40年以上前、学生時代に譲られて、パラパラと写真を見てつまみ食い的には読んでいたが、ほとんど積ん読になっていた美術本を、ここ3、4日で今度は付箋を付けつつ読了した。その本の名前は「中心の喪失」(ハンス・ゼドルマイヤー)。ここでゼドルマイヤーは、近代絵画から現代絵画への歴史を、絵画が様式を通して神への信仰を表していた時代が解体された後に出現した、ネガテイブな中心の喪失過程として著述し、そこで生み出された作品を、いわば病気の症例として提示している。
読了後間を置かず行ったせいもあるが、ストラスブール美術館展には、この本が説くところをより説得的に感じさせるものがあった。多くは流行に乗り遅れまいとしつつ、オリジナリティーを狙った自己顕示的表現になっていく。そういう作品は、他と表層的に違っていたり、技術的に習熟はしても、時代とともに影が薄くなり、今や公的な美術館の収録対象になる歴史的な意味しか持たなくなっている。しかし、この劣化の時代にも美の奥殿に到達する天才はいた。いやこの数少ない天才的個人がいることが、近代絵画の唯一の「中心」であるのだろうと思った。しかし、それは人類の喪失を身に受けた痛みの表現とならざる得ない。そして、そこには社会の無理解による悲劇や不幸が必ずつきまとう。
さて、入口近くには印象派に影響を与えたコローやバルビゾン派の作品が並ぶ。意外だったのは、のどかな自然観に基づき、牧歌的な風景ばかり描いていると思っていたコローが、建築物を主題に据えて、造形性を追求していることだ。当たり前のことだが、病んではいないが彼も近代人であったのだ。この時代の写実絵画に見られる対象への無私な姿勢は、やがて技法のユニークさを誇るようになっていく。若い時に引かれたカリエールも、今見れば写真のソフトフォーカス手法のようであり、ゼーバッハの一連の肖像画は、明らかに時代の寵児ホイッスラーのクールさを薄めた二番煎じのようだ。そしてマチスの真似、色と形のデザイン技術に堕してしまった抽象画の数々。流行の枠の中での表層的な差異による競い合い。教科書のように頭で描いた絵。
好き嫌いという次元を超えて、目を引いたのは、ゴーギャン、ロダン、シャガール、ブラマンク、カンディンスキー、ピカソ、そしてモネ。ゴーギャンは、強烈な個性と真にオリジナルなものを作り出そうと格闘した思いの深さ、すなわち「絶望的に自分自身であろうとした」者の苦悩が伝わってくる。あのゴッホとぶつかるのは当然、と思う。ロダンは、デッサンの段階から非凡な立体の姿が見える。デッサン自体に、天才的個性が刻印されている。シャガールはこれまでピンとこなかった画家なのだが、その魅力が初めて分かった。特にエッチングの作品。線刻のタッチには喜びの中で心が踊っているシャガールがいる。
ここではブラマンクは、どことなく理屈っぽくしかつめらしい印象の、ブラックに優っている。飾られた2作品どちらも素晴らしいが、とりわけ「午後の風景」のブルー。奇跡的なブラシタッチと色彩のコンビネーション。言葉がない。カンディンスキーの「冷たい隔たり」は、娘から教えられて、その良さが遅れて分かった。まず抽象の理論家として見てしまう先入見が鑑賞を邪魔していたが、ここには魅力的な赤のバックに染み込んだ彼の内奥の魂の音楽が鳴っている。
ピカソは強い。圧倒的に強い。しかし、家に置きたくない絵だ。破壊してやまない不気味な何かが最後の雄叫びをあげている。そして、自分の中で今回の展覧会の頂点は、やはりモネの絵だ。前に立つとそよ風やラベンダーの香りまで漂ってきて、そのまま草原の中に入っていけそうに思う。これは視覚だけではない、五感を総動員して描かれた絵に違いない。しかし、五感で感じたことすべてが、音楽家が音符に置き換えて行くように、タッチと色彩に置き換えられ得るものだろうか。これはテクニックなどと言うものではない。まさしく、近代にあっても、「中心を失わない」幸福な天才がここにいる。