文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

赤塚マンガ・マイ・フェイバリット オールタイム・ベスト20

2122-01-03 10:30:31 | 第1章
  1.  



「誰も読まない、振り向かない泡沫ブログ」「虚仮の一念、岩を通せないブログ」と、当ブログについて、常々自虐気味に語っている筆者であるが、近年益々加速してやまない赤塚不二夫矮小化に歯止めを掛ける一翼を担えないにしても、毎日数百人単位、多い時は一〇〇〇を越える閲覧者が訪れて下さっており、感謝も一入である。

先日、当ブログの閲覧者であり、拙著である『赤塚不二夫大先生を読む』『赤塚不二夫というメディア 破戒と諧謔のギャグゲリラ伝説』(ともに社会評論社刊)の二冊を購入して下さったという、筆者にとって殊勝な御仁とリアルに酒を酌み交わした際、筆者の「赤塚マンガベスト10」を教えて欲しいとのリクエストがあった。

筆者にとって多勢に無勢とも言うべき存在が、赤塚不二夫の漫画家としての偉業から目を逸らし続けている、赤塚不二夫ヘイトを標榜する一般大衆である。

中には、赤塚マンガを一冊も通読したことなどないにも拘わらず、メディアによる印象操作から、赤塚不二夫というだけで、全ての赤塚作品が駄作であると信じて疑わないアンチ赤塚のネットユーザーも当然ながら多い。

しかしながら、赤塚マンガ、延いては赤塚不二夫本人に少なからず関心を抱かれるようになった若年層も確実に存在している。

今回は、そういった方々も含めて、焼け石に水は承知の上、赤塚マンガの得難い魅力をアピールすべく、取り敢えずは、現時点において、赤塚マンガの暫定的ベスト20をこの場にて発表してみたい。

尚、件の愛読者の御仁からは、ベスト10を教えて欲しいと言われたものの、ベスト10に特化するには、捨て難い作品も多く、更にもう10エピソードと次点を加えた21作品を選出した次第である。

 

1位…『ラーメン大脱走』(「増刊漫画アクション」86年10月24日号)

筆者、十二歳の時、たまたま入店したラーメン店で、掲載誌を手に取り、人生で初めて「赤塚マンガ」を意識した、個人的には記念碑的作品と言えよう。

熱烈なラーメンマニアである刑務所の所長が、夜な夜な一人の受刑者を脱走させ、究極の五ツ星ラーメンを探しに行かせるという、赤塚マンガらしい荒唐無稽なエピソードだが、生命の危険に晒されながらも、所長のために五ツ星ラーメンを探し求める主人公・五十番と、人間の生命が懸かったこの究極のラーメン探しにスリルと興奮を覚える所長との心理的葛藤を幾層にも重ねながら、物語は読む者の感情にカタルシスを投げ掛ける最高のラストシーンへと流れ込んでゆく…。

読後の衝撃は計り知れず、本作によって「赤塚不二夫=天才」という揺るぎないイメージが筆者の中で確立したことは言うまでもなく、我が人生において今日に至るまで続く赤塚不二夫研究の導火線にして天啓となった一作。

19年に筑摩書房から刊行された『赤塚不二夫のだめマンガ』(筑摩文庫、杉田淳子選)にも本作品は収録されているが、決して「だめ」の部類にカテゴライズされる作品ではないし、また赤塚の名誉のために喧伝しておけば、いずれも、カルト赤塚ワールドの粋ともいうべき良作であり、逆説的な意味において、「看板に偽りあり」のアンソロジー集だと語気を強めておきたい。

 

2位…「ニャロメの怒りとド根性」(『もーれつア太郎』/「週刊少年サンデー」70年3号)

『もーれつア太郎』に登場する野良猫のニャロメは、どんなに虐げられても負けずに人間どもへと立ち向かうその反骨反逆の精神から、「少年サンデー」の中心読者である小中学生のみならず、全共闘世代の大学生からも熱烈な支持を得るに至った。

本作は、そうしたニャロメ人気が最高潮の時に描かれたエピソードで、ニャロメの高潔なる魂と生き様が最も顕著に描き出された傑作の一つだ。

轢き逃げ事件を目撃したニャロメは、日頃の素行の悪さが祟り、犯人について真実を語るも、誰も信じてくれない。そこで、ハンガーストライキという形で愚直にも真実を訴えようとするが、意志薄弱なニャロメはとうとう挫折してしまう。

誰も味方がおらず、孤軍奮闘するニャロメ。意を決し、轢き逃げ犯人であるPTAの会長に遭遇する都度、「ひきニャゲ!! ひきニャゲ‼」と声が枯れるまで叫び続ける。

そんなニャロメを目の当たりにしたデコッ八が「ハッ!」と何かに気付いたかのような表情のアップで唐突に締め括られるが、真実を貫く魂が結果として何れ程の力を持ち得るのか、そんな言外のメッセージとニャロメの道義的生き様に触れたデコッ八の感情を鋭く掘り下げた演出に、赤塚ならではの表現力の深さを改めて痛感させられる。

 

3位…「オメガのジョーを消せ」(『おそ松くん』/「週刊少年サンデー」68年46号)

『おそ松くん』の長編バージョンは、いずれも傑作ばかりであるが、その中でも筆者が最も愛着を寄せるのが、ハタ坊を主役に据えたこの作品。

かつてのギャング仲間であったイヤミの裏切りにより、その後の人生に辛酸を舐めるに至ったハタ坊が、今や出世し、大会社の社長にまで登り詰めたイヤミに復讐すべく、コールドハンターと化す『おそ松』版ハードボイルド路線とも言うべき一編で、不敵な笑みとともに胸に秘めたる怒りの情念を滲ませた凄みに満ちたキャラクターを演じている。

オメガのジョーことハタ坊から暗殺予告を受けたイヤミが、デカパン率いるギャング団(六つ子、チビ太、ダヨーン)に用心棒を依頼するものの、屋敷に爆弾が仕掛けられていると知ったギャング団は、金だけ持ってずらかろうとするが、既に屋敷へと侵入していたハタ坊に粛正されてしまう。

本編で特筆すべきは、ハタ坊の銃弾に倒れ、二階から落下し、奪った現金が舞うシーンでの、寒々しいチビ太の断末魔の如き呟きだ。

「お おれのしあわせが……………に にげていく……」

その刹那、チビ太は息絶えるが、この一連のディレクションは、決して上っ面だけとは言えない、人間の奥底にある背徳の闇をクールな視線で浮かび上がらせており、ピカレスク映画を彷彿させる感興を読む者に齎すこと請け合いだ。

 

4位…「チビ太の金庫やぶり」(『新おそ松くん』/「週刊少年キング」72年5号) 

O・ヘンリーの傑作掌編「よみがえった改心」より材を採った一編。

元々は、「週刊少年サンデー」(65年42号)に掲載され、好評を博したエピソードだが、その7年後となる72年、「週刊少年キング」誌上にて、赤塚不二夫、藤子不二雄A、永井豪、古谷三敏といった当代きっての人気ギャグ漫画家が一同に会した「新春ギャグビッグ4」と銘打たれた特別企画用にリメイクされた、謂わばリバイバル版「チビ太の金庫やぶり」である。

極寒の地で長い刑期を終え、心を改めたチビ太は、東京下町のトト子の父が経営する小さな鮮魚店で、住み込みの店員として働き、細やかな幸福を手に入れる。

だが、かつてチビ太を逮捕した鬼刑事のイヤミは、再び金庫破りに手を染めるであろうことを踏んで、出所後もチビ太を執拗に追い掛けまわしていた。

そんなある時、トト子の店に新しい金庫が搬入される。

チビ太の頑張りによって、店の売り上げが倍増したからだ。

だが、立派な金庫を見入る中、トト子は、その刹那、誤って中に閉じ込めらてしまう。

夜と金庫屋から金庫の暗証番号を聞き忘れたため、誰も金庫を開けることが出来ない。

金庫は密閉度が高く、中の酸素が次第に薄れてゆく。

トト子は、呼吸困難に陥り、やがて苦悶の声を呻き出す。

見兼ねたチビ太は、金庫に触れたら、即逮捕というイヤミ刑事の警告が脳裏に過るものの、意を決して金庫を開ける。

トト子が無事に救出され、トト子の父が安堵の溜め息をつく中、チビ太は、窓越しで一部始終を監視していたイヤミ刑事のもとに駆け寄り、金庫を開けてしまったことを告白する。

しかし、イヤミ刑事は、「ミーはチミなんかしらないざんすよ」ととぼけて、何事もなかったかのように去ってゆく。

翌朝、チビ太は、トト子の店に、たった一言「お世話になりました」と記された書き置きを残し、チビ太を探し求めてやって来た子分のハタ坊と二人、真面目に働ける場所を探そうと、新たな町へと旅立って行った…。

88年よりスタートしたリバイバルアニメでは、こちらの「少年キング」版をベースに同エピソードが作られたことからも窺えるように、リライトバージョンとはいえ、背景のディテールやドラマの時間的経過における緊迫性に神経を注ぐなど、作品全体の完成度たるや、前作をも凌ぐ結果となった。

ストーリー構成もまた、人物描写に重きを置くことで、高い純度と哀切に満ちた深みが表出され、その演出の完璧性は、膨大な赤塚作品の中でも無類と言っても良いだろう。

 

5位…『四大作家競作 拝啓おまわり様』(「ビッグゴールド」79年No.3)

花村えい子、里中満智子、赤塚不二夫、さいとうたかをらビッグ作家による、ポストをテーマに据えた課題競作シリーズ。

ある日、目ん玉つながりが勤務する交番に、指名手配中の怪盗23号から「このたび 左記の住所に落ち着きましたので ご近所にお出かけの節には ぜひわが家にお立ち寄り下さい」と書かれた手紙と一緒に、現在住居としているアパートの写真が送付される。

目ん玉つながりらは、アジトと見られるアパートに急行するが、何と、怪盗23号は、彼らが到着する一時間前に、既に別の場所へと引っ越していた。

だが、その翌日、交番に怪盗23号の速達がまたしても舞い込む。

今度は下落合一丁目のマンションにいるという。

再び、目ん玉つながりらは、そのマンションへと怪盗23号を確保すべく向かうが、またまた現場は藻抜けの殻だった。

しかし、そんな追跡劇を続けているうちに、警察は怪盗23号の立ち廻り先に関する一つの法則を見出す。

警察は、記者会見を開き、ホワイトボードに貼られた地図にこれまで怪盗23号がアジトとしていた場所と、これから立ち寄るであろう逃走経路を点と線で結び、そのエリア内をマジックで黒く塗り潰した。

そして、黒マジックで塗り潰したエリア内に、必ず犯人がいて、犯人逮捕も時間の問題であることを記者達に説明する。

だが、その地図上に浮かび上がった点と線は、大きく真っ黒な星状の形をしており、即ちこの追跡劇そのものが、警察の大黒星を意味していたという皮肉な展開へとドラマは更なる急転を見せる。

