アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

543 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 追加 北朝5代

2019-02-07 15:44:35 | 日記


付録 北朝
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「北朝」の画像検索結果

 

現在南朝が正統な皇統とされている。これには様々な経緯がある。南北朝騒乱を語る「太平記」には、「神武天皇以来の95代後醍醐天皇の御代に、」と書き始めるので、現在の96代後醍醐とはやや違う。後に南北朝合一の折り、99代の南朝の後亀山天皇に続き100代後小松天皇としているので、北朝の血統で繋いでいる。それが、江戸時代中期に水戸学・国学によって三種の神器を受け継いだ南朝が正統とされた。明治以降しばらくは南北朝並立で記載された時期もあったが、明治44年国会の議論を経て、明治天皇勅裁という形で南朝正統に決まった。

その時から、北朝5代の天皇は悲しくもリストから外された。その天皇たちを紹介する。

①   北朝初代 光厳天皇

在位 1331年~1333年 

父 後伏見天皇 

宝算 52歳  山國陵

 筆者は、この天皇が歴代天皇に数えられていないのは理不尽と考える。明治維新後、神国日本の国づくりを推し進めるあまり、極端な皇国史観から逆賊足利尊氏、英雄楠木正成の構図を作り上げる過程で光厳天皇の存在が薄められた。

光厳天皇は、後醍醐天皇から正式に三種の神器を譲り受け即位している。後に「あれは偽物であった。」と、後醍醐天皇に言われたが、そんなことは関係ない。時の天皇が保持している物が「神器」なのである。

1331年鎌倉倒幕計画が発覚した後醍醐天皇が隠岐に流される前に、幕府の推挙により即位した。しかし、1333年隠岐を脱出した後醍醐の詔により廃された。その時後醍醐天皇は、「朕の皇太子の地位を退き、皇位には就かなかったが、特に上皇の待遇を与える」とし、何と即位そのものを否定した。これをもって光厳上皇という。北朝2代の弟光明天皇の即位までの3年間をどう考えるか?

依然として、光厳天皇の時代とも言える。後醍醐天皇の重祚と考えるか、隠岐の間も天皇であったと考えるか。いずれにしても後醍醐天皇に続き、97代天皇とすべきであろうと筆者は考える。しかし明治時代は、それを許さなかった。帝国議会で足利尊氏についてコメントするだけで更迭された国会議員もいたくらいの時代だったのだ。

光厳天皇は長い上皇時代に、「観応の擾乱」による一時的南朝方の権力回復により、吉野に幽閉されている。その様に誠に理不尽な人生であった光厳上皇は、晩年夢想疎石を師とし禅僧として、京都の奥深い山國の御陵(現在の常照皇寺)に眠った。因みに、この天皇の里内裏「土御門殿」が今日の京都御所である。当初の平安宮の荒廃からやっと今の場所に落ち着く。しかし皇統の落ち着きはまだまだ先だ。

なお、ここに一つのドラマを紹介する。光厳天皇の後、弟光明天皇になるがその後崇光天皇の時、皇太子に直仁親王が宣下される。系図上は叔父花園天皇の皇子となっているが、実は光厳天皇の実子であった。これは「置き文」という後日になって開封し真実を示す為の文章かと思うが、崇光天皇即位時に明らかにされたもので、「光厳上皇宸翰置文」(鳩居堂蔵)に残されている。叔父である花園天皇のお后との密通の上できた子であった。甥と叔母の不倫だ。花園天皇は知っていたと筆者は想像する。そこで崇光天皇は一代限りでその後は直仁親王の血統に継ぐように書かれている。勝手な言い分だが、大恩ある花園天皇への恩返しでもあったと思われる。ちょっとしたドラマだ。因みに、直仁親王は「観応の擾乱」の中で廃太子となり天皇にはならなかった。

②  北朝2代目 光明天皇

在位 1336年~1348年 

父  後伏見天皇 

宝算 60歳  大光明寺陵

建武の親政の破たんと後醍醐天皇への裏切りにより、京都を奪還した足利尊氏は、光厳天皇の弟君の光明天皇を即位させた。従って、光厳天皇と光明天皇とは連続性はない。さらに、後日後醍醐天皇が吉野に逃れて別の朝廷を宣言した為、南北朝時代が成り立ってしまう。よって北朝初代が光明天皇とすべきなのだが、後醍醐天皇は光厳天皇の即位すら認めていない。その南朝を正統な皇統と定めた為、光厳天皇を北朝初代とせざるを得ない。

その様に複雑な不幸な天皇たちである。お二人とも観応の擾乱の一時的な南朝の復権により吉野に捕らえられている。ほとんど政策的功績はないが、「光明天皇宸記」という日記が残っていて、唯一文化的功績と足跡がうかがえる。この天皇も晩年は、禅宗に帰依し仏門に入った。

