ダイワメジャー、だめじゃー(T T)
本日(10/28)は朝からいい天気だったので、SL撮影のリベンジへ。9月の夕張線は残念ながら行けなかったのですが、今はeとりさん家から近い函館本線にて週末限定で走っているのでごえす(風林火山風)。
向かった先はJR函館本線「昆布(こんぶ)」駅。近くに海は全く無く、当然昆布は採れません。アイヌ語由来の駅名です。先日K町からの帰りに寄って、SLが来る時間はチェック済み。
時間近くになるとどこからともなく家族連れや老夫婦が集まってきたので、撮影アングルに一抹の不安を抱えつつ待ち構えていると、「いよっ、待ってました!」
先ずは動画を撮影し、SLが先頭になってホームに入ってくるところを無事撮影。eとりさんが待ち構えていたところを大幅に超えてSLは停車。風向きのせいでもろに黒煙をかぶってしまった。懐かしいニオイだがケムいよ、ケムすぎるよ(←織田裕二のモノマネ風)。ふぃーるらぁ~いぶ♪
んで、停車したから静止画を撮ったんですけどね、eとりさんのカメラは広角があまり利かないので、ちょっと距離を置いて撮影したんですが、その間にGさんやOばはんとかがカットインしてくるんですよ。しょーがないけど、ちょっと残念。無修正で載せちゃるわい。
2つ目(ライト)のC11だ、かっこいい!8月の時に撮ったC11とは違うNo.でラッキー!
さらに発車時の動画を撮り、こちらもまぁまぁうまく撮れた。このSLは隣駅の蘭越(らんこし)が終点で、そこから折り返しバック運転で帰ってくるので、また20分ほど待機。今度はホームの反対側からバックで去り行くSLを撮影。
←SLなのはわかってんだよ、ジャマな標識だ!
客車も黒い塗装になっていて雰囲気ある、いい感じの編成でした。提供はふじつー(ウソ)。
清水沢の街からいよいよ車両の保存されている南大夕張駅跡へ向かう。清水沢からR452を三笠市方向に走っていく。清水沢から南大夕張駅跡付近にかけては南部(なんぶ)地区と言われているところで、炭鉱が閉山してからは過疎化する一方と聞いていたが、思ったよりも結構住宅や商店が立ち並んでいる。しかし人が歩いている様子は全くと言って良いほど見かけない。
「もうそろそろなはずなんだけど、どこかなぁ~?」とか言ってたら、進行方向の左側に車両を発見! 昔の駅のホームとともにラッセル車、客車、石炭運搬車の計6両が留置されています。
いい年こいたおっさんはここでも甥っ子K”にカメラを託して記念撮影→
←鉄道に興味の無いK”も、もの珍しいご様子。
保存されている車両のうち客車の「スハニ6」だけは中に入ることができます。昔の国鉄の車両も板張りのころがあったなぁ、懐かしい。
「車掌さん、僕は機械の体をもらいに行くんだ」
「車掌さん、メーテルはいないの?」
「今どき黄色い髪でまつ毛が顔からはみ出てるのはミワさんぐらいだよ・・・」
きぃ~っといつかはきみもであうさ、あぅおぉい~ことりに~♪(JASRAC非承認)
そんなアホな会話はしませんでしたが、ずっと前から来たい来たいと思っていたところに来れて大満足。車両を保存・管理している「保存会」の皆様のご苦労には頭が下がります。
さて、さらにここから先を行くと・・・
シューパロ湖にかかる昔の森林鉄道の跡。この橋は「三弦橋」と言われ、四角錐を並べたようなこの構造は鉄道橋としては稀有のものだそうです。
また、三弦橋が見渡せる国道付近には大夕張鉄道の路線に設けられていた落石防止用の覆道がまだ残っています。
この先にもまだ鉄道の遺構があるのですが、そのまわりは昔2万人以上の人が住んでいたことが全く信じられないくらいの無人の原野となっています。あるのはダム工事と国道の付け替え工事にたずさわる重機ばかり・・・。R452は道幅も十分あって非常に走りやすいのに、そんな立派な道路がそのままダムの底に沈むのが不思議でなりません。三弦橋も無用の長物と化していますが、沈んで全く見られなくなるかと思うともったいない限りです。
