アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

第7回 海北友松  建仁寺

2017-03-31 09:53:38 | 日記

善の心

 

海北友松 建仁寺
※ 今年は、海北友松のブームへ??
 昨年(16年)は、「本能寺の変」の真相を探る研究のブームとも言えた。その中で、明智光秀の筆頭武将である斎藤内蔵助の妹の嫁ぎ先である「長曾我元親と織田信長の約束」が話題になった。即ち「四国切り取り次第の事」(四国は全部元親の思い通りにして良い。)しかし、信長が、天下統一を前に約束を反故にした為、内蔵助が、本能寺での謀反を勧めたという説が俄然注目された。確か、一昨年、内蔵助と元親のやり取りが分かる書状が発見されたのがきっかけだったと思う。
 その話と、江戸時代の初期に活躍した絵師海北友松との関りを、フィクションを交えながら描いた小説「墨龍譜」(葉室麟作)が、面白かった。海北氏は、代々近江の戦国大名の浅井氏の有力武将で、浅井氏共々信長に滅ぼされた。若き海北友松は、絵師・僧侶として生きるか武将としてその海北氏を復興させるか迷っていた。一方、内蔵助の主君明智光秀は、信長に仕えつつも、彼の暴虐無人な性格に悩みながら、名門美濃土岐氏の復興の野望を抱いていた。信長が天下に名を轟かせたのは、斎藤道三の領地美濃を譲り受けたとし、その息子竜興を滅ぼした頃からであった。その折の斎藤道三からの「美濃譲り状」が、偽物であったという話を登場させて、それを暴くことで信長の正当性を失わせるというストーリーが展開される。そして、そのことは、内蔵助と友松の利害が一致するという展開である。
 光秀の野望は、遂に実現しなかったが、海北友松の夢はなんと息子の友雪において実現する。内蔵助の実の娘である春日の局が、徳川家光の代になって「父の恩返し」として海北家の復活を実現さている。誠に複雑な人間関係だが、この事から、本能寺の変は、家康も関わった壮大な陰謀であると示唆する論調で書かれている。
※ 宮本武蔵も絵の弟子
 海北友松は、関ケ原後、絵師として建仁寺を活動の場として、60歳を超えてから本格的に名声をあげる。一時狩野家の永徳に師事するものの狩野家の傲慢さに嫌気がさし独自の道を歩む。御用絵師の狩野家は、力を持つが故に他の絵師からは嫌われたようで、長谷川等伯の物語(安部龍太郎作)にも同様の話が出てくる。なお、友松は63歳で妻をめとり子供をもうけている。その子が、海北氏を復興させた友雪ということになる。その頃に傑作「雲龍図」を建仁寺に残す。さらに晩年には、宮本武蔵が一時師事したと伝わる。武蔵は、剣豪である一面に加えて傑出した絵の描き手であった。因みに、東寺の塔頭、観智院に作品が残っている。

※ 栄西創建の禅寺
・建仁寺
建仁寺は、花見小路の南のどん付きに入り口があるが、正式な入り口は南側、最南端にある勅使門と、その北の「三門」が正門である。そして、南北にまっすぐ法堂、方丈と大きな伽藍がそびえている。三門は、「望闕楼」と呼ばれる壮大な門である。まずは、北東にある庫裏の受付から入る。栄西が述べた禅語「大哉心乎」(大いなる哉 心や)の立派な屏風に迎えられる。禅寺定番の「韋駄天」が睨んでいる横を、まず方丈の庭園に向かう。「大雄苑」と呼ばれる雄大な枯山水の庭園だ。その向こうに法堂の大きな屋根が見通せる。庭に降りて秀吉ゆかりの茶室「東陽坊」を確認して、周辺の苔や石碑などを散策する。法堂では、平成14年に創建800年を記念して、小泉淳作画伯の描いた「双龍図」が、天井に描かれている。画伯は、鎌倉の建長寺の天井にも龍の図を描いているが、まだ真新しい龍の鋭い眼差しは鮮烈である。正面須弥壇の釈迦如来坐像とのコントラストがうまくライトアップされて、立体的な二つの龍が睨みをきかしている。方丈には、国宝「風神雷神図屏風」俵屋宗達作が、展示されている。劣化を防ぐために現在は、デジタル処理された精巧な複製を見せているが、むしろ劣化しない分鮮やかに見ることが出来る。等伯など、その後の著名な絵師が、挑戦した宗達晩年の生涯最高傑作である。そして、至る所に、海北友松の襖絵が見られる。「雲龍図」の襖絵が代表的だが、「琴棋書画図」や「竹林七賢図」など水墨画の代表的作品がゆっくり見られる。ただし、その中庭「潮音庭」に面する一室の襖絵は、現代の作者のものが展示されているが、周辺の佇まいと調和していない。私はこのような試みはやめてもらいたいと思う。
また、庭も見どころが多い。枯山水の「大雄苑」、中心の三尊石が特徴の「潮音庭」そして、禅の世界観である「〇△□乃庭」、〇が水、△が火、□が地という事らしい。いずれもいつまでも眺めていたい静かな空間だ。初夏の苔の鮮やかな新緑の季節や、秋の紅葉の時期は一層目を楽しませてくれる。
 境内は、広々としていて、四条から五条界隈への格好の抜け道になっていて、近所の方たちの貴重な生活道路になっているので、普段から近所の人が自転車などで行き来している。
言うまでもなく、栄西が開いた禅宗最古のこの寺は、学問的に優秀な僧が多く輩出された事から、「建仁寺の学問面」と言われる。創建1202年の当時の元号に因み、建仁寺とした。仁和寺や東京の寛永寺も元号を寺名としている。
 絵も庭も仏像も、それぞれ見どころが多いので、たっぷり時間をかけて見学したい寺だ。
 