警察組織の愚鈍ぶりを嘲笑うかのような笑いが滅法シニカルで、その粋な落ちに至るまで、ドラマの劇的興奮をたっぷりと満喫出来る、まさに隠れた傑作と呼べるだろう。

 

6位…「バカは死んでもなおらない」(『天才バカボン』/「週刊少年マガジン」69年9号)

『天才バカボン』の世界観は、連載を重ねるにつれ、益々ナンセンスへの拍車を掛け、バカボンのパパの馬鹿さ加減も過激にヒートアップ。遂には、殺人行為すら、日常生活の一環でしかないと言わんばかりに実に多くの人間を死に追いやってゆく…。

そんなパパが最初の殺人を犯したのが、当該のエピソードで、あろうことかこの時、パパは一度に五人もの人間を連続して殺めているのだ。

ある日、パパは不景気の余り、「死にたい」という言葉を口癖とするショボくれた中年男に遭遇する。

パパは、男に同情し、その自殺願望を叶えてあげるべく、ビルの工事現場から大石を落下させ、死なせようとするが、石は男ではなく、止めに入った工事関係者の頭に命中し、全く関係のない人物が命を落としてしまう。

次にパパは、タクシーに乗り込み、運転手に「あいつをひいてあげろっ」と伝え、ハンドルを握るが、それを拒否する運転手と揉み合いの末、タクシーは壁に激突。運転手だけが事故死する。

二度も別の人間が死に至り、項垂れるパパのところに今度は目ん玉つながりが現れる。

パパは男を射殺しようと、目ん玉つながりから拳銃を借り出そうとするが、この時も揉み合いとなり、銃が暴発。銃弾が胸に当たり、目ん玉つながりの方が死んでしまう。

立て続けに別人を殺してしまったパパは、今度こそはと毒薬を調達し、再度男の殺害を企てるが、泥棒を追い掛け、喉がカラカラに乾いた警察官がパパの制止を無視し、用意した毒入りジュースを飲み干したため、死に至る。

遂に、万策尽き果てたパパは、男を原っぱに呼び出し、土管の中に閉じ込める。

土管の上に大きな石を置き、男を閉じ込めることに成功するが、その男は三日後、命からがら脱出する。

だが、男は三日間絶食していた反動から、レストランでカツ丼三つ、天丼五つ、カレーライス八つを平らげるという無茶をやらかし、肝硬変による急死を遂げるのであった。

当然、パパはそんな結末を知る由もない。

これらの殺人行為が、まだ悪意のない自殺幇助の延長にあったものとはいえ、多くの人々の人生がパパの無分別によって、文字通り破壊されてゆく様相には、ショッキングな戦慄と人間の不条理な巡り合わせの双方を覚えずにはいられない。

 

7位…『九平とねえちゃん』(「りぼん」66年4月号別冊付録)

数ある赤塚少女漫画の中でも、一部の読者の間で、取り分け、最高傑作との呼び名が高い一作。

別冊付録としてオリジナルが発表された以降も、複数回に渡り単行本化、アンソロジー集(『原爆といのち 漫画家たちの戦争』/中野晴行監修、金の星社、13年)へ併録されたりと、マイナーながらも一般の知名度は決して低くない。

幼い頃、父親を事故で亡くしたユキ子は、水質汚染されたドブ川が流れる、スモッグに覆われた工場だらけの下町の古寂れた家に、玩具工場で働く母親と腕白盛りの弟、九平とともに慎ましく暮らしていた。

ある日、ユキ子はふとしたきっかけで、写真館の青年、裕(ヒロシ)と幼い妹のヤエ子の兄妹と出会う。

ユキ子は颯爽とした好青年の裕に対し、兄のように慕うとともに、恋心にも似た一途な感情を抱くようになり、やがてユキ子と九平、裕とヤエ子の四人は、母子家庭という同じハンデを背負った身の上から、お互いの苦労や喜びを理解し合い、本当の兄弟姉妹のような交流を結ぶようになった。

ある時、ユキ子は、裕から自身が原爆症を患っていること。そして、実の妹である筈のヤエ子の出生の秘密を告げられる。

裕が発症した原爆症は、放射線被曝であり、一〇年、二〇年の潜伏期間を経て、白血病や悪性リンパ腫を引き起こす晩発性のもので、当時は不治の病として認知されていた。

裕の独白にショックを受けるユキ子ではあったが、いつか元気になったら、裕とデートがしたいと、希望に胸を膨らませ、街のテーラーのショーウィンドウで見た素敵なコートを買おうと、冬休みにスキー場へとアルバイトに向かう。

だが、その時既に、東京で入院生活を送っていた裕の身体は、確実に原爆症の病魔に冒されつつあった……。

恋に対するピュアな憧れや、その裏側にある深い沈鬱、現実への戸惑いといった思春期特有の二律背反する心の機微を過不足なく綴ったドラマトゥルギーに、被爆者問題という社会的にもデリケートなテーマを妥協なく溶解したストーリーテリングが掛け値なしに素晴らしい。

少女漫画の枠組みを用いつつも、原爆の脅威が個人の人生に及ぼす具体的なトラジェディーを写し出した反戦漫画の力作。

尚、前出の『原爆といのち 漫画家たちの戦争』を監修した漫画評論家の中野晴行のほか、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の原作者、秋本治も、『赤塚不二夫ベスト 秋本治セレクション!』(集英社、06年)で、本作の魅力について触れており、自身の漫画の原点として、リスペクトを示している。

 

8位…「億万長者の家をご訪問なのだ」(『天才バカボン』/「週刊少年マガジン」76年14号)

75年、テレビアニメ「元祖天才バカボン」の放映開始に合わせ、中断していた「週刊少年マガジン」版『天才バカボン』も連載再開の運びとなるが、毎週5ページという限られたスペースでの復活であった。

この5ページ連載の『バカボン』は、かつての愛読者の間では、ショートショート・シリーズと呼ばれ、短いページ数ながらも、赤塚ならではの先鋭的表現を多分に含んだ挿話も少なくない。

そんな本エピソードでは、バカボンのパパがたい焼きで巨万の富を得た先輩の大邸宅に遊びに行くところから始まる。

パパが先輩の邸宅の庭番に「ご主人にバカボンのパパがきたとつたえてください」と伝える、何の変哲もない導入部だ。

だが、庭番が女中に「女中さん、バカファーザーがきました」と耳打ちしてから一転、女中は女中頭に「バカファーザーがおこしになりました!!」と告げ、ドラマはおかしな流れへと変転してゆく。

女中からその言葉を受けた女中頭は、執事に「バカファーザーがおころしにきました!!」と緊迫した面持ちで報告する。

大慌ての執事は、執事長に「バカファーザーが殺しにきました!!」と伝えるなど、伝言内容は更にエスカレートし、秘書室長の耳に入った時は、「ゴッドファーザーがご主人を殺しに!!」に変わり、その言葉は夫人を経由し、殺人予告として先輩の耳に入る。

怒った先輩は、「よーし こっちこそ やつのドテッぱらに風穴をあけてやれ!!」と夫人に伝える。

その言葉は、秘書室長に「ようし こっちこそ風穴をあけてやるのよ!!」と伝言され、今度は「「ようこそ」と風穴をあけるんだ!!」と執事長に伝えられる。

そして、執事長から「ようこそだ!! 風穴をとおすんだ!!」と報告を受けた執事は、女中頭に「ようこそきたなと風穴をとおせ!!」と託け、そのメッセージは「ようこそきたなととおすのよ!!」と歪曲され、女中へと取り次がれる。

最後に女中から「ようこそおいでくださいましたとおとおしするのよ」と耳打ちされた庭番が、「ようこそおいでくださいました!! どうぞ!! ご主人がお待ちです」と、より丁寧な言葉をパパに告げ、邸宅へと案内する。

テーマから大きく外れつつも、最後には、再び同一のテーマへと帰納する循環と反復の相互浸透を違和感のない笑いへと置換してゆく作劇上のテクニックが、既成のギャグ漫画の表出水準を上回る精度を殊の外際立たせており、通常の赤塚ナンセンスの発展形としての刻印を明瞭化せしめた傑作。

 

9位…「1票差」(『赤塚不二夫のギャグゲリラ』/「週刊文春」77年7月21日号)

毎回、決まった主人公を定めなかった『ギャグゲリラ』であるが、登場するキャラクターの過激ぶりは、成人向け時事漫画としては類例を見ず、その皮肉な切り口から繰り出される諧謔性と社会風刺は、「文春」読者より好評を博し、一〇年を越えるロングランなった。

77年当時、あらゆるメディアにおいて、保革逆転による政権移譲が示唆されるなど、波乱に満ちた第十一参議院選挙をモチーフに、赤塚は複数の選挙ネタを『ギャグゲリラ』にて発表するが、このエピソードもその一本で、落選候補者の悲歎をカリカチュアライズしている。

たった一票差といえ、再選を果たせなかった候補者に世間の対応は冷淡だった。

地位を失墜させた候補者には、親戚以外お中元を持って来る者すらいなかった。

だが、忠誠を誓う選挙スタッフ二人は、候補者に最高のお中元を贈呈する。

それは、二人が投票箱に入れずに取っておいた投票用紙で、候補者の氏名欄には、二枚とも彼の名前が記されていた。

選挙スタッフの二人は、忠誠の誓いの証明として残し、直接彼に手渡ししたのだ。

その行為に感涙する落選候補者。しかし、この二票が投票箱に入っていれば…。

目眩くギャグの展開力を僅か6ページの中に落とし込んだ『ギャグゲリラ』屈指の傑作エピソードだ。

因みに、93年にフジテレビでオンエアされていた「ビートたけしのつくり方」なるバラエティー番組内で、起承転結に至るまで、こちらの挿話と全く同様のコントが作られたことがあったが、恐らく番組内の構想作家が初出、もしくは単行本収録の際に本エピソードを読んでおり、そのままコントの素材として頂いたのであろう。

赤塚ギャグの時代を超越した普遍性を感じさせる。

 

10位…「秘話ここほれワンワン」(『赤塚不二夫のギャグランド』/「リイドコミック」79年4月5日号)

源氏三代による鎌倉幕府の樹立と東国武士団の興亡を描いたNHK大河ドラマ「草燃える」をヒントに据えた赤塚版時代劇パロディー。

殿様であるレレレのおじさんが滅亡した徳川家を再興すべく埋めた小判を巡り、様々な人間が数奇な運命に翻弄されてゆく様を軽妙且つシニックな笑いに染め上げて綴ったナンセンス叙事詩で、ラストに時代が現代へと飛び、小判を見付け出したチンピラが、それを元手に純和風高級トルコ風呂(現在の名称はソープランド)「江戸城」を立ち上げ、徳川家が再建されるという予想外の落ちへと雪崩込む。

