55 平安京 55代 通算 104 代 後柏原天皇
在位 1500年~1526年
業績(事件) 困窮の皇室
父 後土御門天皇
別称
死因 病死
御陵 深草北御陵
宝算 63歳
この天皇は最も悲惨だと思う、戦乱の中の皇室は大変だ。
例えば、保元・平治の乱や南北朝の騒乱などは皇室にも原因がある。自業自得な部分もある。一方、応仁の乱から戦国の騒乱はあくまでも武家たちの覇権争いだった。当然、戦火の中で、御所を始めとして洛中が焼失し上納金が集まらない。公家衆も戦火を避けて京都周辺に避難している。そんな折の即位は、即位の礼を行うことが出来ないばかりか、先帝(後土御門天皇)の葬儀すら出来ない。時の権力者の管領細川政元に至っては、「即位の礼に意味などない。」と、言い出す始末だ。永正の乱で、その政元が息子に殺害された。応仁の乱後わずかな平穏を打ち破る同族争いだった。その隙間に、幕府からわずかな献上金で即位の礼を行ったが、即位後22年が経っていた。すでに天皇は晩年であった。
足利義政に、銀閣寺をつくる贅沢が許されたのが、わずか数十年前、そして後水尾天皇が修学院離宮を造営する破格の散財が、100年ほど後だ。後柏原天皇は、過酷な天皇の時代の入り口にいた。
しかし、やはりこの困窮の中でも「般若心経」の写経により、天皇は国民の幸福を祈った。それしか出来ない。いや、それが出来る唯一の存在が天皇であった時代だ。
深草北御陵には、以上の12人の天皇が葬られている。
ご覧の通り、持明院統(北朝)の皇統にある天皇たちの御陵である。ただし、後小松天皇以降は南北朝は統一されている。そのわずか3代後の後柏原天皇の時代になると、皇位を争うほどの魅力(権力)は、もうなかったのだ。諡号の後柏原は、桓武天皇の別称柏原天皇に因んでいる。皇室の権威回復の願いを込めたものか、何とも悲しい。