アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

594 アチャコの京都日誌 新シリーズ京都100寺巡礼 番外  長講堂

2019-04-13 18:17:52 | 日記

番外 長講堂

 

京都市下京区富小路通五条下ル本塩竈町

正式名 法華長講弥陀三昧堂

宗派  西山浄土宗

開基  後白河法皇

本尊  阿弥陀如来三尊像

 

 

法皇忌

昨日4月13日は、希代の策士家である後白河天皇(法皇)の命日である。その日を「法皇忌」という。長講堂を訪ねて来たので番外とし後日番号をつける。

後白河法皇はアチャコの京都日誌には度々登場する大物である。皇室の歴史上稀有の存在感があった。何しろ父の鳥羽天皇との確執から始まり、源義朝や平清盛などの源平の武将を手玉に取った。信念など微塵もなく皇室と自らの権力の継承だけを唯一の判断基準とした。その一方、「梁塵秘抄」という今様(現代の流行歌のようなもの)の集大成を書き残してもいる。加えて神社・寺社も多く創建し神教・仏教への帰依も深かった。三十三間堂(蓮華王院)は清盛からの寄進により出来たものだが、法皇の文化・宗教活動の発信基地でもあった。

今回の長講堂は、仙洞御所(上皇の御所)内の持仏堂であったものを、秀吉の時代に現在地の六条富小路に移されたが、創建当時は相当広大な敷地にあったと思われる。本日窺った長講堂は周囲20m四方の一般的な檀家寺の趣である。門を入ると正面に本堂、左に書院。質素な庭園の右には後白河法皇像の安置されている御影殿となっている。普段は拝観は行われず、観光寺院とは一線を画している。書院から本堂に通ると、御本尊の阿弥陀三尊像の前に50人ほどの信者さんがいて法要読経中であった。ちょっと親戚の多いご家庭の法事と言った感じで、とても後白河法皇の法要とは思えない。むしろそれが厳かな感じがして良い。筆者は片隅から丈六の阿弥陀如来を拝む。しっかりと黄金の輝きが残っていて輝いて見えた。創建当時のものであるが、光背は江戸時代に作り直したと言う事で残念ながら重要文化財指定のようで、筆者は国宝で良いのではないかと思う。書院の奥一段高い貴人席の背後には、後白河法皇御真影(模写)が掛けてあった。よく本で見る馴染みのお姿である。その他掛け軸や拓本された石碑の文字を表装した襖など寺宝の多さがうかがえる。

 

 希代の傑物でも晩年は・・・・。

中庭は狭いが整った枯山水庭園である。因みに茶室は「亭雲」筆者は、寺の方に「停電」と読んで顰蹙をかった。一度出て、御影殿の方へまわり手を合わせる。桃の花が一木に赤とピンクの花を同時に咲かせていた。しばし受付の妙齢なご婦人と談笑し短い時間だが、落ち着いた時間と空間を堪能した。最後に、寺宝に「過去現在牒」というものがあるとお聞きした。法皇が歴代天皇を始め、義朝・清盛始め数々の法皇が関わった人物の名が直筆にて羅列されているものである。その中には歴史に名もない庶民の名もあり権力の闘争に生きた法皇が死に臨み本来の優しい人格を取り戻したのだと思いたい。周辺の佇まいも特別なものはなく一般的な住宅地にある。法皇の御陵のある大和大路七条の法住寺もそうだが巨大寺院でないところが良い。

京都地下鉄五条駅から10分だが、普段は門の前から拝むしかないので念の為。


593 アチャコの京都日誌 新シリーズ京都100寺巡礼 48番 常照寺

2019-04-13 09:34:00 | 日記

48番 常照寺

 

京都市北区鷹峯北鷹峯町45

山号  寂光山

宗派  日蓮宗

開祖  日乾 本阿弥光瑳

本尊  三宝尊

別称  鷹峯檀林

 常照寺.jpg常照寺本堂

光悦村にある寺

鷹峯のこの辺りは、光悦村と呼ばれている。江戸時代初め京都の芸術家の頭目である本阿弥光悦は、家康からこの地を拝領し一大芸術村を構築した。源光庵の近所には、光悦寺と常照寺という寺院があるがいずれも本阿弥家の寺である。

「光悦寺」の画像検索結果
光悦寺入り口

光悦寺は、光悦の死後その庵を寺にしたもので多数の茶室と庭が楽しめる。また、光悦垣という生垣も有名である。境内一番奥の茶室からは、鷹峯三山の鷹峯、鷲ヶ峰、天ケ峯を一望できる絶景ポイントとなっている。筆者は、そのエントランスに注目したい。幅1mほど奥行き数十mの紅葉のトンネルを山門に向かう参道は、京都一の寺院エントランスだと豪語している。

「吉野門」の画像検索結果

𠮷野門

一方、今回の主役、常照寺の方は、光悦の子の光瑳(こうさ)の創建である。しかし有名なのは、江戸時代伝説の遊女吉野大夫ゆかりの寺であることだ。豪商灰屋紹益が身請けし若くして亡くなった。美人薄命の典型である。入り口の山門は𠮷野門と言われ、大夫の寄進であり今でも朱色が鮮やかに残る。また、境内奥の茶室には「吉野窓」と言われる底辺がやや欠けた丸窓がある。完全な悟りの境地ではなく未だ俗世間に未練を残す女の情念が表されている。

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吉野窓

檀林とは

本堂正面には「鷹峯檀林」と大きな扁額がかかっている。実質開基の日乾(日蓮宗)がここを檀林(学寮)とした。今で言う学校である。「檀」とは、栴檀、白檀の檀であり香しい植物の事のようで、檀那の檀も同じ漢字だ。梵字で「ダン」を現わす文字としてよく使われる。一方、「壇」は、土を盛った拠点のような意味で、天壇など地名に多く出て来る。壇蜜は「壇」。檀ふみ・檀れいは「檀」なのだ。因みに、「庵」は「菴」でも良いが表千家の茶室「不審菴」だけは「菴」でなければいけない。また京都岡崎の山縣有朋の無鄰菴の「隣」は「隣」でも「鄰」でも良い。さらに斎藤の斎は、それぞれ本人に聞かなくてはならない。今熊野は新熊野でも(いまくまの)と読む・・・・。以上、読者には関心がない事を書いた。(泣)