そんなこんなで知る人ぞ知る大夕張を堪能し、夕張市内で名物のシナモンアンドーナツを買って一路chatta家へと戻りました。カーラジオから流れてくるは菊花賞。真っ先に斬った馬が1着と3着(-_-; 、
無念・・・。
※yahooやこのブログのずっと下の「OCN検索」で「三弦橋」を検索すると詳しい情報サイトが見つけられますよ。
(おしまい)
さて「計画」というのは・・・、今は残念ながら財政再建団体として名を馳せている夕張市に昔通っていた「三菱鉱業大夕張鉄道」の車両を見に行くこと。
地図はここ
いわゆる夕張市のさらに山奥のほうには「大夕張(おおゆうばり)地区」というのがあって、かつては人口が2万人を超えるぐらいの炭鉱街が形成されていました。そこへは夕張市街から鉄道が延びていたのですが、石炭搬送の合理化や閉山を経て昭和62年に廃止されてしまいました。閉山後の地区は過疎化し、さらにそこへ大きなダムを作るということになって住民は立ち退かなくてはならなくなり、平成9~10年ごろにはほとんどの住民がいなくなってしまったというところです。
いい年こいた見慣れないおっさんが一人でウロチョロしていると不審者と思われる昨今なので、鉄道にはまるで興味の無い甥っ子K”を道連れに見たいものを見る、というのが今回の「計画」でした。
K”とともにまず訪れたのは、こちらは大夕張鉄道とは何の関係もないJR新夕張駅。ここはJR石勝線(開通時は国鉄だったかな?)が開通するまでは国鉄夕張線の紅葉山(もみじやま)駅という駅でした。駅が新しくなる以前の駅名標がまだ駅前にあるという話を聞いていたので、それを先ず見に行ったわけです。
←これが新夕張駅。この駅舎の向かいに・・・
昔の駅名標があって、いい年こいたおっさんが記念撮影。K”がいたおかげで三脚をセットする手間が省けました。
お次は大夕張鉄道の始発駅だったJR清水沢駅へ。駅前は商店街なのだが、やはりシャッターを下ろしている店舗が多い。駅の中に入ろうとしたが、地元の方がいらっしゃったので遠慮して、近くの跨線橋へ向かう。ここへは数年前にも来たことがありましたが、その時はまだあったかつての大夕張鉄道用の板張りホームや構内のホームを結ぶ木造跨線橋がすっかり撤去されていました。
そこへ偶然汽車がやってきたので、これ幸いと撮影。乗る人も降りる人もおらず寂しい着発となりました。
そしていよいよ本日のメインエベントへ。しかし長くなったので次回へと続きます。
(「世界の車窓から」のテーマを鼻歌でどーぞ)
ある日、当ブログをよく見てくださっている親戚のchatta家から「K”の学芸会があるから見に来ない?」とeとりオカンへ電話がかかってきた。しかしeとりオカンは町内会の旅行のために行けないと返事。そこでeとりはある計画を胸に「オレが行く!」ということにしたのであった。
甥っ子K”はK町のK’小学校に通っている(K≠K’≠K”)。学芸会の前日にK町に入り、chatta家にて宿泊。当日は学芸会の開始時間(8:50a.m.)からちょっと遅れて会場に入ると客が座る場所の一番後ろは撮影用の三脚だらけ。子供たちのとーちゃんやかーちゃんがビデオを撮っているのでしょう。んなもん、撮ってからあとで見たりするんかね?IT革命やなぁ。
懐かしい「立てプロ」と、体育館の壁には今年の学芸会のテーマが。
場内(体育館)はこんな感じ。校長先生が挨拶しているところ。
劇や合唱、器楽などでみなさん頑張っておられました。
K”の出る劇が終わり、6年生が終わりの挨拶をして学芸会は無事終了。終わったのは昼の12時半。聞けば毎年このぐらいで終わるのだとか。eとりもへき地の小規模校にいた頃(σ(T T)中学3年まで「学芸会」やってました)は朝から午後の3時か4時ぐらいまでやってた覚えがありますけどね。イマドキの学芸会はどこもこのぐらいの時間で終わるんでせうか?