『赤塚不二夫のギャグポスト』には、本エピソード以外にも、硬くなった読者の頭をほぐす赤塚版「頭の体操」とも言える「共通第3次試験」や、純和風の装いの世界観を画稿狭しと展観する「日本に来たことのない外国人の筆による日本のまんが」といった遊び心溢れる挿話も多く、短期連載ながらもなかなか侮れない。

 

11位…「イヤミはひとり風の中」(『おそ松くん』/「週刊少年サンデー」67年41号)

チャーリー・チャップリン監督、主演による不朽の名作「街の灯」をベースとした時代劇版『おそ松くん』。

世を捨て、世に捨てられた素浪人のイヤミは、貧困層が集中した江戸のハラペコ長屋で、グータラなその日暮しをする中年男だ。

そんなイヤミは、ある日道端で花売りの少女、お菊と出会う。

お菊は盲目であった。

彼女の辛い身の上と聞くうちに、イヤミは、慈悲とも思慕とも付かない、しかし、至純で尊い厚情を抱き、その目を治してあげようと決意する。

出会いは人の心を動かす。守るべき人を得たその時、イヤミの中で何かが弾けた。

以来、お菊の治療費を稼ぐ、寝食を忘れ、毎日馬車馬の如く必死に働く。

しかし、お菊の目の治療費は、一〇〇万円近い大金で、そんな金を用意出来ないイヤミは途方に暮れてしまう。

そんな中、江戸城城主の若チビ(チビ太)が御前試合を開催し、優勝者には一〇〇万円の褒奨金を贈呈するというニュースが江戸中を駆け巡る。

褒奨金で、お菊の目を治せると考えたイヤミは、一念発起して試合に挑むが、お菊に恋心を抱く若チビの策略にはまり、優勝を逃す破目になってしまう。

追い詰められたイヤミは、江戸城の御用金を奪い、お菊の治療費を捻出する計画を立てる。

そして、御用金強奪は成功し、その金はお菊へと渡り、長崎で治療を受けたお菊の目は晴れて見えるようになるが、一方のイヤミは、御用金強奪の罪に問われ、囚われの身となり、牢獄へと入れられる。

時を経て、無事に目が見えるようになったお菊は、街道の茶店で働きなから、イヤミを待ち続けていた。

運命の悪戯か、そこに身柄放免となったイヤミが立ち寄る。

だが、お菊はその男がイヤミであると気付かった。

牢獄から出て来たイヤミは、自らの落ちぶれた現状を思うと、自分がイヤミであることを告げることも出来なかった。

それはイヤミにとって、武士としての最後のプライドでもあったのだ。

そして、イヤミは、お菊に永遠の別れを告げ、彼女の幸福を願いつつ、一人風の中を去って行く…。

深い哀切を残したまま、物語の幕を閉じるラストシーンは、まさしく白眉の出来栄えで、痛切なまでに読者の胸に響き渡る。

尚、本エピソードは90年にスタジオぴえろ製作によるオリジナル・ビデオアニメとして日本コロムビア株式会社より単体でリリースされたほか、18年に「おそ松さん」(第二期)でも1エピソードとしてテレビ放映された。

「おそ松さん」版「イヤミはひとり風の中」は、ほぼ忠実に原作のドラマを再現しながらも、時代設定を江戸時代から昭和三〇年代へとスライドしており、モノクロアニメとしてオンエアされた。

原作の『おそ松くん』には全く興味がないであろう「おそ松さん」ファンにも絶賛され、今尚、当エピソードは、泣けるギャグ漫画、泣けるギャグアニメの名作中の名作としてその評価については揺るぎないものがある。

 

12位…「地球最後の日の王様」(『ギャグギゲギョ』/「週刊少年キング」74年31号)

後に、曙出版から『ギャグの王様』のタイトルで上下巻に分けて単行本化される『ギャグギゲギョ』は、『ギャグゲリラ』同様、特定の主人公を定めず、毎回、パンチの効いた特技と個性を持った異常人物達が、我こそがその道の王様だと言わんばかりに、どぎつく画稿狭しと暴れまくる、ブラックユーモアとセンス・オブ・ワンダーの分水嶺を境にした異端のシリーズだ。

連載後期に描かれたこのエピソードは、そんな漫画本来が持つデタラメなドラマが、奇抜な着想をもって展開し、読み手の脳を軟化させてやまない前代未聞となる笑いのセオリーを生み出してゆく。

長い雨が続き、また雨が止むと、今度は恐ろしく暑い異常気象となり、この世は辺り一面カビだらけの世界となる。

ノストラダムスの大予言にも記されていない天変地異に恐れおののく人間達。気象現象は悪化し、人々の身体が糸を引くように溶け出してゆく。

そして、この世の最期か、天空からは、黒い雨が降り注ぎ、今度は放射能なのか、真っ白い粉雪状の結晶が世界全土を覆い尽くす。

やがて、いくつもの円盤が地球に不時着し、最後には黄色く光る巨大な流星が地球を飲み込み、遂に全人類は一巻の終わりを告げる。

最後のコマは、一家団欒の食卓、母親がお皿に入っている何かを箸で掻き混ぜながら一言「きょうのナットウはよくねばるわ」。

実はこのエピソード、納豆が出来るまでを綴ったもので、作中登場する人類は水戸納豆、黒い雨は醤油、粉雪上の結晶は味の素、不時着した円盤は刻みネギ、黄色い巨大流星は生卵に見立てたギャグになっているのだ。

SFホラーを想起させる殺伐としたカタストロフィーが一気にナンセンスな笑いへと跨ってゆく脱線は、読者にひと時の放心を齎す、赤塚ならではの高度なスカシのテクニックと言えよう。

因みに、このアイデアは、赤塚自身、お気に入りだったと見え、後にバリエーションを変え、『大日本プータロー一家』の1エピソード(「納豆でネバネバ!!」/「コミックボンボン」91年6月号)でも、プロットの一つとして再利用されている。

 

13位…『赤塚不字夫のギャグ漫字』(「リイドコミック」79年1月4日号)

70年代、赤塚不二夫は「リイドコミック」誌上にて様々なスタイルの青年向けギャグの傑作、怪作を続々発表するが、本エピソードは、赤塚の実験精神の発露とも呼べる作品で、登場人物は文字で吹き出しの台詞が絵文字に変わっているという「□□□」(絵のため表記不可)(『天才バカボン』/「週刊少年マガジン」73年47号)をベースに幾何学的抽象の概念を更に突き詰めた意欲的な一編だ。

しかし本作は、単なるタイプグラフィに過ぎなかった登場人物や風景描写が主だったギャグである「□□□」とは異なり、登場する漢字を全て擬人化し、その文字や語句から滲み出る妙味を戯画化した、赤塚らしい言葉遊びが全編に渡って貫かれている。

本作品は、「新婚旅行」「非常口」「わり込み」「男と女」「羊」「成人式」「かくれる」の七編がオムニバス形式で描かれており、例えば、「成人式」では、成人となった三人の女がちょっぴりHな女子トークで盛り上がっているところ、町内一のスケベ男・強くんが三人の女を襲ってしまい、遂には「強姦罪」で逮捕されるというもの。

「羊」では、この作品の発表年の干支が羊であったことから、羊がレポーターに色々と質問をぶつけるものの、「メエーメエー!!」しか答えられない。

業を煮やしたレポーターが羊に蹴りを入れると、羊の文字ががバラバラになって「¥」と「一」になってしまう。

そこで、再度レポーターが「お年玉はいくらもらいましたか?」と訊ねると、羊は「¥1」と答え、名前を訊ねられると、今度は逆さまになった¥の上に一が乗っかり、「一夫」と答える按配だ。

これは羊が一夫多妻制を習性としている動物であることを掛けている。

『ギャグ漫字』は、テーマをそのままに、この二年後の81年、現代出版から発売され、好評を博した『クイズ式ことばあそびカタログ』(ことばの会編/5月20日発行)でも、新たに描き下ろした「まさかのときに」「暴走族」「自主トレ」の三エピソードと一緒に「新婚旅行」が収録されている。

「まさかのときに」は、住友生命の生保レディが独身男のアパートに勧誘に赴くものの、ふとした拍子に男女の仲となってしまい、生保レディの大きくなったお腹(友の文字)に小さな生命が宿ってしまうという内容で、「自主トレ」は、雪だるまを真っ黒にしたような男が、とある「監督」から厳しいトレーニングを課せられ、すっかりスリムになると、その真っ黒の雪だるまの正体が実は「田淵」だったというもの。

当時、極度の肥満から成績不振を余儀なくされていた西武ライオンズ所属の田淵幸一選手を茶化した内容で、厳しい監督は、この時ライオンズの監督を務めていた根本陸夫という落ちだった。

尚、本タイトルは、「まさかのときに」「暴走族」「自主トレ」を除き、21年に大人向け赤塚マンガの未収録作品ばかりを集めた画期的なアンソロジー集『夜の赤塚不二夫』(なりなれ社、7月28日発行)に初収録され、漸く日の目を見るに至った。

また余談であるが、16年に第一期「おそ松さん」で放映された「十四松と概念」は、まさに本作の系譜と言っても差し支えないエピソードで、こうしたマイナータイトルにおいても、赤塚の類稀なる先取性を見て取ることが出来よう。

 

14位…「伊豆の踊子」(『レッツラゴン』/「週刊少年サンデー」72年21号)

『天才バカボン』の連載中断、『もーれつア太郎』の連載終了、そして、それらに変わって始まった新連載タイトルも思惑通りの人気を得られず、また、プライベートにおいても、最愛の母だったりよが鬼籍に入るなど、70年から71年に掛けては、赤塚にとって受難に見舞われた時期でもあった。

漫画家としても、一人の人間としても、大きな曲がり角に差し掛かったことを赤塚自身、痛感していたのであろう。

再度、創作のモチベーションを高めるとともに、自らの発想や想像力を今一度オーバーホールすべくニューヨークへの短期遊学を決意する。

この時、親友である漫画家の森田拳次がニューヨークで漫画家修行をし、現地に滞在していたことも、背中を押す切っ掛けになったのだろう。

そんな赤塚がニューヨークで体験した新鮮且つ驚倒に満ちた生活と、たっぷりと吸収した現地の文化や風俗をその世界観に対し、ダイレクトにぶつけたとされるのが、この『レッツラゴン』だった。

特に、当該のエピソードは、『レッツラゴン』の中でもターニングポイントとなった一作で、赤塚が『レッツラゴン』に関して、ネームを一切切らずに、ぶっつけ本番で清書用のケント紙に絵と台詞を入れてゆくその嚆矢となった。

このコマからコマへの緊張感だけで、ドラマを紡いでゆくアドリブ性重視の執筆スタイルは、計算していないからこそ得られる意外性に満ちたギャグや発想を盛り込めるメリットがあり、ネームを切るといった通常の制作工程を経ては、恐らく削ぎ落とされてゆくであろう初期衝動に満ちたグルーヴが、その世界観において横溢するというのも客観現象の一つとしてあるだろう。

