アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

602 アチャコの京都日誌 新シリーズ京都100寺巡礼  56番 妙覚寺

2019-04-23 08:49:06 | 日記

56番 妙覚寺

京都市上京区上御霊前通小川東入下清蔵口町135

山号  具足山

開基  日実

本尊  十界曼荼羅

洛中法華21ケ寺

 Myokakuji Kyoto 01.jpg

日蓮宗寺院の厳しい変遷

秀吉が寺院を集中させたのは寺町通だけではない。寺の内通にも多くの寺院を集めた。今出川通りの北、紫竹通りのすぐ南の東西の通りだが、東は烏丸通から西は御前通までの数キロだ。主に西陣辺りを中心にして、特に日蓮宗の寺院が多い。妙覚寺は寺の内から一本北へ堀川通りから東に一筋の小川通りとの交差点にある。本法寺から歩いて数分である。

日蓮宗の日実が鎌倉初期四条大宮に創建し、後に足利将軍の命により二条衣棚に移転する。日蓮宗の法難である「天文法華の乱」で、洛中を追放され堺にのがれた。約10年後、当時の後奈良天皇の綸旨により二条衣棚の旧知に復帰した。そして秀吉の寺の内への移転命令で現在地に移る。以上のような経緯は近辺の日蓮宗寺院の典型的な例である。訪ねた時は上御霊前通りに面した山門の前の枝垂れ桜が見事な枝ぶりだった。広大な境内は月ぎめ駐車場になっていてやや興ざめだが、日蓮寺院の特徴だろうか重厚な本堂が正面に配置されている。因みに、山号の具足山は立本寺と妙顕寺と合わせて「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」という。

本能寺の変

本能寺の変の時に、妙覚寺が登場する。信長が光秀の謀反により本能寺内で応戦の後自害する。長男信忠は、宿泊先の妙覚寺でその報告を受け本能寺に向かうが、光秀軍に殺される。しかし、本能寺も妙覚寺も現在地ではない。本能寺は、蛸薬師堀川から四条通の間の現在の堀川高校辺りである。妙覚寺は当時は衣棚二条だったから、現在地のイメージよりも近い。光秀軍はほぼ同時に攻撃したと思われる。信長の謡曲「敦盛」の舞とか、信忠の「父の危機!馬引け。」というくだりは後世の脚色としか思えない。


602 アチャコの京都日誌 新シリーズ京都100寺巡礼  56番 妙覚寺

2019-04-23 08:49:06 | 日記

56番 妙覚寺

京都市上京区上御霊前通小川東入下清蔵口町135

山号  具足山

開基  日実

本尊  十界曼荼羅

洛中法華21ケ寺

 Myokakuji Kyoto 01.jpg

日蓮宗寺院の厳しい変遷

秀吉が寺院を集中させたのは寺町通だけではない。寺の内通にも多くの寺院を集めた。今出川通りの北、紫竹通りのすぐ南の東西の通りだが、東は烏丸通から西は御前通までの数キロだ。主に西陣辺りを中心にして、特に日蓮宗の寺院が多い。妙覚寺は寺の内から一本北へ堀川通りから東に一筋の小川通りとの交差点にある。本法寺から歩いて数分である。

日蓮宗の日実が鎌倉初期四条大宮に創建し、後に足利将軍の命により二条衣棚に移転する。日蓮宗の法難である「天文法華の乱」で、洛中を追放され堺にのがれた。約10年後、当時の後奈良天皇の綸旨により二条衣棚の旧知に復帰した。そして秀吉の寺の内への移転命令で現在地に移る。以上のような経緯は近辺の日蓮宗寺院の典型的な例である。訪ねた時は上御霊前通りに面した山門の前の枝垂れ桜が見事な枝ぶりだった。広大な境内は月ぎめ駐車場になっていてやや興ざめだが、日蓮寺院の特徴だろうか重厚な本堂が正面に配置されている。因みに、山号の具足山は立本寺と妙顕寺と合わせて「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」という。

本能寺の変

本能寺の変の時に、妙覚寺が登場する。信長が光秀の謀反により本能寺内で応戦の後自害する。長男信忠は、宿泊先の妙覚寺でその報告を受け本能寺に向かうが、光秀軍に殺される。しかし、本能寺も妙覚寺も現在地ではない。本能寺は、蛸薬師堀川から四条通の間の現在の堀川高校辺りである。妙覚寺は当時は衣棚二条だったから、現在地のイメージよりも近い。光秀軍はほぼ同時に攻撃したと思われる。信長の謡曲「敦盛」の舞とか、信忠の「父の危機!馬引け。」というくだりは後世の脚色としか思えない。


