アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

553 アチャコの京都日誌 新シリーズ京都100寺巡礼 ⑨ 西福寺

2019-02-23 08:39:06 | 日記

9番 西福寺

 

東山区松原通大和大路東入ㇽ二丁目轆轤町81

正式名 桂光山敬信院

創設  蓮性和尚 

宗派  浄土宗

本尊  阿弥陀如来

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正伝永源院から花見小路に戻り、建仁寺の中を南に通り抜ける。京都の大きな寺院は境内が生活道路になっている事が多く、建仁寺も祇園から五条清水坂や六波羅辺りに抜けるには便利だ。

六道珍皇寺に立ち寄り、すぐ近くの西福寺を訪ねる。この辺りは京の葬送の地である鳥辺野の入り口に当たる為、昔からあの世とこの世の境目とされた。六道珍皇寺には有名な平安初期の公卿、「小野篁冥途通いの井戸」がある。その井戸を通じて地獄の閻魔大王にも仕えていたという。そして、西福寺当たりの辻が、まさにあの世との境目だ。轆轤町と言う町名が物語る。

西福寺の有名なのは、檀林皇后「九相図」である。なんと自らの死後の様子を絵に残させたものが残っている。嵯峨天皇の皇后である橘嘉智子(檀林皇后)は、絶世の美女との評判だったが仏教への帰依深く、諸行無常の教えを体現すべく「どのような美女も皮一つ隔てて血と肉の塊であり鳥や獣の餌となり腐乱し白骨化して土に還るのみ」と、自らの遺体を埋葬せず路傍に放置させて、その変化を絵にさせた。9段階の変化を「九相図」と言う。

以下がその9段階、ウキベディアより

1.     脹相(ちょうそう) - 死体が腐敗によるガスの発生で内部から膨張する。

2.     壊相(えそう) - 死体の腐乱が進み皮膚が破れ壊れはじめる。

3.     血塗相(けちずそう) - 死体の腐敗による損壊がさらに進み、溶解した脂肪・血液・体液が体外に滲みだす。

4.     膿爛相(のうらんそう) - 死体自体が腐敗により溶解する。

5.     青瘀相(しょうおそう) - 死体が青黒くなる。

6.     噉相(たんそう) - 死体に虫がわき、鳥獣に食い荒らされる。

7.     散相(さんそう) - 以上の結果、死体の部位が散乱する。

8.     骨相(こつそう) - 血肉や皮脂がなくなり骨だけになる。

9.     焼相(しょうそう) - 骨が焼かれ灰だけになる。

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拝観はお盆の時など限定される。その時にその絵は掲げられる。ぞっとする事間違いない。周辺の霊気漂う雰囲気も合わせて味わいたい。

次は、法住寺へ


552 アチャコの京都日誌 新シリーズ京都100寺巡礼 ⑧ 正伝永源院

2019-02-22 08:49:26 | 日記

8番 正伝永源院

 

東山区大和大路通四条下がる小松町586

正式名 建仁寺塔頭

創設  正伝院 

宗派  臨済宗

本尊  

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祇園花見小路を四条通から南下し建仁寺の西手前にあるのが正伝永源院。大勢の観光客で賑わう情緒あふれる通りから一筋西にひっそりと存在する。正伝院と言う寺と永源庵と言う寺の合併寺院である。何か、三井住友、三菱UFJが頭に浮かぶのは筆者だけか。

本堂の中心には、右に「正伝院」左に「永源庵」と扁額が並ぶ。永源庵は、南北朝時代の建仁寺第39世の無涯が創建し守護大名の細川頼有が深く帰依した。その為代々の細川氏との関係性は現代まで続く。正伝院の方が古く鎌倉時代に中国僧普覚禅師が創建した。長く荒廃していたのを織田有楽斎が再興し、隠居所と茶室「如庵」が建てられた。その後、明治時代の神仏分離令での廃仏毀釈の大混乱の中、正伝院に永源庵を寄せる形で両寺院は統合した。時の細川伯爵の計らいで寺名に永源庵を残す意向で正伝永源院と決まった。

因みに、その時の混乱の中で多くの寺宝が他所に流出した。国宝茶室「如庵」も現在のはレプリカである。それでも文化的遺物は多く、織田有楽斎像や細川頼有像始め狩野山楽の襖絵などは有名だ。

中でも必見は、細川護熙作の襖絵だ。平成25年に24面の大作が奉納された。第79代内閣総理大臣というより芸術家だったのだ。最初から芸術家で良かったのに・・・・。

因みに、庭も見事で心字池を中心に紅葉などの配置が絶妙だった。拝観は季節限定なので注意が必要だ。

 

次は、西福寺へ


551 アチャコの京都日誌 新シリーズ京都100寺巡礼 ⑦ 仲源寺

2019-02-21 08:43:51 | 日記

7番 仲源寺

 

東山区四条通大和大路東入ル祇園町南側585-1

正式名 寿福山仲源寺

創設  定朝(仏師)

宗派  浄土宗

本尊  千手観音座像(重要文化財)