ノーベル文学賞受賞作家として令名高い川端康成のガス自殺にインスパイアされて描かれた本作は、「長いトンネルをすぎると…」で有名な同じ川端文学の代表作「雪国」を模倣したプロローグから始まり、学帽にマントを身に纏った出で立ちのベラマッチャが、旅の道中、ブスの踊り子、ジュリエットと出会い、恋に落ちるというパロディーとして展開するが、中盤よりその設定は、尾崎紅葉の「金色夜叉」へと変貌する。

そして最後は、貫一とお宮の如く、ベラマッチャがジュリエットを波間で蹴飛ばし、再び長い旅路へと向かうという、パロディーでありながらも川端原作の原型を留めていない、パラレルな二つの世界が異種結合した不可解な結末を迎える。

この作品を機に、赤塚は意図して、ドラマも落ちも含め、既定性への着地を拒否するシュールレアリスムとの類縁を帯びた意匠をシリーズにおいて徹底化してゆく。

近年、アンチ赤塚の泡沫ユーザーが、『レッツラゴン』は毎回人気最下位だったと某SNSでポストし、当該ポストが至るところで拡散されていた。

確かに、『レッツラゴン』は、『おそ松くん』『天才バカボン』『もーれつア太郎』のようにテレビアニメ化され、爆発的人気を呼んだわけではないが、毎回人気最下位であるタイトルが3年もの長期連載を果たすことはなかろうし、そのキャラクターが頻繁に掲載誌の表紙を飾ることもないであろうことは、語るに及ばずだ。

こうした思慮深さの欠片もないアンチ赤塚の愚鈍ぶりには、毎度のこととはいえ、ほとほと呆れ果ててしまう……(溜め息)。

 

15位..「天才アルコール」(『天才バカボン』/「月刊少年マガジン」88年8月号)

87年、テレビ東京の「まんがのひろば」枠にて、東京ムービー製作の「天才バカボン」(71年〜72年)、「元祖天才バカボン」(75年〜77年)が立て続けに再放送される。

一連の『バカボン』リピート放送は、同局の番組、NHKを含む同時間帯全てのプログラムの中で、ナンバーワンの視聴率を獲得したほか、オンエア中の全アニメ番組においても、三位に食い込むという異常な盛り上がりを見せ、小中学生を中心に『バカボン』人気が再熱する起爆剤となった。

その後、「コミックボンボン」「テレビマガジン」といった講談社系の児童雑誌に、『バカボン』や『おそ松くん』がリバイバル連載され、88年から91年に掛けては、これらに加え、「ひみつのアッコちゃん」や「もーれつア太郎」といった他の代表作も続々とリメイク放映された。

第四次赤塚ブームの到来である。

その一環としてリバイバル時代初期に「月刊少年マガジン」でも、『天才バカボン』か再執筆された。

本作は、数ある『バカボン』エピソードの中でも異色中の異色作で、登場人物が全て酒という、一見支離滅裂な状況生成を織り成しながらも、そのエクスプレッションは、シュールの概念を超え、更なる前衛への視野を開陳した、シュールの形而上学と例えて然るべき超常的ナンセンスへと仕上がっている。

バカボンのパパが恵比寿顔だけにエビスビール、バカボンが子供だけに、ノンアルコールのバービカン、ママがサントリーのママ(生)ビール、取り締まりがドライな目ん玉つながりにはサッポロ・ドライと、『バカボン』キャラクターが酒に変換された驚倒の仮想的並列世界が繰り広げられるが、弁慶の如く、ビールの千本抜きを目指す栓抜きとエビスビールのパパとの対決軸にドラマの焦点を絞っているため、これといったストーリーはなく、ヤマ場もオチもない。

さりとて、キャンベルのスープ缶のポスターに代表されるアンディ・ウォーホルのポップアートと同じく、平坦な空間の中にも奥行きある彩度を表出しており、漫画の本道から外れた特異な世界観を呈示しつつも、その根底には、ウイットに富んだ赤塚特有の遊び心が注がれている。

 

16位…「ガーブの世界」(『お笑いはこれからだ』/「小説新潮」84年2月号)

82年より連載開始した『お笑いはこれからだ』は、和田誠の名著「お楽しみはこれからだ」のギャグ版を目指した意欲作で、各話、名作映画、話題映画をサブタイトルに用いつつも、そのタイトルと合致する社会事象や時事問題をテーマに据え、戯画化した成人向けパロディーだ。

その中でも、当エピソードは、当時エッセイ集「ルンルンを買っておうちに帰ろう」を発表し、一躍ベストセラー作家となった林真理子を主役に迎え、男に全く相手にされない、しかし、何処までも欲望に忠実なブス女の痛々しい迷走ぶりをドギツイまでに笑い飛ばした痛快作である。

ジョン・アーヴィングの原作及びジョージ・ロイ・ヒル監督による「カーブの世界」は、男性を拒否しながらも、意識不明である植物人間の元軍人と一方的に性交し、子供を宿した一人の看護婦が、自らの半生を赤裸々に綴った自伝を刊行し、一躍フェミニストの旗手となるストーリーだが、この赤塚版「ガーブの世界」では、欲求不満の林真理子が巨額の印税でハーレムを建造するものの、オチは、集ったメンズ達が皆、古代中国の宦官と同じく、イチモツを去勢し、林真理子にお遣いするという悲哀に満ちた帰結を見る。

個人的には、禍々しい赤塚時事ナンセンスとして、傑作の範疇に入る作品ではあるが、血祭りにあげられた当の林真理子にしたら、腸が煮えくり返る代物だったのは当然のようで、後年、長谷邦夫の述懐によれば、当時新進気鋭のエッセイストとして売れに売れていた林真理子の本エピソードに対する怒りは相当なものだったようで、「小説新潮」編集部に対し、「私を取るか、赤塚を取るか」と言わんばかりに恫喝まがいの要求をしてきたという。

その結果、『お笑いはこれからだ』は打ち切られたと語るが、『お笑いはこれからだ』の連載が終了したのは、この挿話が描かれたおよそ一年後のことで、長谷の発言からはタイムラグが生じている。

実際、林はこの時代、新潮社で仕事をしておらず、初めて新潮社より小説集「胡桃の家」を刊行するのは、『お笑いはこれからだ』の連載終了から更に時を経た86年のことだ。

また、この件について、林は泣き寝入りするしかなかったと自著「成熟スイッチ」にて述懐しているものの、この直後、林が訪れたバー(恐らく四谷の「ホワイト」だと思われる)で赤塚とバッタリ出食わし、「あの時はごめんね」と謝罪を受けたとも語っている。

従って、この長谷証言も、記憶違いだか、赤塚がこの時代、既に出版界において求心力が失われていたことを殊更に強調したいがために吐いた虚言だかは、当然ながら筆者の知る所ではないが、こちらもまた、例によって相変わらずの誤謬であることに論を俟つまでもないだろう。

因みに、その後も林と赤塚は、雑誌等で対談をしたりと、林の太っ腹且つ女傑のような性格もあって、その関係が悪化することはなかったようだ。

 

17位…「いまにみていろミーだって」(『ア太郎+おそ松』/「週刊少年サンデー」69年21号)

『おそ松くん』の週刊連載終了により『もーれつア太郎』の連載がスタート。ライバル誌「週刊少年マガジン」で人気を博した『天才バカボン』の「サンデー」移籍により、『ア太郎』『おそ松』『バカボン』の赤塚ギャグ三大タイトルの人気キャラクターが一同に介した長編漫画が69年から70年に掛けて、複数本執筆されることになる。

「いまにみていろミーだって」は、そうしたジョイント企画の中でも特段に評価の高い一作であり、曙出版、講談社、竹書房といった通常の『おそ松くん』コミックス以外にも、『ギャグほどステキな商売はない』(広済堂、77年)や『赤塚不二夫のマンガバカなのだ ア太郎+おそ松』(朝日新聞出版社、09年)といった赤塚関連書籍や赤塚アンソロジー集にも複数回に渡り収録されている。 

イヤミとバカボンのパパをダブル主演に迎えたこの作品は、二人が唐辛子メーカー(「八色(ぱーいろ)とうがらし」)に勤務するうだつの上がらないセールスマンという設定の中、バカボンのパパはイヤミの父親役を務めるといった異色のキャスティング。また、彼らを取り巻く会社の人間達も、ワンマン社長にデカパン、日和見専務にハタ坊、パワハラ部長にチビ太、美人秘書にトト子、トップセールスマンコンビにア太郎とデコッ八、給仕にココロのボス、清掃係(?)にレレレのおじさん、そして、会社に居付いている野良猫としてこの時人気絶頂だったニャロメが名を連ねており、赤塚スターシステ厶の本領がフルに発揮されている点も大きな魅力の一つだ。

ストーリーは、全く業績を上げられず、会社では疎まれる存在であるバカボンのパパ、イヤミ親子が、ある日、巷を騒がしていた四億円強盗犯人が奪ったとおぼしきトランクの積まれたカローラを発見。犯人が乗り捨てた車であると判断したイヤミは、警察に通報し、遺失物法によりその一割である四千万円を謝礼金としてもらおうと皮算用し、これまでの意趣返しとばかりに会社で傍若無人な振る舞いをするが、実はトランクの中味はカラッポという落ちだった……。

68年12月10日、東京都府中市で発生した三億円強奪事件をモチーフとした本作品は、翌年の4月9日、国分寺市の本町団地敷地内にある駐車場にて、実際、犯人が乗り捨てた逃走用カローラと奪ったジュラルミンケース三つが発見され、発生から数ヶ月、新情報が途絶えていた三億円事件が再び世の耳目を集めていたまさにその時期、タイムリーに描かれた喧騒劇だ。

児童ギャグ漫画でありながら、こうした時事性の高さは赤塚ワールドの独壇場であり、この後も時宜に適したナンセンスな笑いが、その世界観において幾度となく弾き出されてゆく。

三億円事件は、赤塚にとっても興味の尽きないテーマだったと見え、「週刊文春」連載の『赤塚不二夫のギャグゲリラ』でも、「私は泣いています」(74年11月11日号)、「デブデブ」(75年9月11日号)、「時の過ぎゆくままに」(75年12月18日号)の三本でカリカチュアライズしたほか、「週刊読売」の三億円事件特集号でも、三億円犯人逮捕を夢見るダメ刑事の悲哀を描いた『私バカよネ おバカさんよネ』(75年9月13日号)を寄稿している。

いずれも、赤塚ならではのシニック且つ烏滸の笑いへと染め上げた傑作掌編だ。

尚、当エピソードの舞台となった「八色とうがらし」は、遡ること一年前、『天才バカボン』の「タリラリラ〜ンのとうがらしなのだ」(「週刊少年マガジン」67年40号)で、パパが味見係として入社した会社であったことも、赤塚マンガトリビアの一環としてこの場にて追記しておきたい。

 

