アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

おすすめコース

2017-03-21 10:19:03 | 日記

 

 

・戒光寺 後水尾天皇ゆかりのお寺(身代わりの仏)
泉涌寺は皇室の菩提寺である。従って、「御寺」と言われる。何々寺と言う必要はなく「寺と言えば泉涌寺」の事なのだ。塔頭寺も多く、中でも丈六戒光寺は、後水尾天皇のゆかりのお寺である。東大路通から泉涌寺道に入って途中にあるが、大概の方が見過ごしてしまう。ひっそりとした古刹である。丈六とは、仏様の身長の事である。1丈6尺(およそ5メーター)だ。従って、仏像は必ずこれの半分とか2倍3倍とか、丈六が基準となっている。座像の場合この半分の高さになる。座って2.5メーター、立って5メーターが仏像の基本である。その丈六の釈迦如来立像が本尊のお寺、戒光寺は、後水尾天皇とのゆかりがすごい。
 後水尾は、即位の前まで紆余曲折あった。従って、お命が狙われるようなことも度々あったらしい。皇太子時代、賊に襲われ首を切られたが、なぜか奇跡的に一命をとりとめた。その後、身代わりになったという釈迦如来が現れ、よく見ると首のところに血の跡があったという事で、その後、このお釈迦様は、「あらゆる身代わりになって下さる。」「首から上の病気、のどの病気に効く。」と言われる。勿論、血の跡は、今でも明らかに見て取れる。実際、後水尾は、このお釈迦様のお陰でその当時では稀な、85歳の天寿を全うしたわけで、その事から、皇室に深い縁の、この地に移されたという事である。
また、本尊横の、不動明王像は、京都に数々あるお不動様の中で、足の裏が見られる数少ないものとして有名、お不動産の足の裏を見ておくのも一興かと思う。


・おすすめコース
 泉涌寺~雲龍院~今熊野観音寺~戒光寺~即成院~散策~東福寺
泉涌寺の塔頭では、東の端から、まず雲龍院。ここは、庭園の見事なお寺で、後円融天皇御真影や「色紙の窓」で有名。次に泉涌寺を挟んで、西側の今熊野観音寺は、四国88か所のお砂踏み法要が行われるお寺で、9月21日~23日は、四国から運ばれた88か所の砂を踏みながらめぐると四国巡礼と同じご利益があると言われる。さらに、戒光寺より西、第一山門あたりにある即成院は、平安時代初期の作の二十五菩薩像が圧巻である。名前の通り「ぽっくり寺」である。苦しまずぽっくり死ねるようにお年寄りがお参りに来る。「けど、今すぐじゃないように。」と、拝む。また、境内奥には、平家物語で有名な、那須与一の墓がある。その関係で、「矢を射止める。」から転じて、ハートを射止める「恋愛成就」のお守りが売られている。したたかな京都人の柔軟なところだ。
 そこから東福寺へは、裏道を散策しながら歩くと案外近い。時間があれば足を延ばしておきたい。


後水尾天皇とゆかりの寺

2017-03-21 09:52:47 | 日記
① 後水尾天皇 泉涌寺 塔頭戒光寺
・歴史上一番興味深い天皇
何が興味深いか。まず生きた時代が、1596年~1680年(在位は1611年~1629年)と、まさに戦国の混乱が収束し徳川幕府政治の確立の時期に重なる。85歳まで生きたこの天皇は、なんと昭和天皇がその年齢を越えるまで史上最高齢であった。昭和天皇がその年齢を越えた当時の会見で、記者に、感想を問われて、「時代が全く違う。」とお答えになった。まさにその通り。平均寿命が大きく伸びたのは近年の事である。
 次に、その生殖能力であり、世界の皇帝や将軍にその例は多いが、この方もなかなかの絶倫の類である。名のある妃や局に産ませ歴史に名を残した親王・内親王だけで34名ほどが数えられる。おそらく、名も残らない女性に産ませた、ただのご落胤となればその数倍はあると思われる。なお、将軍徳川家斉は53人の子供が記録されているが、皇室の歴史には、嵯峨天皇や桓武天皇そして、後醍醐天皇などと同様に、特筆されるものであろう。                                                      とにかく、子作りでもやっていないとストレスがたまり、やっていられない時代であったのだ。この天皇にとっては気に入らないことだらけだったようだ。
 まず、皇位継承の経緯から気に入らない。父の後陽成天皇は、次男で兄の八条の宮智仁親王の立太子を考えていた。しかし、この方は、一時秀吉が関白の地位を望み、自らの血統に高貴な血を入れたいため、その養子となっていたことから、家康が難色を示した。本来は長男の良仁親王が継ぐべきところ、なぜか三男の政仁親王(後水之尾天皇)に決まった。父君(後陽成)は、どちらの親王とも不仲であったようで、幕府の意向が強く働らいたようである。なお、この親子の確執は生涯にわたり続く。因みに、追号の後水尾の水尾とは、清和天皇のことである。天皇親政の良き時代にあこがれて自ら追号を選んだ訳だが、清和天皇の子が陽成天皇だったから、つまり、後水尾は、自分の父に清和天皇の子の追号を送っているのだ。(諡号親子逆転という)しかも、陽成天皇とは、その在位中の乱行が目に余ると言われた問題ありの天皇なのである。天皇の追号は、死後贈られるのが通例だがまれに自ら希望する場合もある。(後醍醐天皇も醍醐天皇に憧れ生前から追号を決めていた。)自らの追号を憧れの天皇に因み、父にはおぞましい追号を贈る。これはなんだろう?父への執念は死ぬまで続いたのであった。
 そして武家政権に抵抗した最後の天皇なのだ。後年、維新の前に孝明天皇が、倒幕に担がれるが、自らの強い意志で幕府に対抗した天皇は、この方が最後かも知れない。
徳川和子の入内。紫衣事件。春日の局との確執。そして禁中並びに公家諸法度の発布と耐え難い状況のなか、突如自ら幕府に告げず退位した。(紫衣事件がきっかけらしい)娘である女帝の明正天皇の誕生だ。その後4代に亘り自分の親王・内親王が天皇をする。つまり上皇として存在を発揮し続けるのだ。その間、数々の文化的遺産を京都に残した。そして何より子供を多く残したのであった。