野中光正さんは、浅草の画家であり版画家であり、毎年展示会をお願いしている作家さんだが、実は色彩とかたちで音楽を演奏されている方と言った方が良い気がする。すばらしい音楽を演奏するために、彼は持って生まれた才能はさることながら(20歳の時描いた風景スケッチを見ただけで、ずば抜けた才能の片鱗が見えてこの人は特別な人だなと思う)、40年以上の長い間、日々日記のように欠かさず作品を描いて、一人で何種類もの楽器(筆、色、和紙、キャンバス、版木、馬楝など)を感性が導くままに自在にこなせるまでに技量を磨いてきた。その総決算として、最近の作品には誰にも真似のできないようなすばらしいオーケストレーション(主としてクラシックの)の響きが聞かれる。
自分に与えられているものに正直な方でその自然なまっすぐさが作品にも出ている。これは受けそうだから、流行りだろうから、取り入れてやろうなんて小賢しくいやらしい計算が微塵もない。もっともそんなことをしたら、すぐ演奏に出てしまい人を感動させるようないい音楽は奏でられない。これが人の魂を表現の核に置いた抽象というジャンルの正直なところだ。
ときどきハガキをお送りいただけるがそこに書かれた言葉にはいつも心動かされる。最近届いた本所吾妻橋のギャラリーアビアントでの展覧会の案内状。そこにも作品(1980年代の旧作。線のいろんなタッチがあって面白い。上方の山のように見えるのは意図してやったわけではないが、マックスエルンストのフロッタージュのようになりましたとは本人の弁)とともに自筆の言葉が添えられていた。「描くことが生きること」である画家の言葉を、味わいのある文字といっしょに紹介したい。
自分に与えられているものに正直な方でその自然なまっすぐさが作品にも出ている。これは受けそうだから、流行りだろうから、取り入れてやろうなんて小賢しくいやらしい計算が微塵もない。もっともそんなことをしたら、すぐ演奏に出てしまい人を感動させるようないい音楽は奏でられない。これが人の魂を表現の核に置いた抽象というジャンルの正直なところだ。
ときどきハガキをお送りいただけるがそこに書かれた言葉にはいつも心動かされる。最近届いた本所吾妻橋のギャラリーアビアントでの展覧会の案内状。そこにも作品(1980年代の旧作。線のいろんなタッチがあって面白い。上方の山のように見えるのは意図してやったわけではないが、マックスエルンストのフロッタージュのようになりましたとは本人の弁)とともに自筆の言葉が添えられていた。「描くことが生きること」である画家の言葉を、味わいのある文字といっしょに紹介したい。