18位…「リインカーネーション」(『不二夫のギャグありき』/「週刊少年サンデー」77年39号)

赤塚不二夫にとって「週刊少年サンデー」最後のシリーズ連載となった『ギャグありき』は、連載当初、犬と人間の合の子とおぼしき次男坊の活躍を中心に、メンデルの遺伝の法則を無視したワケあり親子が総出演するファミリー喜劇として展開していたが、一億総中流時代における一般家庭のステレオティピカルな日常に映し出された倒錯的奇性をテーマに、ホームドラマの常識を意識的に覆す、メタフィクショナルな笑いを標榜したその世界構造にあっては、ドラマの柔軟性を失うことは必至で、テコ入れも兼ね、内容を一新するしかなかったのだろう。

連載途中から、キャラクターを総入れ替えし、何と、父親役にバカボンのパパが登板。このように劇構成の基盤となるシチュエーションをキャラクターシステムに依拠した流れから、ワケありファミリーの定住型コメディーは、『レッツラゴン』のリバイバルへと、ドラマそのものが突如として変貌し、その後三週に渡って続くことになる。

リバイバル版『レッツラゴン』に代わって登場新生『ギャグありき』は、主人公を定めない、より自由度を高めたシュールなナンセンスコメディーへと捻りを効かせる。

取り分け、この「リインカーネーション」は、その最たるエピソードで、亡くなった一人娘の魂が、ある日、髭面の中年醜男(カオルちゃん)の身体に宿り、最愛の両親と奇妙な同居生活を始めるというのが主なあらましで、花子の魂が乗り移った中年男に警戒する父親は、遂に寝不足のあまり突然死してしまうという大きなヤマ場を迎える。

だが、父親も魂だけは生き残るものの、あろうことか蝿に転生し、蝿の姿で遺した妻子を見守りに来るも、愛する妻から殺虫剤を一吹き掛けられ、ジ・エンドとなってしまう痛烈な落ちへと転がり込む。

読者の展開予想を遥かに上回る驚愕のクライマックスが独壇場の赤塚ワールドだが、本シリーズにおいても健在で、これが赤塚にとってホームグラウンドであった「週刊少年サンデー」の最後の連載作品だと思うと、一抹の寂しさを禁じ得ない。

 

19位…『逃げろや逃げろ』(「少年チャレンジ」79年8月号)

「少年チャレンジ」に夏休み特別企画として発表された『逃げろや逃げろ』は、100ページに渡って発表された、赤塚にとっても渾身の長編読み切りだ。

小学校を卒業すると同時に、東大へ飛び級入学させるという驚異のスーパー進学塾・東大一直線塾に入塾した江川学少年を待ち受けていたものは、夏休みも冬休みも返上し、二十四時間勉強に勤しむ過酷極まるカリキュラムだった。

この東大一直線塾には、何と、東大に合格出来ないと見なした生徒は、一人残らず処刑されるという恐るべき秘密があった。

このままでは、命がないと戦慄した学は、塾で親しくなった仲間の久美やタコ八とともに脱出を企てる。

だが、富士の樹海の中、四方八方を高い鉄壁に囲まれた要塞のようなこの塾を脱出することは完全に不可能だった。

そこで学は、塾長の鬼田の懐刀であるガリ勉の勉を利用し、脱出するというある奇策を思い付く……。

勉強浸けの生活に、毎日がんじがらめになっている子供達を救うべく、学、久美、タコ八の三人が自衛隊の戦車を使って東大一直線塾を総攻撃したり、瓦礫の山となった塾から、巨大ロケットが轟音とともに宇宙に飛び立ったりと、中盤から終盤に掛け、ブレーキが壊れたかのようにドラマが加速してゆく、興奮度満点のエンターテイメント作品として、読者の目を釘付けにしつつも、作品の論意は過熱の度を深めていた当時の受験教育政策の不毛性を茶化した、痛烈なシニシズムによって支えられており、その根底には、いつの世も子供は子供らしく腕白で逞しくあって欲しいと願う赤塚自身の想いがテーゼとして盛り込まれている。

舞台となった東大一直線塾は、ネーミングこそ同時期に人気を博していた小林よしのりの『東大一直線』のパロディーになっているものの、その教育理念は、徹底したスパルタ教育による学習指導をスローガンに掲げ、一流進学校への驚異的な合格実績を上げるなど、エリート養成機関としてその名を全国に知らしめていた学習塾・伸学社(別名・入江塾)をイメージしたものと思われる。

 

20位…「天然痘?」(『赤塚不二夫のギャグゲリラ』/「週刊文春」73年4月30日号)

スペインが生んだ前衛芸術家、パブロ・ピカソ逝去のニュースに合わせて発表された「天然痘?」は、モデルの肢体を抽象絵画のように人体改造し、それをリアリズムとしてしか表現出来ない三文画家を主人公に迎え、芸術本来の崇高さから背き離れたその即物的な創作風景をラディカルな笑いへと昇華した珠玉の一編だ。

このエピソードでは、キュビズムに追従するその後の現代美術家の多くが、図式化されたその幾何学的エッセンスを単にファッションとして組み換え、客体化せしめているに過ぎないという一面の真理が明徹なまでに喝破されている。

つまりは、キュビズムのエピゴーネンは、ピカソが写実から抽象へと作風を変遷させていった先鋭性、深遠さとは真逆の脆弱性が作風の核となって渦巻いているという解釈である。

悪酔いして嘔吐した人間をモデルにした「ゲロニカ」や、音楽の街、浜松までロケーションに赴き創作したとされる「ハモニカ」、そして三洋電機の工場へと忍び込み、拝借した乾電池からイメージを膨らませた「カドニカ」等、劇中挟み込まれたご本尊「ゲルニカ」のアンサーともいうべきダジャレ画もピカソ同様、幾何学的形象で描かれており、その巧みなパロディーセンスにニヤリとさせられること請け合いだ。

また、ラストのコマで描かれた、全身改造により歩く抽象オブジェと化した三文画家、モデル、画商の三人が「レッツゴー・グロニカ」なるお笑いトリオを結成し、ヤケクソになってテレビカメラの前で見世物芸を披露するというグロテスクなジョークも、ナンセンスな捻りを加えてパロディー化した、赤塚マンガならではの見事な着地点と言えよう。

余談であるが、本エピソードは、08年、「週刊文春」(8月28日号)の赤塚追悼企画「追悼赤塚不二夫 『ギャグゲリラ』大傑作 26ページ一挙公開」なる特集に、四本のうちの一本として再録され、あまねく読者の評判を呼んだこともこの場にて列記しておきたい。 

また、本エピソードのタイトル部分にはめ込まれたナンセンスフォトに、ボディペインティングをして写っている女性は、この時、前衛の女王なる異名で名を馳せていた現代アーティストの草間彌生その人である。

 

次点…「文豪の末路」(『不二夫のギャグありき』/「週刊少年サンデー」77年34号)

72年、仕事場の逗子マリーナでガス自殺を遂げたとされる文豪・川端康成のその死の真相を綴り、遺族から名誉毀損として訴えられるなど裁判沙汰へと発展した曰く付きの実録風小説「事故のてんまつ」(臼井吉見著)をモチーフとした一編。

年老いた文豪作家・イヤミには、アイ子という名の若くて美人のお手伝いさんがいたが、彼女から郷里に帰って結婚したい旨を聞かされ、激しく動揺する。

イヤミは、アイ子を繋ぎ止めておきたい一心から、執筆そっちのけでアイ子の身の回りの世話をし、家政婦業が板に付くものの、彼女が里帰りしたとたん、すっかり小説が書けなくなってしまう。

しかし、転んでもただでは起きないイヤミは、貫禄たっぷりの売れっ子女流作家(「恍惚の人」で有名な有吉佐和子がモデルだろうか?)のお手伝い嬢へと転身し、彼女に宮仕えすることで、文学界の末席に身を寄せるという諧謔に満ちた落ちへと帰結を見る。

ネタ元となった「事故のてんまつ」は、大作家の家に雇われた若い家政婦が、作家から熱烈な寵愛を受け、また彼女が郷里に帰ったその翌日、作家が自らの生命を絶ってしまうまでの日常を家政婦目線で綴ったストーリーだが、赤塚版川端康成のイヤミは、何処までもしたたかで、イヤミを通し、人間の有り様におけるデカダンな根源特性をカリカチュアライズしているところに、本エピソードの苦味を越えたコクがある。

 

 

 

 

 

 


目次(1/2)

2122-01-02 02:10:37 | 目次

まえがき~赤塚ワールドへの誘い~

 

〈序章〉 敗戦のコンプレックスと『ロストワールド』の衝撃!灰色の青春をこえて…。手塚治虫の洗礼と石ノ森章太郎、藤子不二雄Ⓐ、藤子・F・不二雄との出会い…。赤塚不二夫、漫画家デビューまでの道程。 

手塚治虫『ロストワールド』の衝撃

新潟で過ごした灰色の青春 甘美な総天然色の世界への憧憬 

赤塚不二夫十八歳、不安と期待が入り交じっての上京 

「漫画少年」への投稿 漫画家デビューの夜明け前 

石ノ森章太郎と「東日本漫画研究会」 

神様 手塚治虫宅を訪問 

 

〈第1章〉 トキワ荘からの出発…。漫画アパートの落ちこぼれ…。悲しい少女漫画からほのぼのユーモア漫画へ…。赤塚ギャグの萌芽。『嵐をこえて』『嵐の波止場』『ナマちゃん』『まつげちゃん』『おハナちゃん』ほか…。

初単行本作品『嵐をこえて』 悲しい少女漫画でのデビュー 

漫画梁山泊「トキワ荘」への入居 

ミステリアスなムードと幻想性が漂う『湖上の閃光』 

高揚感溢れる痛快無比のエンターテイメント『嵐の波止場』 

文学的潤いを纏った名編『心の花園』 

熱く静かな叙情ウエスタン『荒野に夕日がしずむとき』 

少年活劇路線のエッセンスを少女漫画に溶解させた『消えた少女』 

心に染み入るヒューマンな感傷『白い天使』 

生きることの幸せを謳いあげた『お母さんの歌』 

石塚不二太郎 U・マイア いずみあすか 石ノ森章太郎、水野英子との合作作品 

寺田ヒロオの激励 

記念すべき赤塚初の連載爆笑まんが『ナマちゃん』 

続々登場 幼女向け連載漫画『まつげちゃん』『ハッピィちゃん』 

非日常性を喚起する奇抜な発想『おハナちゃん』 

「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」の同時創刊 

赤塚ギャグへの助走と過渡期の生活ユーモア漫画 

クレージー・キャッツの大進撃とその影響『スーダラおじさん』の転機 

 

〈第2章〉 ユーモアからギャグへ…。ギャグ漫画の全てはここから始まった…。「シェー」の大爆発!『おそ松くん』『おた助くん』『まかせて長太』『そんごくん』『メチャクチャ№1』ほか…。