 

③   北朝3代目 崇光天皇

在位 1348年~1351年 

父 光厳天皇 

宝算 65歳  大光明寺陵

父光厳天皇との複雑な関係は、すでに書いた。大叔父である花園法皇の子である直仁親王が実は、父の実子(つまり異母兄弟)である為、皇太子には直仁親王が就いた。しかし、御不幸な事に「観応の擾乱」の結果、一時的に南朝が京都を回復した為、光厳上皇含めお三人とも大和賀名生に拉致される。そのような事情から、次期後光厳天皇との継続性はない。後日後継者問題で、後光厳ともめる事になる。

その観応の擾乱とは、高師直と尊氏の弟直義との確執から始まる。それが、関東の武士団と直義が一派を形成し、対して師直が尊氏を擁立し畿内の武士団と対峙する。武力で勝る師直が優位の中、尊氏の隠し子直冬と直義が手を組むと一気に師直は滅ぼされ尊氏の息子の義詮と京都を奪還する。しかしその後鎌倉に逃亡した直義を尊氏が成敗する。このような経緯の後、一時的に南北朝和議が成立し崇光天皇は大和賀名生に幽閉される。以上が「観応の擾乱」であるが、詳しく書けば書くほど混乱する。敵が味方に味方が敵になり、南朝北朝が入れ替わり日本史上まれにみる混迷期間である。

④   北朝4代 後光厳天皇

在位 1352年~1371年 

父 光厳天皇 

宝算 37歳  深草北陵

歴代の天皇で、一番ご本人にとって意外な即位であったと思われる。光厳天皇の第2皇子で兄が崇光天皇になっていた。加えて世は南北朝の時代であり、自ら即位の意志はなく、その意欲を見せるだけでも命が危ない時代だ。従って、幼少期に仏門に入る事が決まった。しかし歴史の皮肉で、その後光厳の皇統が南北朝統一の時点まで続く。後光厳が入門するはずだった妙法院は、天台宗5大門跡寺院の一つだ。

足利尊氏のもと、一時的に南朝方に京都の政権が復活し、その後2代目義詮が北朝の復活を果たす折り、南朝方は、北朝方の上皇・天皇・皇太子すべてを拉致して逃げた。仏門に入っていた後の後光厳天皇は奇跡的に逃れて幕府からの要請で即位した。その様な経緯から、三種の神器がなく正統な天皇ではないというコンプレックがあり世間からも軽んじられた。その間、幕府の騒乱は絶えず、宗教界も争いが続く。京洛には盗賊や火付けが横行し果てしない混乱が続いていた。

そして、遂に足利3代将軍義満の登場により収束に向かう。後光厳天皇は自らの皇子である後の後円融天皇に譲ると言い、一時吉野の南朝に捕らわれていた兄の崇光上皇はその皇子(すでに皇太子を廃しされていた。)に譲るよう主張した。それを治めたのが義満で、結局、後光厳天皇の皇子後円融天皇の誕生だ。しかし、後光厳上皇は治天の君(院政)を始めるという矢先に亡くなる。残念ながら政策的功績はない。そして深草北陵に葬られる。この御陵は「深草12帝陵」と呼ばれる89代後深草天皇から伏見天皇、後伏見天皇、そして後光厳天皇とその子後円融天皇、南北朝統一時の後小松天皇、称光天皇、後土御門天皇、後柏原天皇、後奈良天皇、正親町天皇、後陽成天皇と、持明院統の天皇の12名が葬られている。御寺泉涌寺の月輪陵の12名に並ぶ最も多くの天皇が眠る御陵である。(しかし、現在は残念ながら、北朝のお二人は除外されている。)そこまで差別するか??

因みに、後光厳天皇の功績をあえて探すと、皇室の最大の必要能力である生殖力の絶大さだった。このような混乱時でも、記録に残るだけでも18名以上の皇子・皇女を残している。結果として京都の門跡寺院の発展に大きく寄与しているのだ。

⑤   北朝5代 後円融天皇

在位 1371年~1382年 

父 後光厳天皇 

宝算 36歳  深草北陵

父の後光厳上皇と、南朝に捕らわれ帰還した叔父の崇光上皇との確執の中、幕府の推薦で即位した後円融天皇は何かと幕府に守られながらも、若い3代将軍義満とは対抗した。仙洞御所(上皇となった後円融の御所)に訪問に来た義満に面談を許さなかったり、自らの中宮や妃に対して義満との密通を疑い、殴打したり出家させたりしている。しかし、すぐに後悔した後円融上皇は持仏堂に籠り切腹事件を起こしている。切腹事件?「切腹するぞ!!」って、騒いだ程度か?その結果、「治天の君」の権威を貶め、息子の後小松天皇の時代になって統一を果たし義満全盛の時代を迎える。

