遂に、1000回を迎えた。
999回の自由記述を振り返るにつけて「人間の業」をつくづく感じる。
「生 老 病 死」 が、人間の根元的 「苦」である。にも拘らず、人は「勝負」「貧富」「嫉妬」「地位」「学歴」「美醜」など生死にかかわらず悩むのか。京都の歴史に登場する権力者は、高貴な生まれで若くして健康的ですぐには死なない人ばかり「生老病死」からは程遠いにも関わらず、満足せず権力や富にこだわり悩む。むしろ莫大な富や強大な権力を持った者ほど悩みが深い事が分かった。
先日、ある本にサラリーマンの一番幸せな年収は、800万ほどだと書いてあった。個人差はあるのだろうが、それ以下だと不満があり、それを越えると減収のリスクに怯えるのだそうだ。年収1億を超える役員・経営者などの苦悩・怯え・不安は、想像に余りある。歴史上の武将・天皇・摂関家の権力者が如何に陰謀・術数を駆使しさらなる高みを目指し、そして潰えたか?決して清廉潔白な権力者はいないのである。善良な人間は貧しい庶民にこそいるのである。
だから、歴史は面白い。
さて、寂光院。
入口
三門迄の石段は、本堂に続く。坂の向こうにどんな景色が広がるか期待を募らせる。
火災時に影響が及ばなかったのか歴史の深みを感じる三門である。創建は推古天皇2年というから聖徳太子の時代だ。父用明天皇の菩提を弔うために自ら地蔵菩薩を建立したものである。
本堂
初代の住職は、聖徳太子の乳母の玉照姫で、2代目は時代を経て阿波の内侍。阿波の内侍は建礼門院に仕えた女官なので一気に平家物語の時代へと飛ぶ。その阿波の内侍は保元の乱で敗れた崇徳天皇の寵愛を受けた女性で建礼門院徳子同様に深い業を背負っていたものであろう。
本堂内部
復元された地蔵菩薩が堂々と見下ろしてくる。撮影ははばかれるが極彩色の見事な色彩である。時代を経て線香の煙でくすんだ仏像も良いが、令和の時代に相応しいとも言える。右奥に阿波の内侍の木造、左奥に建礼門院の木造、そしてその横には安徳天皇の幼いままの木造、いずれも白木の真新しいものが安置されている。様式は飛鳥様式を踏襲するもののまさに平安末期の歴史を映し出したように佇む。焼失するまで、豊臣秀頼・淀君そして家康も再興に手を尽くしてきた。
四面正面の池・池泉回遊式庭園
大原の水は澄んで美しく、こんこんと湧き出る清水は正に大河の源流と思われる。
正に諸行無常の鐘である。その後、西門を越えて建礼門院の御室あとを目指す。
普段は見れないが焼け残った旧本尊のお姿を保存してある。確か東寺の千手観音か八部衆像なども火災の炭化した仏像の表面に特殊な樹脂をコーティングして保存してあると聞く。
井戸跡
庵跡
今上天皇の国母となり栄耀栄華を極めた平家一門の女性が、このような裏寂しい場所に余生を送ったと思うと考え深いものがある。ただ、むしろ心の平和はこの地で得たものと思いたい。そこに生涯権力への妄想を持ち続けた後白河法皇が訪ねて来たのだ。しかし、慰められるべきはむしろ法皇その人だったのかもしれない。敗者が勝者に、勝者が敗者に見えたと想像したい。
名もなき童像と花
宝物殿で展示物を見学した。火災当時の京都新聞が掲示されていた。京都ではトップ記事であったのは当然か。
周辺の景色を愛でながら、受付横の書院で「写経」をして帰ることにした。大広間に一人、木蓮の花を眺めながらひと時その景色と空間を独占し、一心不乱に般若心経を書き写した。京都では、大覚寺・東寺の食堂(じきどう)・泉涌寺塔頭雲龍院などが常時写経場を提供している。ここ寂光院のように訪ねれば写経をさせくれるところがあるのは嬉しい。観光で訪ねるだけでなく約1時間の「無心」を味合うのも良い。
帰りに振り返れば、安徳天皇像がほほ笑むように私を見つめていてくれた。現代の物に溢れて、国内には何の争いもない日本にいて、それでも言いようのない居心地の悪さを感じる私たちが、歴史上一番不幸な天皇に慰められた。そんな気がした。本当に「波の下にも都があった。」のではないか。そのように思ってしばし考えにふけった。
これは木蓮で大丈夫かなあ?
帰りには大原名物のすぐき漬けを買って帰ろう。