ギャグ漫画の新機軸を打ち立てた『おそ松くん』その連載開始と時代背景 

生活ユーモア漫画からの脱却 

誰が主役になっても違和感のない強烈なキャラクター群 

赤塚ワールド最初のスーパースター チビ太 年中旗日の幼児性 ハタ坊 

キャラクターメイクの天才 高井研一郎の参入とトリックスター イヤミの大ブレイク 

父性の象徴 デカパンとピーターパンシンドロームの極致 ダヨーン 

『おそ松くん』のテレビアニメ放映開始と多面的な商品展開 

プロダクション・システムの導入と古谷三敏の参入 

若き才能とエネルギーが結集したスタジオ・ゼロ

フジオ・プロダクション設立 大量生産時代へ 

新書版コミックス初の大ベストセラー 『おそ松くん全集』

藤子不二雄『オバケのQ太郎』との相乗効果 

『おそ松くん』ショック ノンフィクショナルな笑いへのパラダイムシフト 

赤塚ワールドに無限の可能性を広げた『おそ松くん』の長編化 

時代劇版『おそ松くん』 

時代劇版『おそ松』の最高傑作「イヤミはひとり風の中」 

ウエスタン版『おそ松くん』 

『おそ松』版ウエスタンの最高峰「こしぬけガンマン」 

語り継がれる永遠の名作「チビ太の金庫やぶり」 

ウェットな節回しが効いた「友情空中ブランコ」 

パイレーツ『おそ松くん』 

SF版『おそ松くん』 

反戦漫画の秀作「イヤミ小隊突撃せよ」 

長編作のヒューマニティーと若きセンスの噴出『おそ松くん』のハードボイルド路線 

ナンセンス路線へと変貌したリバイバルシリーズ 

「少年キング」版と「少年サンデー」連載版との相違 

「少年キング」版の最終回 

80年代版『おそ松くん』とリバイバルアニメの大ヒット 幻の明石家さんま版イヤミ 

『おそ松くん』の伴走者としての連載作品 読み切り短編作品 

家庭的ユーモア漫画の総決算『おた助くん』 

エキサイティングな笑いが満載『まかせて長太』 

赤塚シュール&ナンセンスの原点『メチャクチャ№1』 

興奮度満点の赤塚版西遊記『そんごくん』 

続々登場『おそ松くん』のスピンオフ作品『チビ太くん』『ミスターイヤミ』『ダ・ヨーンのおじさん』 

赤塚マンガ唯一のラブコメ『ユーラブミー君』 

「MAD」的シックジョークを標榜『いじわる教授』『スリラー教授』 

少女向けブラックユーモアの登場 戦慄の一家ものシリーズ 

漫画文化のドラスティックな変貌 そして狂気の赤塚時代へ 

 

〈第3章〉 美少女変身ものの原点にして、赤塚少女漫画の完成作。魔法のコンパクトは少女の永遠の憧れ…。『ひみつのアッコちゃん』『ジャジャ子ちゃん』『ヒッピーちゃん』『へんな子ちゃん』『たまねぎたまちゃん』ほか…。

道徳的美点を備えた赤塚少女漫画と幼年漫画 

魔女っ子路線のルーツ 『ひみつのアッコちゃん』の連載開始 

少女達の憧れを具現化した『ひみつのアッコちゃん』 

感動のクリスマス・ファンタジー「カン吉くんときよしこの夜」 

作劇の公理性も鮮やかな「われた鏡とお正月」

児童文学的風情を滲ませた「そだての親はカン吉くん」 

スマートな遊び心が行き届いた「小さな世界の冒険」 

読む者のモラリティーを喚起する「スターになあれ!」 

人間同士の繋がり、家族の在り方を問う「ひいきはやめて」 

揺れ動く恋心をしっとりと綴った「おにいさんがほしい」 

アンティークな鏡台から木彫りの手鏡 そして魔法のコンパクトへ 

第二期連載の大幅な加筆訂正 

アニメ版・第2作(88年)、第3作(98年)新原作・なかよし版『アッコちゃん』 

青年コミック誌掲載版『アッコちゃん』 

ヒューマニティへの賛美を主題に据えた『キビママちゃん』 

青春の哀歓を詩情豊かに綴った『九平とねえちゃん』 

リリシズムとSFマインドを融合したファンタスティック巨編『青い目の由紀』 

爽やかな幸福感を纏ったヒューマンコメディー『ミータンとおはよう』

生活SFギャグの路床を掘り起こした『キカンポ元ちゃん』 

ペーソスと遊び心に基づいた詩情的感動『らくがき』 

父親としての微かな自覚から生まれた『たまねぎたまちゃん』メルヘンティックな絵本的世界観の魅惑 

公害から生まれたオバケ『ぼくはケムゴロ』実録怪談をコミカルにアレンジした『おーばけ!』 

カオスとファンシーが凝縮された『ニャンニャンニャンダ』 

ファンタジックなイメージの交錯『タトル君』 

純粋感動の発露『怪球マン』 

『へんな子ちゃん』サディズムの欲求渦巻く倒錯性 

平成の時代に復活した二代目『へんな子ちゃん』 

最強フレーズ「それだけではあるまい!」 

ブラックユーモアを少女誌に定着させた『ジャジャ子ちゃん』 

珍道中ナンセンスのサブストリームを開拓『ヒッピーちゃん』 

倦怠美(⁉)を体現した新たな女性像『つまんない子ちゃん』 

皮肉な笑いを湛えた異色のショートギャグ『男の中に女がひとり』『女の中に男がひとり』 

オフビート感覚いっぱいの少女コメディー『テッちゃんただいまケンカ中』 

ビターテイストな赤塚ナンセンスに昇華した世界的名著のパロディー『ハレンチ名作シリーズ』 

ピカレスクな笑いを徹底的に貫いた最後の赤塚少女漫画『わんぱく天使』 

 

〈第4章〉 下町人情路線からスラップスティックギャグへと大変貌。ニャロメは安保闘争時代の象徴的キャラクター。『もーれつア太郎』『ぶッかれ*ダン』『はくち小五郎』『風のカラッペ』『おれはゲバ鉄!』ほか…。

『天才バカボン』の特大ホームランと『もーれつア太郎』連載開始に至る道程 

×五郎とア太郎親子が営む青果店「八百×」 

男の中の男 義理と人情のデコッ八 

時代錯誤な前近代型ヤクザ シュコロのブタ松 

スタイリッシュな近代型ギャング ココロのボス 

日活アクション、東映任侠路線からの影響と連載初期の低迷

衝撃の『バカボン』移籍事件 「サンデー」の巻き返し作戦 

ニャロメのブレイクと「サンデー」掲載版『バカボン』の打ち切り 

『バカボン』最初のアニメ化と「週刊少年マガジン」での再連載 

ニャロメ誕生までの軌跡 

アニメ『もーれつア太郎』の放映開始とスピンオフ作品『花のデコッ八』の連載開始 

「花のガードマン」で再デビュー 新生ニャロメのブレイクスルー 

遂に主役で登板「ニャロメ この世はうらみでいっぱい」 

ニャロメの道義的生き様を最高レベルで描出した「ニャロメの怒りとド根性」 

ニャロメのモデル 少年時代に出会った不撓不屈の野良猫 

若き学生運動家達とニャロメ 1968年10月21日 国際反戦デーの新宿 

非日常的な異種混合性 ケムンパス&べしの登場 

藤圭子フィーバーをゲリラ的に先取り(⁉) ホッカイローのケーコタンの登場 

一躍時代の寵児へ ニャロメのマーチャンダイズ展開 

三島由紀夫が語る赤塚ギャグの本質 

人気絶頂の中で 突然の連載終了 

新原作版で原点回帰 90年版『もーれつア太郎』 

ニャロメが主役の傍流作品と新生赤塚ワールドの萌芽『ギャグ+ギャグ』 

『同棲時代』の先駆的作品『ぶッかれ*ダン』永井豪作品との比較論 

脱力対決『はくち小五郎』「タケちゃんマン」「仮面ノリダー」の原点(⁉) 

性同一障害を逸早くテーマに取り入れた『スパルタッコ』と下町人情ギャグの隠れた傑作『青い目のバンチョウ』 

赤塚流「本気ふざけ」が結実 写真コミックへの挑戦 

股旅任侠物のパロディー『風のカラッペ』 

「会いたやマブタのおっかさん」に見る被差別階級者の哀切 

偉大なる先人・杉浦茂へのオマージュ『おでんクシの助』 

サイケな笑いが横溢する『荒野のデクの棒』「週刊少年キング」掲載の諸作品 

フジオ・プロを自虐的に戯画化した『われら8プロ』 

『赤塚ギャグ笑待席』『おれはゲバ鉄!』の連載開始と「週刊少年ジャンプ」 

漫画入門書の最高峰『マンガ大学院』 

類型化する漫画の表現形式を覆したトリオものシリーズ 

笑いのルーティンを拡張『やってきたズル長』『チビ太くん ぬたくり一家』 

プロデューサーとしての手腕 フジオ・プロ劇画部の展開 

音楽プロダクション「フジビデオ・エンタープライズ」の立ち上げ 

スタジオ・ゼロの発展的解消とアニメ製作会社「不二アートフィルム」の設立 

躍動する都市、新宿での雷名「人間刺激がなきゃだめなのよ」 

 

〈第5章〉 時代を超越した究極のナンセンスギャグ…。それは紛れも無い漫画界における衝撃的事件だった。赤塚ギャグの完成作!『天才バカボン』『鬼警部』『狂犬トロッキー』『死神デース』『B.C.アダム』ほか…。