以上で学芸会潜入ルポは終了!この日もchatta家に留まり、次の日に「計画」を遂行することになります。
eとりオカンが摘んできました。
はたして食えるんだべか・・・?
↑ナラタケというものだそうで、北海道では「ボリボリ」と呼ばれてます。お味噌汁の具にしたのですが、かみ応えがあっておいしかったですよ。(10/16追記)
昨日(10/11)放送されていた「いきなり!黄金伝説」。タカトシの「0円生活」が「積丹半島・寿都」にて、というテロップになっていたので、「2ヶ所でロケしたのかな?」と思ってずっと見てたんだけど・・・。
番組中ではこもっていた場所からどこか他の地点へ車などで移動したシーンは全くなし・・・。サケ釣りのシーンで遠くに風力発電用の風車が何基も見えたので、多分ロケしたのは寿都(すっつ)町のみだと思うんです。
そー、賢明な読者ならばもうおわかりですね。この番組はずっと寿都でロケしていたのにもかかわらず「積丹半島の寿都町で0円生活」と称して放送していたわけですよ。しかもタカトシの潜った海の青さを「積丹ブルー」と表現しておりました。笑止千万!地図を開けば積丹半島と寿都町がどんだけ、どんだけぇ~離れているかすぐわかります。自治体同士が隣接しているわけでもありません。ただ北海道の日本海側にある、というだけで全然違う地区なのです。
番組のHPでは「寿都にて0円生活」に統一されていて積丹(しゃこたん)のシの字も出てませんが、なんであんなアホな放送にしちゃったんでしょう。最初から「寿都」と称するか、さもなければ本当に積丹でロケすればよかったのに。とにかく寿都や積丹のある後志(しりべし)地区に詳しいeとりとしては違和感のある放送でした。
※昨日(10/10)、雪虫を目撃!まぁ2匹ぐらいだったんでまだ雪は降らないと思いますが、こちら北海道は冷えてきました。大量発生したら写真に収めたいと思います。
さて、最近eとりさんブログのスポンサーリンクの欄に、今(ちょっと前?)話題の「脳内メーカー」が現れるようになったので、eとりさんもやってみまひた。
う~む(-_-; 甘いものは確かに好きですがもう缶コーヒーはほとんど買って飲んでないし、酒は一ヶ月に350mlの缶ビール(または発泡酒あるいは第3のビール)を2~3本飲めば多いぐらいになってますねぇ。寒くなってからはほとんど飲んでないなぁ。
「楽」「貧」「惑」!
そー、そーなんですよ、会社やめて「楽」してるんです。会社やめて「貧」しくなってるんです。会社やめてこの先どーしよっかなと「惑」うておるのでございますσ(・∀・)
いや~、すごいな脳内メーカー、何でもお見通しだべさ。
私の手元に2000年4月発売のNumber第495号があります。表紙はノリック -阿部典史-、2000年GP500の鈴鹿戦で優勝直後の号でした。
優勝したレースよりも印象に残っているのは’94年にスポットで走った鈴鹿。シュワンツを差してトップに立ったけれどもコケてリタイア。これでよかった。これで世界へ大いに印象づけることが出来たのだ。
GPを降りてスーパーバイクに移っていたまでは知っていたが、最近はごぶさただった。まさか今回のことで改めて名前を聞くことになろうとは。大治郎の時よりショックである。
Numberの編集後記は以下の言葉で締めくくられている。「「世界」の場で揉まれ続けて6年(当時)、ノリックの本領発揮はこれからです。」 そう願いたかった。