601 アチャコの京都日誌 新シリーズ京都100寺巡礼  55番 本法寺

2019-04-22 10:09:10 | 日記

 55番 本法寺

京都市上京区小川通寺之内上る本法寺前町617

山号  叡昌山

宗派  日蓮宗

本尊  三尊像

開基  日親

洛中法華21か寺

 

鍋かむり日親

上京区堀川通寺の内を中心に200m以内に、三千家と日蓮宗の重要寺院が集中する。京都駅から堀川通りをまっすぐ北に30分ほどバスに揺られると着く。堀川通りからも入山できるが、一旦寺の内通りを東に一筋歩き、小川通りを北に曲がると令和の時代から江戸時代に一気にさかのぼる。右手に裏千家の茶室「今日庵」の玄関があり常に打ち水が打たれたような清潔感が漂う。心なしか会話の声も小さくなる。その向かい側に本法寺の山門がある。

洛中法華本山21ケ寺の中でも有力寺院である。開山の日親は、「鍋かむり日親」と呼ばれた。室町将軍義教に、「立正治国論」をもって直訴した。要は、法華宗を採用しないから世の乱れが治まらないのだと主張した。現代でも宗論になると他宗教批判の多い日蓮宗だが、当時は一層過激であったようで、その後「天文法華の乱」において洛中から日蓮宗は一時消える事になる。日親は焼けた鉄鍋を頭にかぶる酷刑を受けたこともある。それでも主張を曲げず「鍋かむり日親」と言われた。寺の見所は、本阿弥光悦の庭園と長谷川等伯の絵画である。

 

等伯と光悦 

山門は東に向いて立つが、本堂は南面している。その前を通り庫裏に受付がありそこから方丈内を順路に従い見学する。まず、京都三大涅槃図の一つ等伯の「佛涅槃図」を見る。この時期は実物を拝見できると言うので来てみたのだが、幅6m高さ10mの大作だ。2階部分が吹き抜けになっていて2階部分から全体を眺める。長男の久蔵が狩野派に所属し修行していたものの急死する。その悲しみの中、一心に描いたのがこの作品だ。涅槃図には定番の釈迦の母摩耶夫人が描かれていないのが切ない。大作にも関わらず微妙な遠近法など細かい技法が駆使されている。

また、「巴の庭」とよぶ本阿弥光悦作の庭園は、日親に深く帰依した光悦の父親の縁から本法寺の伽藍整備の支援を行い光悦が庭園を造った。巴の解説がパンフレットに書いてあるが、年数を経て分かりにくくなっている。ただ、手入れの行き届いた優美な庭を眺めるだけで心が洗われる。

また、方丈正面には「十(つなし)の庭」があり白砂に九つの石が配置されている。十ではなく九の石だが、あと一つは心の中の「意思」だと言う。奥深い。

日蓮宗の苦難の歴史と等伯や光悦の芸術性を感じながら堀川通りに出て、妙覚寺に向かう。


599・600 合併号 アチャコの京都日誌 新シリーズ京都100寺巡礼  53番 聚光院  54番 真珠庵

2019-04-19 10:11:16 | 日記

53番 聚光院

京都市北区紫野大徳寺町58

開基  三好善継

 「聚光院」の画像検索結果

54番 真珠庵

京都市北区紫野大徳寺町52

開基  一休宗純

「真珠庵」の画像検索結果

三千家ゆかりの聚光院

 

大徳寺は、山門である金毛閣など自由に眺める事は出来るが、塔頭寺院についてはその時に拝観できる寺院が受付で表示されている。大体の寺院が拝観できないので注意して行く。なお、塔頭寺にはほぼ全部に茶室があり「大徳寺の茶面(ちゃずら)」と呼ばれる。因みに、建仁寺は「学問面」、妙心寺は「ソロバン面」、南禅寺は「武家面」などである。境内最北にあるのが、芳春院で加賀前田家の寺だ。利家の妻まつの法名が寺院の名前になっている。その南に大仙院、さらに南西方向に聚光院がある。寺名は三好長慶の法名であり三好家の菩提寺だが、茶道三千家の墓があることで有名だ。重要文化財の茶室「閑隠席」の一室は利休自刃の部屋とも言われる。また、方丈庭園は利休が石組をしたもので「百積の庭」という国の重要文化財に当たる名勝庭園である。注目は狩野松栄・永徳親子の国宝指定の絵画の数々だ。永徳の「花鳥図」「琴棋書画図」松栄は「瀟湘八景図」「竹虎遊袁図」がある。残念ながら筆者は実物を見たことはない。