赤塚ギャグの記念碑的作品『天才バカボン』 

『天才バカボン』の連載開始とそのタイトルの由来 

苦肉の策で生まれた難産ネタ

澄みきったハーモニーをもたらすコンポーネント 

フリーターの元祖にしてヴァガボンド バカボンのパパのキャラクターイメージ 

超天才児から規格外のバカへ バカボンのパパの出生の秘密 

肥後もっこす パパの血の源流 

不釣り合いカップル パパとママの不思議な馴れ初め 

初期『バカボン』ワールドの要 ママの寛大なる優しさとバカボン一家の家族愛 

純真無垢な心の現れ バカボンの豊穣な人間力 

持ち前の生真面目さで人生を軌道修正 その後のバカボン 

天才坊やハジメの誕生 

更なる進化を遂げたハジメの天才性 

幻のパイロットフィルム 日本放送映画版『天才バカボン』 

悪しき権威主義の権化 目ん玉つながりの異常人格 

目ん玉つながり誕生のプロセス 時代の空気を体現したアンチヒーロー 

日本初、民間人による個人経営の交番 

権力をカサに赤塚ワールドをジャック 目ん玉つながり主演の傍流作品 

タイホ亭こん坊、お下劣巡査 特異なパーソナリティーを放つ傑物揃いの警官達 

試行錯誤の末生まれた杉浦茂へのオマージュキャラ  レレレのおじさん 

レレレのおじさんの衝撃の過去 キャラクターのバラエティー性 

退廃的寓意を解毒する月の魔力と夜のイヌ 

ウナギイヌ誕生秘話 疲労困憊が生み出した偶然の産物 

反体制のニャロメと半体制のウナギイヌ 時代の空気を反映させた性格付け 

シラケ世代の価値観を形象化したノラウマ モラトリアム的傾向の投影 

カメラ小僧・篠山紀信の登場 虚実のヘッジを越えたナンセンス 

タコボン、ウメボシ仮面 サブのサブキャラクターの充実 

『バカボン』ワールド影の主役 バカ田大学の関係者達 

学歴社会の歪みを浮き彫りにするアフォリズム バカ田大学の発想の原点 

恍惚と不合理の背反的二重性 「日本人間改造論なのだ」 

時代遅れのカッコ悪い見本とは⁉ 「4年のズレおくれなのだ」 

暴走する自虐的退廃 破壊蕩尽の極限を映し出す「勝木くんのライバル部なのだ」

死に彩られたバカボンのパパの日常 

赤塚独自の死生観 悟りの境地へと至るニヒリズム 

成人向けナンセンスに特化した『天才バカボンのおやじ』の新境地 

「バカ大解放軍なのだ」 全共闘学生への熱きシンパシー 

メインストリーム『天才バカボン』への連動 狂気的倒錯のエスカレーション 

古谷三敏とのコラボレーション 新たなビジュアルイメージの確立 

フジオ・プロダクション ブレーンストーミングと分業執筆による特殊な製作態勢 

赤塚ワールドの作風の決定 天才・赤塚の驚異的なギャグ創出力 

「バカラシ記者はつらいのだ」ほか  漫画業界版『仁義なき戦い』 

新たなファルスの構図を生み出した疑似実録劇 

「天才バカボンの劇画なのだ」「天才おバカボン」 漫画の表顕スタイルの模倣と解体 

新趣向のカリカチュアを提示 「ホシのアリバイの探偵なのだ」「ミュージカルでバカボンなのだ」 

低次元なセンセーショナリズムを鋭く諷刺「平凡天才ヤング女性男性バカボン自身」 

ドンちゃんとヒロコさんの熱愛スクープ楽屋ネタに見る読者との新たなコミュニケーション 

「キェンキャイキャキャキョン」 言語の解体と遊戯化 

「角い角い世界なのだ」に見る想念的実験と画一化した世界へのアフォリズム 

痛烈な矢を射込んで迫り来るウィットに富んだ言葉遊び 

キッチュとアバンギャルドの二律背反 壮大なギャグの実験場となった「10本立て大興行」 

多種多様な『バカボン』ワールドを包括的に捉えた ショートショートシリーズ 

見開きの衝撃を効果的に演出した傑作「実物大のバカボンなのだ」 

幾何学的抽象を極限にまで推し進めたミニマリズムの概念「□□□」 

ヘタウマ感覚の妙味を逸早く先駆けた「説明つき左手漫画なのだ」 

三次元との並列世界 劇中劇としての『天才バカボン』 

虚構の中の超現実を臨界点に据えたメタフィクション  エスタブリッシュメントへのクリティシズム 

諧謔的観点よりウーマン・リブ運動を一笑に伏した「ウーマン・リブのでかい原点なのだ」

盲目的な信仰意識に見る教育の歪みを戯画化「「たたえよ鉄カブト」」 

ゲームブック的手法を試験的に取り入れた先駆作「イライラヒリヒリごくろうさまなのだ」 

アンチさえも舌を巻く見事な切り返し「ていねいなバカボンなのだ」 

偽の最終回に向けての壮大なドッキリ企画 

出版界をパニックに陥れた山田一郎改名事件 

笑いの天才イノベーター・赤塚不二夫だけに許された偉大なる脱線劇 

トラウマ必至オカルト版『バカボン』恐怖感漂うサイコパスドラマ「30年目の初顔合せなのだ」 

88年版『バカボン』に見るアーティスティックな類概念の発動「天才AKIRA」「天才アルコール」  

戦後ナンセンス漫画を象徴する傑作にして、崇高でグロテスクな名作中の迷作

人間の実存を問うアフォリズム『死神デース』『鬼警部』 性の解放における内在的情念

初の少年向けポリティカル・ナンセンス『狂犬トロッキー』 

通説を捉え直した新撰組珍論『幕末珍犬組』

荘厳なる『旧約聖書』の世界観をパロディー化した『B.C.アダム』

本邦初となるハウジング漫画『建師ケン作』

『ハウスジャックナナちゃん』ダークな心理的迫力に貫かれた寒慄の世界 

赤塚独特の叙情的介入が際立った喜悲劇『おバカさん』 


目次(2/2)

2122-01-01 18:26:04 | 目次

〈第6章〉 ナンセンスギャグからシュールへ…。赤塚ギャグの極限とも言えるアナーキーワールドを展開。暴走するギャグパワー。『レッツラゴン』『少年フライデー』『のらガキ』『オッチャン』『ワルワルワールド』ほか…。

ニューヨークへの短期遊学 『レッツラゴン』開始に至る経緯

ゴンvs.親父の熾烈な対立 凶暴ネコ・イラ公の大爆発! 家族解体のホームコメディー

赤塚ワールド随一のいじられキャラ ベラマッチャの登場

デカダンとパンキッシュな感性の噴出 土着発想を突き破るギャグ漫画の新潮流 

『レッツラゴン』ワールドにおける頽廃と点景 フリーキーな準レギュラーの充実 

シュールな笑いを標榜 連載当初の作家的欲求 

「伊豆の踊子」の転機 アドリブ性重視の執筆スタイルへ 

アンリーゾナブルな夢想空間を喚起する戦慄の笑い  

楽屋落ちギャグに先鞭を付けた赤塚vs.武居の誌上バトル 

シュールとナンセンスの二項対立 後期『レッツラゴン』の暴走

精神崩壊を思わせる紙一重のエンターテイメント 一気呵成のノリだけで迫るギャグの急進性 

『レッツラゴン』の終了と不条理ナンセンスへの系譜 

赤塚アバンギャルドの臨界点『少年フライデー』  

ぺーソスを湛えた赤塚ナンセンスの原点回帰作『のらガキ』 

『母ちゃん№1』亡き母への賛美と慕情 

「少年サンデー」最後の連載作品 自由度を高めたシュール&ナンセンス『ギャグありき』 

アブノーマルの極限 異常度を高騰せしめた怪作『クソばばあ』 

日本版「MAD」を標榜したパロディー・サタイア誌 「まんが№1」の創刊 

カルト的絶賛を受けた異色プログラム『私のつくった番組 マイテレビジョン』「赤塚不二夫の激情№1」

その他の赤塚不二夫責任編集によるギャグ・マガジン「ギャグマン」「ギャグ・アクション」 

『ウンコールワット』『ガキトピア』ギャグ漫画の登竜門・赤塚賞設立とジャンプ愛読者賞 

経理担当による巨額の横領事件 週刊誌五本、月刊誌七本の超大量生産時代 

『ギャグギゲギョ』 ブラックユーモアとセンス・オブ・ワンダーの分水嶺を境とした異端の一作 

スラップスティックと鳥滸の笑いのミクスチャー『オッチャン』 

赤塚版『キングコング』 獣性を全身で体現したプリミティブな躍動と生命感『コングおやじ』 

カオスとファンシーが一体化した超大作パニック・ギャグ『アニマル大戦』 

赤塚漫画史上、究極のインモラリティーを発動した『ワルワルワールド』 

『荷車権太郎』『いじわる爺さん』レイト'70 青年向け赤塚ワールド 

赤塚時代の終焉 変貌を遂げるギャグ漫画の勢力図 

 

〈第7章〉 社会世相を鋭くえぐったアクチュアルな赤塚ギャグの集大成…。笑いは時代の真実を告げる。『ギャグゲリラ』『にっぽん笑来ばなし』『松尾馬蕉』『赤塚不二夫の文学散歩』『週刊スペシャル小僧!』ほか…。

第18回文藝春秋漫画賞受賞と『ギャグゲリラ』の連載開始 

読者を翻弄する傑出した個性 新人類キャラ・竜之進の活躍 

規制のない大人向け漫画故に容認されるブラックユーモア 

パロディー的視座に立脚した独特のレトリック「天然痘?」「ヒーロー」 

エスプリを利かせた見事な論証「不死鳥」「仲よきことは……」 

時宜を得たシャープなファルス「嫌煙法成立!」「尺八夜怪談」 

波紋を呼んだ問題作「タレント候補 赤塚不二夫」「パワーアップ」抗弁を受ける側のロジックとは… 

時代に向き合ったギャグと時事風刺『ギャグゲリラ』連載の真の意義とは? 

その世界観を立体化した伝説のバラエティーショー『赤塚不二夫のステージ・ギャグゲリラ』 

人気タレントが続々出演 赤塚監修によるテレビ版『ギャグゲリラ』 

話題のベストセラーの世界観を解体『赤塚不二夫の文学散歩』 

現実的根拠を磐石に据えたペシミスティックな未来像『にっぽん笑来ばなし』 

『お笑いはこれからだ』時事ネタに名作映画のパロディーを絡めた意欲作 

漫画で読むワイドショー『今週のダメな人』『IF もしもの世界 今週のアダムとイフ』 

ナンセンス漫画の概念を突き抜けた異色のルポルタージュ漫画『週刊スペシャル小僧!』 

回収騒動を巻き起こした衝撃の問題作『キャスター』 

伝説のバー〝ホワイト〟での交友録をコミカライズした『四谷「H」』 

史上初の主人公不在漫画『松尾馬蕉』 

 

〈第8章〉 軽佻浮薄の時代に、巨匠は何を模索していたか?赤塚ギャグの再評価…。赤塚ギャグは永遠に不滅なのだ。『おじさんはパースーマン』『チビドン』『花の菊千代』『ババッチ先生』『「大先生」を読む。』ほか…。

