祐さんの散歩路 Ⅱ

日々の目についたことを、気ままに書いています。散歩路に咲く木々や花などの写真もフォトチャンネルに載せました。

・ 子供救出に全力

2014-04-11 04:40:18 | 原発事故
フェイスブックの北川高嗣さん(筑波大学院教授)が、チェルノブイリ事故のことを書いています。ソビエトと言えば共産圏で国民の生活はひどいところだと思っていましたが、原発事故が起きた際の対応は素晴らしいものと思います。何を優先しなければならないかは判断し、迅速に対応しています。日本の政府の馬鹿さ加減とは全く違いますね。全文を転記します。

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<ソ連もウクライナも子供の救出に全力>

 キエフの当時の放射能量は、ソ連政府が秘密にしており、分からないだろうというのがオリガ解説。秘密にし大袈裟にしたくなかったソ連政府とウクライナ共和国の間には、相当凄まじいやりとりが行われたことは想像に難しくない。しかし、子供を放射能汚染から守らなければならないというウクライナ側が、鉄の意志で大決行したのである。これは正確ではないが、オリガさんはウクライナの1人の女性幹部が必死で動いたという。


<突然のクリミア保養地行き>

 すると、5月中旬、突然入学試験を前にした最高学年(日本の中学3年?)を除き、全小・中学生がバスに乗せられ、チェルノブイリから少しでも遠く離れた所(オリガさんの場合はクリミア半島の保養地)に送り込まれた。学校の門の前にバスが止まり、次々と乗り込まされ、何が何だかわからなかった。聞きつけた母親たちが集まり、泣き叫んでいた。子供たちもどこに連れて行かれるのかさっぱり分からず、不安な気持ちで旅立った。


<誰も知らないキエフの大量学童疎開>

 それなりにチェルノブイリものを読んできだ私にとっても、子供が120km離れたキエフから大脱出した話は初耳だった。私は、すぐさまこの件を大使館や日本の関係者に電話で伝えた。私の出張目的は農地汚染による出荷制限や作付け制限、土壌汚染の除去等にチェルノブイリの経験を教えてもらうことだが、その前に子供の優先避難という大問題に出くわしたのだ。そして驚いたことに、私が電話で伝えた関係者の誰一人としてこの計画的学童疎開の事実を知らなかった。

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   Source:
       ――子供が120km離れたキエフから大脱出した話――
      【国の将来を考え、動いたソ連と動かない日本
      2011年7月に視察したという篠原孝衆議院議員の報告】より。


以上、人として当たり前のアクションを、冷戦時代のソビエトがとったという話。
鉄のカーテン時代の出来事ゆえに広くは知られていない。
経産省、環境省、文科省は、ロシア、ウクライナが、保養を始めたのは、十年後から、とか、IAEA的な話ばかり。(避難するのはまだまだ早いそうだ)

4月26日の深夜避難のために1100台のバスと3本の列車が準備された。 4月27日14 時にプリピャチ市住民の避難が始まった。 わずか3時間で4万5000人が避難、うち1万7000人が子供であった。

「 事故直後、チェルノブイリ原子力発電所30km圏内の住民が避難。避難は適切で住民保護の対策は正しかった。これにより約1万人・Svの被ばく線量を防ぐことができ、放射線による深刻な影響の大規模発生を避けることができた。
事故の規模が明らかになるにしたがい汚染地域・30km圏内(555kBq/m2以上)からの避難がおこなわれた。
1986年末までに188居住区域から11万6000人が避難。さらに1993年末までに全部で23万人が避難した。 」


そのころ日本では、小太りの男が、「直ちの健康被害はありません」と絶叫し続けていた。
その後、「7回しか言ってない」とうそぶいている。


今では、20mSvまで大丈夫(しかもインチキ計測*)と、
高線量地に子どもたちを引き戻そうとしている。

*文科省式計測:当初は、地上5mで測っていた。(爆)
その後、表示低減措置(文科省万歳)、モニタリングポスト直下に
鉄板敷き詰め、ポスト周辺徹底除染(これが最も効果が高い対策だとか)。
大切なのは国有財産のモニタリングポストであって、子どもとやらでは無い。