アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

583 アチャコの京都日誌 新シリーズ京都100寺巡礼 38番 穴太寺

2019-04-01 16:22:23 | 日記

38番 穴太寺

 

亀岡市曽我部町穴太東辻46

山号  菩提山

宗派  天台宗

開基  文武天皇(勅願)

本尊  薬師如来

穴太寺本堂 

 

亀岡の里にひっそりと佇む古刹 武家屋敷の名残が窺える。

今回は、ちょっと足を伸ばして亀岡の古刹に行く。JR亀岡駅から車で15分、京都縦貫道亀岡インターから10分ほどで穴太寺がある。創建は奈良時代文武天皇の時だ。

狭い境内は出入り自由だが、本堂と庭園には拝観料がいる。早速本堂に上がり身代わり観音の前に立つ。秘仏なので前立を拝む。本尊の薬師如来も秘仏でこちらは公開の予定もない完全秘仏である。正面右奥には、明治になって発見された寝姿の釈迦如来の木造がある。北枕で横になり布団まで掛けられていて、いわば仏像の涅槃図であり大変貴重なものである。自分の悪い所を撫でて自分のそこに当てるとよくなるらしい。発見されるまで屋根裏に隠されていたものを、信者の霊夢に従って発見された。

方丈の庭も手入れが大変行き届いている。武家屋敷を転用したもので、隠し部屋があるなど手の込んだ構造である。山門横の多宝塔を借景にした池泉回遊式の庭園は亀岡屈指の名勝となっている。

ちょうど梅の満開の時で、境内にはアマチュア写真家が多く三脚を建てていた。完成度の高い古刹である。

「穴太寺 亀岡」の画像検索結果寝姿のお釈迦様

「身代わり観音」悪人も改心させる観音様の慈悲

見たかったのは、「身代わり観音」である。今昔物語集に以下の話が伝わる。昔(室町時代か)強欲な宇治宮成と言う人が信心深い妻の勧めで金色の観音像を京の仏師に彫らせた。お礼に愛馬を渡すが急に惜しくなり、帰り道待ち伏せしてその仏師を射殺した。ところが帰って見るとくだんの観音様の胸に自分の矢が刺さり血が滴り、観音様の目には血の涙が出ていた。仏師と、罪びとになる自分の両方を助ける為に身代わりになったのだった。罪を悔いた宮成は、このお寺の薬師如来のそばにこの観音様を安置した。秘仏で33年に一回の御開帳があるらしいが、本当に胸に矢傷が残っているとの事である。

 

京都観光スケジュールのサンプルを作ります。

希望地域と年齢層などお教えください。

akifa@aria.ocn.ne.jp  まで

 

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582 アチャコの京都日誌 新シリーズ京都100寺巡礼 37番 粟生光明寺

2019-04-01 09:04:32 | 日記

37番 粟生光明寺

 

長岡京市粟生西条ノ内26-1

山号  報国山

宗派  西山浄土宗

開基  蓮生  

開山  法然

本尊  阿弥陀如来

 

光明寺阿弥陀堂に抱かれ眠りたい。贅沢な静寂を与えてくれる寺。

三鈷寺から山を下ればすぐに丹波街道との交差点を南に入れると大きな駐車場が見えて来る。阪急長岡京市駅からはタクシーで15分ほどだ。特に紅葉の名所なので、その季節にはシャトルバスが出る。

光明寺という寺名は多いので、粟生の里にあることから「粟生光明寺」という。法然の念仏根本根元の地である。熊谷直実が源平合戦の折り、源氏の大将として参戦、一の谷の合戦の時、平家の公達の兜首を取るが、見るとまだ少年と見える若い敦盛であった。人の無常を知った直実は、金戒光明寺で出家しこの地に入って、念仏三昧堂を建立した。光明寺の実質の始まりである。

大きな山門をくぐるとまっすぐ石段の表参道があり、左に曲がると紅葉坂というなだらかな参道と二通りある。いずれも紅葉の季節には絶景の赤いトンネルが出来る。

このお寺の魅力は、阿弥陀堂・御影堂共に自由に上がれて観光シーズンを避けて行けば静かな堂内でゆっくりひと時を過ごせる。夏の昼下がり広い阿弥陀堂の高縁にしばらくマッタリとした事がある。筆者の大学時代の唯一無二の親友は、「光明寺阿弥陀堂に抱かれて眠りたい。」と、書き残している。そして、何とその通り今ここに永遠に眠っているのだ。

法然の念仏への信念を込めた「張り子の御影」37bann 

法然の愛弟子に、住連坊・安楽坊という美声・美男子の僧がいた。そこに後鳥羽上皇の女官の鈴虫姫・松虫姫二人が、上皇の留守中に出家するという事件が起こった。怒った上皇は僧二人を死罪にし関係者の処分を行う事となった。事件は仏教界旧勢力が法然の専修念仏へ反発した為もあったのだ。法然自身は四国への流罪が決まった。その際弟子から「何か形見になるものを、」と所望された時、懐から自分の母からもらった手紙を出し、それを水に浸し自分の姿に似せて御影を作ったという。13歳で出家した時の手紙をその時75歳であった法然は、大切に肌身離さずもっていたものである。それを弟子に託し、専修念仏への強い信念を示したのであろう。長く嵯峨の二尊院にあったものを現在ここに安置されている。

この事件は後世、「建永の法難」と呼んでいる。

その「張り子の御影」が、御影堂奥に安置されている。それを遠目に拝むのである。

 

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