アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

第2回  崇徳院

2017-03-26 15:24:58 | 日記

 

①  崇徳天皇 安井金毘羅神社
・悲劇の天皇
 落語のネタに「崇徳院」という有名なものがある。
大阪の大店の若旦那、丁稚を連れて生玉(いくたま)神社に参詣。茶店で出会ったお嬢さんに一目ぼれ。純情な若旦那、そのまま恋病の床についてしまう。親にも言えない恋患い、しかし、出入りの熊さんには事情を話すという若旦那。でも、お嬢さんの身元が分からない。手掛かりは、お嬢さんが残した茶袱紗に「崇徳院の歌」
 せをはやみ いわにせかるる たきがわの  われても すえに あわんとぞおもう
熊さん、その歌を頼りに大阪中はおろか満州まで出かけようとして、散髪屋へ。そこで、同じような事情の男が来る。お互い探し相手と分かり、「こちらに来い、」「いやこちらへ。」言い争って散髪屋の鏡が割れる。散髪屋の主人が、大丈夫!「われても すえに かわんとぞ おもう」
以上が、あらすじ。
 そこに出てくる、崇徳院。崇徳天皇は、誠に数奇な運命を背負っておられる。
72代白河天皇―73代堀河天皇―74代鳥羽天皇―75代崇徳天皇と、順調に皇位が親から息子に引き継がれているようだが、崇徳天皇の母君は、待賢門院、鳥羽天皇の皇后なのだが、しかし、父君は、曾祖父白河天皇と言われている。性について、おおらかな昔の話とはいえ、自分の寵姫を腹ませたうえ孫である鳥羽帝に差し出したのである。その待賢門院 (藤原璋子)は絶世の美女と言われ、幼少から白河院の手元で育てられ、慈しみ。そして女にしたのである。その璋子を国母(天皇の母)にするために、孫の鳥羽天皇に差し出したのである。
鳥羽天皇は、生涯、崇徳院を「叔父子」(子とは言え祖父の子は叔父)と呼んで嫌った。白河上皇の庇護があり崇徳天皇となったが、院の死去後、その影響力が無くなると、崇徳院は、鳥羽院の実の子の近衛天皇に無理やり譲位させられた。そこで、せめて自分の子に次の皇位をと思って仕掛けたのが、「保元の乱」である。
 しかし、平清盛・源義朝軍の夜襲に襲われやむなく仁和寺に逃げたところを捕えられ、讃岐に流され、その後「世の転覆を企て、大天魔となった。」とされる。日本国最強クラスの怨霊となったのである。崇徳院という院号も、亡くなって20年以上たった治承元年に贈られたものなのだ。
 保元の乱は、歴史的に大変な意味がありこの後、武士の世の中になるきっかけになった。「ムサノヨニ」と、愚管抄にも書かれている。そして、平安初期、薬子の変(81
1年)以降、実行されなかった死罪が約350年ぶりに復活したのも実は大きな意味がある。平安時代は、死罪の無い珍しい平安な時代であったのだ。
およそ350年間、死刑の無かった時代。それをもって「平安時代」というのだ。



・縁切りの神社
この崇徳院を主祭神に祭る神社が、安井金毘羅神社だ。崇徳院が、保元の乱の後、四国讃岐の金毘羅の地で一切の欲を絶ち、髪も爪も切らず悶絶し、天下の大魔王となると宣言して亡くなったという事から、その怨霊を恐れた後白河法皇が大物主の命を勧請しこの地に金毘羅さんを祭った。従って、ここの神社の主たるご利益は、「縁切り」である。東大路通の正面鳥居の上には大きな文字で、「悪縁を絶ち良縁を結ぶ」と記されている。良縁を結ぶというのだが、最近は複雑な人間関係から、悪縁を絶つ目的だけで訪れる人も多いと推察する。本殿横の大きな礎(巨石)には、人がくぐれるように穴が開いている。手前からくぐって「悪縁を絶ち」奥から手前にくぐって「良縁を結ぶ」のである。休日には多くの女性が、列をなしてくぐるのだが、大半の方が往復しているので安心した。
 また、祇園花街が近くにあるという事もあり、9月には「櫛祭り」が行われる。女性たちが使い古した櫛を奉納して法要してもらう、午後には、古墳時代から現代まで、各時代の髪形をした女性たちの「時代行列」が行われる。すべて、地毛で結われていて地元の髪結師の腕の見せ所となっている。
 昔は、巨大な敷地を誇っていたが、現在は周囲がラブホテル街となってしまっている。悪縁を絶って良縁を結んで、すぐに愛を確かめ合えるようになっている。♡??
 ちなみに本堂内では、金毘羅寄席という落語会が定期的に開催されていて、若手落語家の練習場所になっている。筆者は、40年ほど前、学生時代に「米朝研究会」のメンバーとして、よくこの落語会に参加した。(演者ではない)当時まだ「朝丸」と言っていた現桂ざこばが、ネタを途中で忘れて、観客に教えてもらっていた。その後、出てきた米朝が客に謝っていたのを覚えている。もう50年近く続いている落語会だ。ネタ「崇徳院」を演ずる落語家もいるだろうか。

 
・おすすめコース

 南座~仲源寺~八坂神社~花見小路~崇徳天皇陵~安井金毘羅~高台寺
 京阪電車四条駅で降りたら、すぐ上が南座。今は改装中だが、隣の「松葉」のにしんそばは、有名だ。確か1300円と高いけど名物なのでおすすめだ。東へと歩くとすぐ「仲源寺」がある。目病み地蔵で有名なので立ち寄っておきたい。門前に、「好晴奇雨」という額が掛かっている。右から読んで、雨でも晴れても良いという意味。元々は、鴨川の氾濫を鎮めるための「雨やみ地蔵」だったのが、いつしかなまって「目病み地蔵」となったという、京都の人のしゃれだ。
 そのまま、八坂神社までは京都有数の土産物街だ。散策の定番箇所だ。八坂神社にお参りして、引き返し、花見小路を南に向けて散策。四条通の角には大石内蔵助が遊んだ「一力茶屋」。隣の「十二段屋」は、しゃぶしゃぶ日本発祥の店。しかし、おすすめは、エビ天丼だ。因みに、十二段屋は、歌舞伎好きな店主が、「忠臣蔵」が好きで、忠臣蔵の1段目から11段目まで見たら、わが店へとの思いでつけた名前。建仁寺の正面までは、京都らしいお茶屋の佇まいが楽しめる。そこから左に折れて金毘羅までの途中に、崇徳天皇の御陵があるので、ぜひ注意して見ておきたい。誰も訪れる様子はないが、大魔王となると宣言した方の御陵には、ただならぬ霊気が漂っている。
そして金毘羅神社でお参りしたら、ラブホテルには行かず、東大路を挟んで「高台寺」まで足を延ばしておきたい。太閤秀吉の妻ねね(高台院)のゆかりのお寺。庭が見どころなのでゆっくり眺めていればその日の散策の疲れも吹っ飛ぶ。