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木屋町通から四条通に出ると、京都一番の繁華街だ。東(左)に曲がり八坂の西門を目指す途中に仲源寺はある。気づく人も少ないが、眼病の御利益がある。

京には「洒落(言葉遊び)」のお寺が多い。上京区の石像寺では、八寸釘とくぎ抜きを貼りつけた絵馬が奉納される。「くぎぬき」(釘抜き)と「くぬき」(苦抜き)の洒落である。こちらは、以下の逸話による。

平安中期創建のこのお寺は、当初鴨川のすぐ近くにあった。鎌倉時代大雨が続き、鴨川が氾濫した時、こちらの本尊の地蔵尊に雨やみを祈願したところたちまち雨は止んだ。そこで防鴨川使が中原氏であった事から朝廷より「仲源寺」の寺名を頂いた。「あめやみ」(雨やみ)から「めやみ」(眼病み)の洒落で、眼病地蔵に転じた。

境内は狭く自由に出入りできるが、本尊の地蔵様を拝み本堂右手の千手観音坐像の前に佇むとその大きさに圧倒される。重要文化財指定だが、定朝の作が確かなら国宝でも良いのではないか。

また、頭上に奉納された提灯の多さに驚くが、ほとんどが周辺のお茶さんか芸子・舞妓の名前が連なる。山門の上には、「好晴奇雨」は、中国の詩で、(雨のときには奇観をなし、晴天の景色もまたよいこと)と言う意味である。

 

次は、正伝永源院へ


550 アチャコの京都日誌 新シリーズ 京の100寺巡礼 ⑥ 瑞泉寺

2019-02-20 08:58:09 | 日記

6番 瑞泉寺

 

中京区木屋町三条下ル石屋町114-1

正式名 慈舟山瑞泉寺

創設  立空桂叔・角倉了以

宗派  浄土宗西山禅林寺派

本尊  阿弥陀如来

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寺町通りを南に歩き御池通りにぶつかれば、東に曲がり鴨川を渡れば木屋町通りを南下する。三条大橋の南東に瑞泉寺がある。こちらは関白豊臣秀次の供養の寺である。江戸時代初期、角倉了以が高瀬川開削の折りに、地中から石碑を見つけたところ「秀次悪逆塚文禄4年・・・」と彫られている。筆者が晩年の秀吉を好きになれないのはこのような事からである。秀吉は自らの子が出来ない事を悟ると実の姉の長男を後継者として関白の地位まで押し上げた。孫七郎と呼んで可愛がった数少ない親族をここまで陥れるだろうか。しかも一族・妻妾もろとも斬首して三条河原に埋めたのだ。

秀吉存名中は、世間は遠慮して「畜生塚」と呼んでいたのが、鴨川の氾濫で崩壊した。高瀬川開削時に散らばっていた遺骨を角倉了以と僧の立空が、弔った。それが瑞泉寺の由来である。

木屋町通りから山門をくぐると、狭い境内に秀次供養塔と、殉死した家臣10名と妻妾たち39名に加え秀次の幼児の供養の為五輪の卒塔婆が建てられている。中央の石碑は「秀次悪逆」の文字は了以によって削り取られている。叔父秀吉こそが悪逆と言いたいが、太閤と称えられ現代においても英雄の秀吉の負の遺産である。

寺名の瑞泉寺は、秀次の法名瑞泉院による。

 

次は仲源寺へ


549 アチャコの京都日誌 新シリーズ 100寺巡礼 ⑤行願寺

2019-02-19 09:00:35 | 日記

 

5番 行願寺(革堂)

 

中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町17

正式名 霊麀山(れいゆうさん)行願寺

創設  行円

宗派  天台宗

本尊  千手観音

 

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行願寺の創建は、平安時代で創建当時の誓願寺近く現在の御所の東辺りにあった。革堂町や革堂辻子という名に痕跡を残している。他の寺院と同様に秀吉の政策によって、御所東の荒神口辺りに移転し、火事により現在の地寺町通竹屋町に来た。

創建した行円は、以前狩猟を生業にしていた時、大きな雌鹿を射殺したところ腹から小鹿が産まれて来た。殺生は悪行と悟り僧籍に入る。その鹿の革を被って布教した為世間では革の聖と呼んだ。いつしか寺も革堂として親しまれる。

有名な「幽霊絵馬」には以下の伝承が残る。行願寺の前の質屋に奉公していた子守の娘が、毎日お経を聞くうちに「法華経お題目」を覚えた。しかし法華経をこころよく思わない質屋の主人が、殴打したところ娘は命を落とした。慌てた主人は遺体を蔵に隠した。何も知らない両親が弔いをしていたら、蔵の中から娘の幽霊が出てきて真相を語る。たちまち主人は牢獄に・・・・・。絵馬には、娘遺愛の鏡がえがかれている。

西国33か所19番、洛陽33か所観音霊場3番札所。また、境内には、都七福神の寿老人も祀られる。小さな境内だが、札所が重複していて賑わう。

次は、瑞泉寺へ。