美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

宮城県美術館コレクション展示 7/5~9/4

2016-07-13 19:02:20 | レビュー/感想
宮城県美術館のコレクション展示はときどき入れ替えられるが、庄司福が2ヶ月ほどの期間、特集展示となるというので久しぶりに足を運ぶことにした。庄司福は、東北地方をテーマにした作品を多数描いている仙台にもゆかりが深い作家で、92歳で亡くなるまで画壇の重鎮として現役で活躍し、「戦後の日本画の質の高い到達点の一つを示す」と賞賛している展覧会評もあって、かなり期待していた。庄司福は、ときどき通る青葉通り地下道で、陶板で創られた作品を目にしており、この作品を絶賛する方もいて、「雄渾」な作品という言葉も浮かんだのだが、自分には今ひとつピンとこなかった。そこで、これは陶芸家の力倆が加わって別の作品になっている面があるので、庄司福の完全な自作を見たら違うのではと思っていた。しかし、正直のところ、どの作品も自分には響かなかった。少し残念。テーマといい、構図といい、画壇の流行を意識しながら、そこで喝采を浴びる要素を巧みに落とし込んで造形されているように感じた。つまりは出来上がった日本画のカテゴリーの中で、大画面を使って、力強く見せられる非凡な、持続的な力量に恵まれていた、しかし、優等生なのである。晩年はさすがに「石」「風景」「海峡」といったそっけないタイトルが語るように、意図的な造形はやめて、自然とシンプルに向き合った作風になっている。しかし、変な衣装がなくなっただけで、やはりつまらない。画壇の枠に従って作り上げたスタイルは、そこで大成した人だけになかなか壊すのは難しかったのだろう。

つまらないのはなぜなのだろうと考えながら、次のコーナーに行くと長谷川潾二郎の小品「道(パリ郊外)」があった。1年ほどの短いパリ生活の間に描いた数少ない作品の一つだ。画面真ん中にまっすぐに続く、パリではおそらくありふれた道なのだろう。脇の赤い煙突の建物、道にそって端正に切りそろえられたような雑草、モコモコと葉を茂らせた樹木、そして道の果てには門柱があり、どこに通じているのか黒い暗渠が異界への入り口のようにポッカリと口を開けている。(この部分を拡大した別の絵(上掲)には黒い鉄製の門扉がはまっているがこの絵では暗渠になっている)この全体が醸し出すなんとも「怖〜い」感じは何だろう。潾二郎は、パリの風景を題材に何かを上手に造形してやろうなどとは微塵も思わない。この風景の不思議さを探求し強調するかのように絵筆をとっているだけなのである。
だが、もっと上手がいた。岸田劉生の「早春?日」という作品。これを見ていると、潾二郎は謎に直面して描いているが、岸田劉生という存在そのもののが謎であるかのようだ。構図などはどうでもいいかのように大きく画面を占める鈍調な空。梅原龍三郎の数々の風景画のように、お得意の色彩とタッチで華やかな空の表情を見せようなんて気持ちはさらさらないようだ。下の方に固まるように、木々の間に点々ばらばらに建った家々、そして道とそこを通る二人の子供の姿。それを連関させまとめ上げる手法がまったくもって見えない。しかし、もちろん素人絵ではない。これがあなたが本当に見ているものなのだよ、と心の芯の記憶庫に入ってくる、このリアリティの確かさはどこから生まれてくるのだろう。何度でも見ていたくなる絵だ。でも、さてこれを「絵」と言っていいものだろうか。少なくても本人は「絵」を意図的に描こうなんて毛頭思っていなかっただろう。

この絵の存在感を前にしては、松本竣介のまるで欧州映画を見てるような、ポエジーに満ちた、当時としては最高にお洒落だったであろう風景画も、決して凡庸ではないのだが、すっかり霞んで見えた。いずれにしろ、どのようなかたちであれ、残った絵は、良し悪しの評価は別にして、それぞれの人となりや生き方を正直に反映しているようで面白い。
(掲載の絵は「マロニエと門」1931)

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