一休さんゆかりの真珠庵

 

真珠庵は、当ブログではおなじみの一休宗純を開祖としている。一休さんは、トンチで有名だが実は大徳寺を復興させた功績で今日まで言い伝えられているのだ。真珠庵も茶室と庭園が見どころだ。茶室は金森宗和好みの「庭玉軒」であり、庭園は侘茶創設者の村田珠光作と伝わる「七五三の庭」だ。禅の極意を現わす七五三の石を配置した枯山水庭園である。国宝は、「大燈国師墨蹟」だが、真珠庵の凄いのは重要文化財の豊富さである。画僧墨渓や長谷川等伯の襖絵など国宝級のものが多い。また、一休禅師ゆかりの墨蹟・絵画・木像などあり時々一部公開している。一休さんの墨蹟で「諸悪莫作(しょあくまくさ)衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)」は、悪い事はするな、良い事をせよという意味らしい。「そんなことは分かっています。」と弟子が言ったら、一休さんが「喝!わしは未だに出来ていない。」と言ったと聞いた事がある。

「諸悪莫作」の画像検索結果

先日公開日がありうかがったら、「釣りバカ日誌」の北見けんいち氏の漫画や、テレビゲームのアートディレクターのイラストなど現代芸術の襖絵が公開されていた。たまに、本来の襖絵の修復中などに現代作品の展示に使われる事がある。まさに「今風」だが、なぜか古刹の方丈にも相応しく見えた。古風な風景と共に楽しんだのだった。

「真珠庵」の画像検索結果北見けんいち氏作品


598 アチャコの京都日誌 新シリーズ京都100寺巡礼  52番 大仙院

2019-04-18 10:40:00 | 日記

52番 大仙院

 「大仙院庭園」の画像検索結果

京都市北区紫野大徳寺町54-1

宗派  臨済宗大徳寺派北派

開基  古嶽宗亘

本尊  釈迦牟尼仏

大徳寺塔頭

大徳寺は誰でも知っている。京都市内北大路堀川と千本通の中間あたりなので、京都駅からバスで30分、タクシーなら20分ほどで着く。境内は自由に通行できる。京都市内ではよくある光景だが、地元の人には生活道路でもあり堀川通り方面から紫野高校へは大徳寺内を通り抜けるのが近道である。賢そうな女子高生が寺院の境内を笑顔で通り抜けるのは絵になる。いくつかその塔頭を訪ねる事にする。

主な塔頭寺院を整理する。

塔頭寺院

創建・所縁

茶室

書院

絵画など

その他

大仙院

古嶽宗亘

特別名勝庭園

方丈(国宝)

大燈国師墨蹟

大徳寺北派

黄梅院

春林宗叔

昨夢軒

 

雲谷等顔

 

高桐院

細川三斎

松向軒

意北軒

 

袈裟型の手水鉢

孤篷庵

小堀遠州

忘全席

直入軒

 

露結 の手水鉢

聚光院

茶道三千家

閑隠席枡床席

 

狩野永徳・松栄

 

真珠庵

一休宗純

庭玉軒

通僊院

長谷川等伯

 

龍光院

黒田長政

密庵

 

 

耀変天目茶碗(国宝)

 大仙院

「大仙院庭園」の画像検索結果

塔頭一番の格式は大仙院だ。大徳寺北派の総帥で本堂方丈は国宝である。大徳寺では最古の客殿遺構で創建当時の姿をとどめている。「玄関」とか「床の間」と呼ばれる国内最古の建造物である。庭園も国宝扱いで国の特別名勝に指定されている。枯山水庭園は禅の心を現わす奥深いものだが、本稿はそれを語るのが目的ではない。禅僧から「喝」が入るだけだ。

ただし、国宝の方丈と特別名勝の庭園の組み合わせは、創建以来のものであり大変貴重である。南側は「大海」を現わし、西側の白砂の簡素な庭、そして東側にまわると大河を現わす大きな枯山水庭園が広がり廊橋をまたいで数々の石組の変化が楽しめる。平安時代に書かれた「作庭記」(橘俊綱)にあるような技法が使われているらしい。一説には草木のない枯山水になったのは明治以降だと言われる。

何も考えずしばし幽境の世界に浸りたい。