①逆順の天皇史(逆さにたどる平安の天皇たち)
孝明天皇
121代天皇 在位1846~66 21年間
在位中の元号 弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応
父・仁考天皇
平安京最初の天皇は、50代桓武帝だから孝明帝まで72代72名の天皇が京都にいた?
そうではない。南北朝時代があった為、北朝5代の天皇を入れて77名の天皇がこの間即位している。皇統は南朝でつないでいるが、血統は北朝でつながる。正当な皇統はあくまでも南朝である。この辺りのややこしさはおいおい書く。
そこで、これからは平安京の最後の天皇から書くが、誠に特殊な歴史を背負ってしまった幕末の天皇だ。
在位中の元号を見るだけでその激動の時代がうかがえる。嘉永6年のペリー来航から幕末が始まる。御簾の奥深く生活するやんごとなき方達の中の天皇は、当然外国は「恐れ」であり「討伐すべき対象」であった。
外国の脅威を感じた幕府が、朝廷に無断で条約を結ぶ。孝明帝は密勅(秘密の勅諚)で水戸藩はじめ尊王攘夷派に条約の破棄(再考)と譲位決行を迫る。
その結果、反幕府派となった水戸藩はじめ攘夷派の粛清が始まる。安政の大獄だ。さらに一層過激に走る水戸藩士たちが井伊直弼の暗殺を決行する。桜田門外の変だ。ここを境に尊王攘夷の動きが一気に「倒幕」へと傾く。しかし当の孝明帝は、後ろ盾の幕府があってこその朝廷との立場をとる。
自らの妹和宮を徳川家茂に降嫁させている。公武合体を実現させられているのだ。江戸初期の徳川秀忠の娘の和子が後水尾帝に嫁いだ公武合体とは真逆である事に注目したい。
和宮 大河ドラマ「篤姫」で注目された。
因みに、その和宮の婚約者だった有栖川熾仁親王が、自ら志願し討幕軍の東征大総督として錦の御旗を掲げたのである。「錦の御旗」とは天皇の勅許をもってしか許されない。
また、京都守護職の会津藩主松平容保との信頼関係も有名な話だ。
従って、この流れを詳しく見ると、新政府は孝明帝の下で維新を行う事は誠に不都合な事になる。孝明帝暗殺説が根強いのはこのような背景からである。犯行は岩倉具視とも言われる。
長く痔に悩んでおられた天皇は、晩年天然痘にかかられ、最後は、「御九穴より御脱血」と、伝えられる壮絶な最後であった。
陵墓は、泉涌寺の後月輪陵に葬られた。その後、桓武帝を主祭神にした平安神宮に孝明帝も合祀された事でやっとほっとする。また、1月30日は先帝祭として明治時代まで国民の休日であった。
不幸な死に方をした偉人は、大切にすると言う怨霊思想のまだ残る時代であったのだろう。
次は、その父 仁考天皇。