義満の皇位簒奪説は、この後円融との不仲から発すると言われている。「この方達には政治は任せられない。」と思ったのだろう。これをもって北朝5代が終焉する。滅んだのは南朝なのだが、北朝5代は歴代天皇の皇統に入っていないので、あえて書いた。

さて、ここまで書いてきて南北朝時代の最大のタブーを書く。先に申し上げるが、昭和天皇に戦後日本が、どれ程救われたかは言うまでもない。加えて筆者は今上天皇をこよなく尊敬している事、特に美智子皇后の人徳に我々は憧れを通り越して女神の存在を信じざるを得ない事を明記する。

そこで、明治政府が南朝方を正式皇統とした理由は、神国日本の皇国史観を確立するために、天皇を裏切った足利尊氏を逆賊に、楠木正成を忠臣にすることで、必然的に南朝を正式皇統とした。しかし室町幕府は困窮する南朝を京都の北朝へ吸収する形で統合した。三種の神器の奪還も本音だった。従って当たり前だが、北朝の血筋で天皇を繋いでいった。尊氏を論ずるだけで更迭された閣僚がいた明治時代と江戸以前とは全く認識が違う。説明するまでもなく今上陛下はその血筋である。従って、維新後南朝の血筋と自称するものが次々登場する。熊沢天皇のように「自分が南朝の生き残りで、正統な天皇」と、活動するものまで出て来た。昭和35年の総選挙では、天皇制の廃止を訴える共産党を支持するなど特異な活動をしている。お気づきか?今の天皇家は後醍醐天皇の南朝から皇位を奪った朝廷という事になる。逆賊尊氏とは、言えない。実際、明治政府がその説明に苦慮する様子が残っている。かくて今に至るまでタブーとなっている。その為、天皇家が、歴史研究に興味を持つことがタブー視される。秋篠宮は鯰の研究とか、皇太子は古代ヨーロッパの水路の研究、確か昭和天皇は生物学者として相当な権威であったと記憶する。

それも含めて天皇家の神秘性だ。


番外 年を重ねると「気にいらない事」が多い ④

2019-02-07 09:54:28 | 日記

小学年生の女児が、虐待死した。悪いのは父親だ。とにかく悪いのは父親だ。しかし、テレビのワイドショーはい一斉に、行政の責任を追及している。教育委員会となかんずく児童相談所への非難が集中している。確かに恐怖感を抱かせるモンスターはいる。筆者も職業柄あらゆるモンスターと関わって来た。筆者の元々の職業は証券マンである。個人投資家の投資アドバイスする「株屋」だ。損した客がおとなしくしているばかりではない。中には暴力を振るわんばかりの勢いで脅すやからも多い。暴力団関係者や在日韓国人系列を脅しの材料にするような無茶な客も多い。そのような恐怖感をもって出入りの業者だけではなく、行政などの担当者を意のままに使って来たのであろう。そんなモンスターはいる。悲しいかな他人は、警察に行けば良いのにとか、複数で対応すれば良かったのにとか、簡単に言うが、彼らが与える恐怖感はそのような常識的な判断が出来ない状況に追い込む、その様なテクニックを持っているのだ。

ここで、行政の批判をする前に我々が出来る事を考えたい。自助努力で何とかならないか?近所の付き合いの中で解決できないか。モンスターペアレンツに関わりたくはないが、子供たちを見守る事は出来る。通学時に声をかける外で遊んでいる様子を互いに注意して見る。そもそも外に出て来ない子供がいるのならばその事も重要な情報だ。町内会長や民生委員の機能を実体的に見直し出来ないか。昔いたうるさい近所のおやじはどこへ行ったのだろう。基本的に犯罪の少ない日本なので、交番所の機能も見直しできないか。学校の家庭訪問時のヒヤリングにも専門家の意見を取り入れて危険な兆候を早くキャッチできるようにしたい。

災害時にも、すぐ行政の対応に批判が出るが、そもそも災害時に向けての自助努力をないがしろにしていないか?食料備蓄や緊急持ち出しグッズの整備など、自らの努力を万全に行った上に行政への批判をするなら分かるが、エゴ丸出しの政府批判には怒りを禁じえない。

ただし、国の宝である「子供」の命を守る為、親権への制限もやむない時代に来ているように思う。連れ子であってもわが子への暴力は、一般傷害事件ではなく一方的に子から引き離す強い法整備が必要かと思う。「ひとたび子に手を挙げたらわが子から引き離される。」のである。