美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

道行の世界

2011-04-03 17:11:05 | レビュー/感想
歌舞伎や浄瑠璃には道行の場面が出てくる。逃避行の切ない思いを唄と音楽、そして踊りで表現するライブ感がある場面で、それが死への道行であったとしてもそれまでの物語のわくから解き放たれて、お囃子とともに突然春の野のに出たかの様なうきうきした感じにさせられる。それにしても、「道行」という日本語は深くて、軽くて、心地よい響きを持った言葉だ。どうなるか分からない不安定な有り様の中でこそ輝く魂や見えてくる真実があるのだろう。西行も芭蕉も道行の人生を秀歌名句が生まれる場所とした。映画でもロードムービーという映画の本質を穿って幾多の名作を生み出した一大ジャンルがあるのを思い出す。

どうなるか分からない不安定な有り様というのは仏教で言えば「無常」ということになる。それは死と隣り合わせの危険がいっぱいのノマド状態だが、それに耐え得ない人間は、沈黙しているかのように思える神を離れて、自らの手の内において「安全安心」を設計しようとする。それが人間が創ってきた文明というものだ。高い城壁をつくって生活を囲い込み、「安全安心」を担保しようとするのは必然の流れだが、王や階級、階層が生まれ、そしてそれを支えると称する詐欺的な制度が肥大化を続け、人間は原初的な自由を喪失し、窮屈な奴隷状態に落ちていく。

しかし、どのような堅固な要塞もやがて崩落のときをむかえる。それが天才的な軍略によってか、予想を超えた自然災害によってかは分からないが。つい最近のことで言えば1000年に一度の大津波が高さ10メートルの防潮堤をやすやすと乗り越えるのを我々は見たばかりだ。実は10000年に一度の出来事さえ、明日起こるかもしれない中で我々は生きている。

このブラックスワンな出来事を常態としていたのが戦国の時代の人々だ。すべて制度やそれを保っていた権威がなし崩しになり、親や兄弟との間でも殺し合いをしなければなならない時代。しかし、一方ですべてを振り出しに戻す災厄は、祝祭的な空間を生み出す。例えばやまと絵風景図屏風の代表作「日月山水図屏風」(16世紀、金剛寺)の画家は無常の中で嘆き悲しんではいない。むしろうねり躍る山や海が照応し合い、たくましい生命力にあふれ、畏れとともに不思議な幸福感に満ちた世界を描き出した。近代絵画ではゴッホがサン・レミのカトリック精神病院に収容された際に描いた晩年期の傑作「星月夜」に似通ったものを感じる。そこに働いているのはゴッホの中に目覚めた人類に生得的な「物自体に対する本能」(ヴォリンガー)。それが神経発作の危機の中で末期の眼としてしか取り戻せないものであったとしたら、いささか悲しいことだが。

「精神の進歩というものはすべて、世界像を皮相化平板化するものであり、そのため精神の進歩はその1段階ごとに、人類に生得的なものであった[事物の図りがたさを感じとるための器官]を萎縮させるという代償を支払わざる得なかった」(ヴィルヘルム・ヴォリンガー『抽象と感情移入」木田元訳)

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