美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

黄金伝説展 1/22~3/6 宮城県美術館

2016-02-03 17:07:19 | レビュー/感想
むしろ、グスタフ・クリムトの1作品(人生は戦いなり「黄金の騎士」)を見たくて会場に赴いた。会場に陳列された古代地中海の黄金製品は、年代を遡るほどかえって洗練されたもののように感じられる。1点1点、豪奢な輝きと細工の美事さに驚かされつつも、ワビサビ生活の自分とはほど遠く、夢を見ているようで何を見てもあまり心に残らない。このジャンルの技術的歴史的な知識が皆目ないうえに、丁寧に見なかったせいもあるが、黄金製品には、結局は、所有した者でなければ、良きにつけ悪しきにつけ分からない、魔力があるのだろうなとの感想しか浮かばない。

クリムトの作品は、芸術家の理想の姿を黄金の鎧、兜とに身を包んだ騎士の姿になぞらえたものだという。そういう図像解釈はさて置き、工芸品の名品を見ているような、装飾的な絵柄とそれを成り立たせている金箔を混じえたマチエールの美しさに、まず心惹かれる。さらにそれは、極度に単純化され、引き絞った弓のような運動感を与える図像と相まって、象徴的イメージに存在感を加え、絵画全体に力強い印象を与えている。構想力に加えて、作品を現前させるマチエールとそれを生かす技術の三位一体、ここに熟練した彫金師であった父の多大な影響があることは明らかだ。

思わぬ拾いものもあった。ギュスタブ・モローの作品「ヘラクレスと青銅の蹄をもつ鹿」は、金製品の輝きの間に展示されたゆえもあってか、一筆一筆、鈍い光を放つ、様々な色彩の宝玉を象嵌するかのように重ねたブラシタッチの魅力が、これまでになくきわだって感じられる美事な作品だった。J・K・ユイスマンス作の「さかしま」の中で、主人公のデゼッサントがギュスタブ・モローの作品を偏愛した理由が、初めてわかったような気がした。

両作品共、絵画というジャンルの成立以前から受け継がれて来た工芸家の魂と、画家の美に対する偏執狂的なこだわりが幸福な融合を遂げた作品のように思える。観念過多な近代絵画の中では無視されがちな絵画の工芸的な要素とそれが喚起する物質的な想像力の意味について考える良い機会となった。

1階の常設展の入り口には、経歴から青森、岩手、宮城を渡り歩いて、その意味で東北の画家と言える村上善男氏の作品をまとめて見ることができた。亡くなった年上の友人を介してその存在は知っていた(今自分の書棚には村上氏著「仙台屋台誌」という本がある。友人への献辞付だ。生前お会いできる機会を逸したのが悔やまれる)が、改めてその作品をじっくり見る機会を得て、もっと世に知られていい作家であると正直思った。

偶然の一致か、それともキュレーターの隠された意図かどうかは分からないが、クリムトやモローとも通底する、絵画の存在感を際立たせるマチエールの強さというテーマがここにはあると思う。もっともマチエールには現代美術らしく、従来のユニバーサルな材料ではなく、東北の風土や自らの生活環境に密接に結びついた材料、ピンや筆文字が書かれた古紙や紐などが執拗に使われている。しかし、マチエールを通した美への偏執狂的なこだわりは、クリムトやモローに負けないものがある。こういう画家が同時代の東北にいたことに誇らしさすら感じた。戦後美術史の流れの中では、西洋美術史(モノマネであった)の終わりのすきまに出現した日本オリジナルの様式、「モノ派」に属するのだが、観念的で、普通の人には補足説明がないと皆目分からないような、モノ派の作品の中ではそれ自体で心にストレートに入ってくる美しさが成立している数少ない成功事例といえるのではないか。

ルオーの版画が常設の最後にあった。前に評した作品シリーズ(「ミセーレ」)だ。これまで見てきた作品はいづれもマテリアルの物質的な力に多くを負っている。それに対し、ルオーは白と黒のエッチングによるぎりぎりのシンプルなつくりながら、これだけの魂に響く力はどこから出てくるのだろう。何度見ても不思議な、そして清い喜びにあふれた絵だ。

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