・おすすめコース

 建仁寺~両足院~霊源院~正伝永源院~久昌院

 広大な建仁寺の境内では、塔頭寺も丁寧に見ておきたい。
まず、両足院は、かつての修行の中心地で、学問面の本拠であったが、今は庭と茶室が有名で、夏の特別拝観の時は、「半夏生」が人気で、茶室「水月亭」は、利休ゆかりの、国宝「如庵」を模写したものである。
霊源院は、今は小さな塔頭だが、創建当時、京都五山のみならず、鎌倉五山を含め、当時最高峰の五山文学の中心をなし、優秀な学僧を多く輩出した寺である。元妙喜庵に霊源院を統合する形で、現在地になり、茶室「妙喜庵」が見学できる。また、創建に関わった、中厳円月和尚の座像の体内から毘沙門天立像が発見され、その手に持たれた水晶の中に舎利がおさめられていたものが、本堂入り口すぐのところで見学できる。拝観は、季節限定だが、茶室で抹茶をいただきながら、寺の方に話を聞いたり、こじんまりした家庭的な良いお寺だ。
 正伝永源院は、境外の塔頭寺であるが、北方向に徒歩5分ほどで着く、こちらも拝観の時期は限られるが、紅葉の季節には必見のお寺である。幸い訪れる人も少なく、静かに拝観できる。正伝院と永源庵が統合されて、現在の寺名となった。明治の廃物稀釈の為に無住になり寺の存続危機もあったようだが、永源庵が細川家のゆかりの寺であったことで辛うじて生き残った。その為、細川護熙(元首相)が襖絵を寄贈していて、本堂左右両側に間近で見ることが出来る。また、織田信長の実弟、有楽斎が、大阪夏の陣から逃げ出したあと茶道三昧の生活を送ったのが、この寺であり、本人と奥方、娘の墓がある。さらに、国宝の茶室「如庵」の写しが、庭園横に克明に再現されている。如庵は、両足院にも写しがあり、喫茶を日本に伝えた栄西の関係で、建仁寺の茶道とのつながりの深さがうかがえる。
 久昌院は、現在(17年2月~3月)20年ぶりの特別拝観という事で、訪ねて見た。こちらは、戦国武将奥平信昌とその妻亀姫ゆかりの寺だ。奥平家は、元武田方の武将で、後に家康に仕えた。長篠の合戦で大功を立てた時の模様を伝える屏風図がこの寺の宝だ。その屏風には、川を刀を喰えて渡る武将が描かれている。その名は、鳥居強右衛門。『奥平信昌勢数百が立てこもる長篠城から、数千の軍勢で取り囲む武田勢を抜けて、家康本陣へと援軍を頼む使者になったのだ。ひと際、忠誠心厚い強右衛門が選ばれ、首尾よく援軍が間もなく来るという約束を得た。危険を冒してまで戻る必要がないにも関わらず、律儀な彼は、また城中を目指す。しかし、武田勢に捕らえられる。城に向かって援軍は来ないから降参しろと叫べば命は許すと言われる。決心した強右衛門は、承知と言い、磔台に、そして、城に向かい「城のみんな!援軍はすぐに来る!ご安心を!」と叫び、即、刺殺された。城方の士気は高まり、合戦の大勝利につながる。』奥平家の繁栄は、鳥居強右衛門のお陰なのである。
 それ以外には、茶室がいくつかあり間近で見られる。方丈庭園は、禅寺では珍しく池泉鑑賞式庭園で中心には心字池が広がる。面白いのは、通常方丈庭園は南側に広がるの
だが、方丈の東側に広がり、建仁寺の伽藍を借景にしている。今見逃すと、20年先になるのだろうか?
 このように歴史的にも有意義な塔頭と、その他境内にも、見どころが多く1日かけてでも見学したいお寺だ。
 注意 ただし、文中にも述べた通り、限られた時期しか拝観していない寺が多いため確認が必要だ。



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