56番 妙覚寺
山号 具足山
開基 日実
本尊 十界曼荼羅
洛中法華21ケ寺
日蓮宗寺院の厳しい変遷
秀吉が寺院を集中させたのは寺町通だけではない。寺の内通にも多くの寺院を集めた。今出川通りの北、紫竹通りのすぐ南の東西の通りだが、東は烏丸通から西は御前通までの数キロだ。主に西陣辺りを中心にして、特に日蓮宗の寺院が多い。妙覚寺は寺の内から一本北へ堀川通りから東に一筋の小川通りとの交差点にある。本法寺から歩いて数分である。
日蓮宗の日実が鎌倉初期四条大宮に創建し、後に足利将軍の命により二条衣棚に移転する。日蓮宗の法難である「天文法華の乱」で、洛中を追放され堺にのがれた。約10年後、当時の後奈良天皇の綸旨により二条衣棚の旧知に復帰した。そして秀吉の寺の内への移転命令で現在地に移る。以上のような経緯は近辺の日蓮宗寺院の典型的な例である。訪ねた時は上御霊前通りに面した山門の前の枝垂れ桜が見事な枝ぶりだった。広大な境内は月ぎめ駐車場になっていてやや興ざめだが、日蓮寺院の特徴だろうか重厚な本堂が正面に配置されている。因みに、山号の具足山は立本寺と妙顕寺と合わせて「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」という。
本能寺の変
本能寺の変の時に、妙覚寺が登場する。信長が光秀の謀反により本能寺内で応戦の後自害する。長男信忠は、宿泊先の妙覚寺でその報告を受け本能寺に向かうが、光秀軍に殺される。しかし、本能寺も妙覚寺も現在地ではない。本能寺は、蛸薬師堀川から四条通の間の現在の堀川高校辺りである。妙覚寺は当時は衣棚二条だったから、現在地のイメージよりも近い。光秀軍はほぼ同時に攻撃したと思われる。信長の謡曲「敦盛」の舞とか、信忠の「父の危機!馬引け。」というくだりは後世の脚色としか思えない。