともに体調が悪く5月に病院を退院したばかりだそうです。
残念な予測ですが10年も経てば、この種の事件は多発することに成るでしょう。
人は都会に流れ、長男が親を見る風習も崩壊した。
高齢者になっても生活に困らない便利さも手伝って、元気な高齢者だけの世帯は増える一方です。
元気な高齢者世帯の聞こえは良いが、これは老老介護の卵です。
考えなければならないのは命の尽きる前の数年です。
人によりその期間の長短は有りますが、元気な人がある日突然命が尽きるのは極マレで、大半の人が不自由な期間が有ります。
ところが意外とその期間の事を前もって考えている人は少ない。
寝たきり、ボケ状態、病気と、、どんな形になるか解らないのと、自分ではどうにもならないので、考えても仕方ないと思っているのかも知れませんが。。。その時の環境は事前にある程度作る事は可能です。
この妻殺しとなる夫の事を、どんな状態になっても殺す選択は間違いだと言うのは簡単です。
子供・兄弟・友人・親せき・公的機関など、何処でも良いので相談して居れば、こうはならなかった可能性はある。
しかし現実には凶行の直前は、もうすでに正しい判断が出来る状態ではないので実行してしまうんです、誰かに相談なんて考えは思いつかない。
それでは、それより少し前に相談して居れば、、、そんなに良いタイミングは難しけど、仮にそのタイミングで相談したとしても、実行が少し遅くなるだけで解決には至らないでしょう。
まれなケースですが、夫婦が共に同じタイミングで介護が必要になり、施設で暮らす以外なければ老々介護殺人は物理的に無くなります。ところが多くの場合は元気さに差が有り、元気な方が病弱な方を看るようになります。
長年連れ添った夫婦なら当然の流れだと思います。
老人の施設に行けば安心して暮らせると言うのは、介護の役目が嫌な人たちの話で。当人にすれば二度と戻る事の出来ない、死の世界に向かっての片道切符なんです。 三途の川を渡る船の待合室に行くのは、もっと先で良い。
私のこういう考え方は良くないと言う人は大勢います。
家だと怪我をする機会も多いし、意識を失っても誰にも気づかれずそのまま死んでしまう可能性も高いと、、。結果的に老人施設に行った方が長生きできると。。。
確かに言っている事は正しいかもしれません、、、、が。 私の肌感がどうしても受け入れない。
老人施設は一人になって、最後の最後になって他に生きていく方法が無い場合で良いと思っています。
もう両親も亡くなり、介護は私に関係無く考える必要のない事柄となっています。
それでも、この八王子の様に老々介護による悲惨な事件が発生すると
「真面目に生きてきた人が、人生の最後で殺人を犯すことに成り、殺人犯として人生を終えるのはなんともやり切れない」