赤塚マンガのメディア展開における後退とその時代 

『天才バカボン』のセルフパロディー超脱力型ナンセンス『おじさんはパースーマン』 

『ワルちゃん』痛烈な復讐劇がもたらす爽快なカタルシス 

『チビドン』非日常へとビヨンドする喧騒 

『花の菊千代』『吾輩は猫・菊千代である』時代の寵児となったバンザイ猫・菊千代 

『ババッチ先生』ブラックコメディーの確固たる定番にして、品位あるヒューモア 

『モンスター13番地』『ロメオとジュリー』高い質と力感を示した「少年チャレンジ」掲載の諸作品 

受験教育の不毛性を茶化した興奮度満点のエンターテイメント『逃げろや逃げろ』 

男性機能ハチャメチャ増大ギャグ『乙女座★虎右衛門』

『ピヨ13世』アバンギャルドなドラマ構造と秀抜な脱論理的効果 

赤塚漫画最後の少年週刊誌作品 ジュブナイル・タイムトリップ・ギャグ『TOKIOとカケル』 

『ニャロメのおもしろ数学教室』『ニャロメのおもしろ宇宙論』カルチャー・コミックへの先鞭 

怪人・タモリとの出会い 芸能活動の活発化 

「馬鹿なことを真面目にやろう」 日本満足問題研究会の発足 

音楽における漫画的表現の標榜 幻の迷盤『ライヴ・イン・ハトヤ』 

異種業界への人脈拡張 企画集団・面白グループ結成 

面白グループ周辺の赤塚人脈が大挙出演『気分を出してもう一度』『下落合焼とりムービー』 

『新宿オペラ・カルメン』『SONO SONO』ほか ステージショーの企画、演出  

ラディカルなパロディー精神の反映タレント・赤塚の三次元的漫画世界 

知的スノッブに対する比類なき諧謔『「大先生」を読む。』 

80年代赤塚漫画の最高傑作『ラーメン大脱走』 

『花ちゃん寝る』『ヤラセテおじさん』シニックな寓話性に見る大人のファンタジー 

赤塚アニメのリバイバルラッシュと赤塚ワールドのメディアミックス展開 

『大日本プータロー一家』『MR.マサシ』赤塚ギャグの新シリーズと90年代のコミック文化の最前線 

赤塚リバイバルの原点回帰的作品『おむすびくん』 

『花の菊千代』のセルフパロディー『ネコの大家(おおニャ)さん』 

亡き父母への愛情と賛歌 自伝的エッセイ『これでいいのだ』 

『赤塚不二夫のアニマルランド』『シェー教の崩壊』赤塚ギャグ漫画の終焉  

〝まんがバカなのだ 赤塚不二夫展〟の全国巡業 日本漫画家協会賞文部大臣賞と紫綬褒章の受賞、受章 

最後の連載漫画『酒仙人ダヨーン』 最愛の友へのラブレター 

『これでいいのだ。』『バカは死んでもバカなのだ』 底知れぬ人間力の一端を伝える対談集 

空前のベストセラーバリアフリー絵本『よ~いどん!』と漫画家生活最後の作品『ニャロメをさがせ!』 

『赤塚不二夫漫画大全集DVD‐ROM』の発売と赤塚不二夫会館の設立 そして長い眠りへ… 

二人の妻との別れ 赤塚の逝去 赤塚神話未だ完結せず! 


天知る地知る読者知る② 『漫画に愛を叫んだ男たち』に見る長谷邦夫の虚言と歪曲

2024-07-27 14:29:24 | 論考

『漫画に愛を叫んだ男たち』(長谷邦夫著/清流出版刊/2004年5月9日発行)。

当ブログに定期的に訪れて下さる読者諸兄におかれては、決して存じ上げないタイトルではないだろう。

版元の清流出版は、1994年、ダイヤモンド社の元編集者だった加賀屋陽一によって立ち上げられた小規模出版社である。

加賀屋は、1986年から87年に掛け、長谷邦夫が、赤塚不二夫名義で、「ビジネス古典シリーズ」と銘打ち、『孫子』『葉隠』『君主論』『五輪書』『菜根譚』を代筆した際に、赤塚番・・・、もとい長谷番を務めており、その縁から、長谷とは昵懇の間柄になったという。

赤塚の代筆エッセイからも分かるように、長谷には文才に長けたところがあり、その才能に着目した加賀屋が丸々一冊書き下ろしのエッセイを書いてみないかと、長谷に打診したことで誕生した一冊だ。

どれ程の部数が刷られたのかは不明だが、一部の漫画ファンの間でも、名著との誉れが高く、その名は広く浸透しているようだ。

内容としては、長谷邦夫のこれまでの漫画家人生を振り返った回顧録的意味合いを深めたもので、その人生の多くを共に過ごした、かつての盟友、赤塚不二夫との出会いから別れまでが主なるテーマとして綴られている。

しかしながら、赤塚不二夫ディレッタントを自認する筆者には、その番頭役だった桑田裕、赤塚の糟糠の妻であった眞知子夫人との確執から、フジオ・プロを去らねばならなくなった際、引き止めてくれなかった赤塚への澱んだ感情こそが執筆のモチベーションになったと思わざるを得ない。

1960年代初頭から70年代半ばに至るまでの赤塚主導によるフジオ・プロ大量生産時代から、芸能界とアルコールに耽溺していった70年代末期以降の迷走期に至るまで、時にはアイデアブレーンとして、時にはゴーストライター、またはマネージャーとして、赤塚を陰日向となく支えてきた長谷にとって、相当な苦労を伴ったであろうことは充分に理解出来る。

ましてや、その友人知人達が異口同音に証言しているように、天才である反面、独善的な性格で知られる赤塚である。

俗に言えばガハハとDT。生真面目な資質を持つ長谷にとって、そのキャラクターと対峙するだけでも、筆舌に尽くし難い辛苦も当然ながらあったであろう。

従って、全ての内容が虚偽の申告であるとは言えないが、それを差し引いた上でも、赤塚への恨み辛みから、そのマイナスイメージを植え付けてやまない印象操作や偏向的記述が、事実に反し、目に付く有り様なのだ。

生前、特にその最晩年において、赤塚が、痛々しいまでに泥酔し、度々メディアに露出するなどといった醜態を晒すようになると、世間の風当たりも一層の厳しさを増し、かつてのファンにすらも愛想を尽かされるまでに至った。

事実、赤塚アニメのリバイバル路線が終焉を迎えた1992年以降、更なる酒量の増加と、著しい執筆量の減少から、赤塚に関する世評は「酒で身を持ち崩したアル中の元漫画家」という実に峻厳なバッシングへとスライドしてゆく。

1997年に日本漫画家協会文部科学大臣賞、翌98年には、紫綬褒章をそれぞれ受賞、受章したほか、自身の漫画家人生の足跡を振り返った「これでいいのだ! 赤塚不二夫展」が全国規模で開催され、取り分け、上野の森美術館では、期間中、六五〇〇〇〇人を動員し、ピカソ展やゴッホ展の記録を塗り替えるなど、ホットなトピックを振り撒いた赤塚だったが、赤塚に向けられた世のマイナス評価が覆されることは一切なかった。

赤塚不二夫史的な観点から申せば、『漫画に愛を叫んだ男たち』は、そんな赤塚が世を捨て、世に捨てられている時代の副産物として書かれた著作である。

アマチュア時代、赤塚に見せた自作の原稿を否定されて以来、赤塚の全人格、全作品に対し、憎悪の念を抱くようになったと語るマンガコラムストの夏目房之介が、『漫画に愛を叫んだ男たち』が刊行されて間もない2004年6月28日放送のNHK「BSマンガ夜話」で、藤子不二雄Aの『まんが道』をフィーチャーした回で、わざわざ本書を持参し、赤塚作品の殆どを長谷邦夫が代筆しているといった旨の妄言を鬼の首を取ったかのように主張し、馬脚を現していたが、この夏目の発言からも安易に察せられるように、赤塚に嫌悪感を抱いてやまないアンチにとって、赤塚の負のイメージが印象操作された本書は、どんなに虚言や歪曲が含まれようが、神の教えを説いた聖典の如く、実に権威ある書物だったに違いない。

但し、これらの長谷シンパサイザーは、決して長谷の描く漫画やエッセイのファンというわけではないだろう。

実際、長谷作品よりも、まだ赤塚作品の方が、現在においても、世間的な人気度や知名度、商業性に至るまで上廻っているように思えてならない。

『漫画に愛を叫んだ男たち』に関しても、あくまで、赤塚を揶揄するにはこれ以上にない書籍であり、長谷こそがアンチ赤塚を語る上で、シンボリックな存在だからこそ、大いに留意されているというのが筆者の見解だ。

かつて筆者は、「本気ふざけ的解釈」シリーズと称し、社会評論社より『赤塚不二夫大先生を読む』(11年)『赤塚不二夫というメディア 破戒と諧謔のギャグゲリラ伝説』(14年)と、二冊の赤塚クロニクルを上梓した。

この二冊は、巷に蔓延る赤塚の不名誉な風説や世の赤塚理解に対する是正を目的として執筆したものだ。

その後もこの二冊を合本し、大幅な加筆訂正を加えた『天才・赤塚不二夫とその時代 文化遺産としての赤塚マンガ論』なる書籍を2022年にデザインエッグ社よりセルフ出版で刊行したが、限られた紙幅の中で全ての流言飛語を訂正することなど不可能で、長谷発による風説で斧正し得なかった箇所も多分にある。

本稿では、そうした忸怩たる過去を踏まえ、長谷邦夫が、『漫画に愛を叫んだ男たち』、『赤塚不二夫 天才ニャロメ伝』(05年、マガジンハウス)、そして長谷の自伝的エッセイ『桜三月散歩道 あるマンガ家の自伝』(11年、水声社)で囃し立てた、赤塚に対する扇情的且つ謀略的な喧伝を一つ一つ精査して取り上げ、微に入り細を穿つ解説とともに、徹底して批正してゆきたい。

長谷といえば、有名な『天才バカボン』の「サンデー移籍事件」の発端となった張本人だが、全てを赤塚自身が勝手にやったこととして記述している。

「それは赤塚自身が決意して起こした問題であった。彼は突如として「週刊少年マガジン」で人気急上昇中の『天才バカボン』を、こともあろうに最大の対抗誌「少年サンデー」に移籍連載すると言い出したのである。

「小学館第二編集部の部長広瀬(名和註・徳二)さんから頼まれたんだよ。マガジンの内田さんに謝りに行くから一緒に行こう」

「本気でそんな無茶なことをするのか。冗談がきついよ。バカボンを起こすため、内田さんは漫画班と一年かけて準備したんだぜ。黙ってオーケイすると思う?」

完全な作家のルール違反であった。まず、常識ではこんな行為を作家はやらない。」

事実、『バカボン』の移籍連載は、長谷の一言によって始まったのだが、それを指摘する赤塚に対し、長谷は声を大にしてこう否定している。

「人間はいやな記憶は忘れやすいというが、後年の赤塚はこのあたりの事情を、「長谷の政治だった」などと担当編集者たちとの座談会で発言している。とんでもない。

スタジオを村田ビルに移した時点で、ぼくが赤塚の連載作品やテレビ出演のマネージメントから降りたことはすでに書いた。だから、作品をやめたり起こしたりについて、ぼくは〈決定〉をしていないのである。」

何故、『バカボン』移籍の張本人であることを、長谷はここまで頑なに否定するのか、その辺りの詳しい事情は、前記事の「赤塚不二夫と長谷邦夫の40年に渡る友情と確執 そして絆」において記述しているので、ここでは一切述べないが、この時、赤塚のマネージメントから降りているというのは、長谷の言い逃れである。

村田ビル移転後、間もなくしてスタートした『マンガ大学院』(「少年ブック」69年1月号別冊付録)の冒頭で、長谷自身、赤塚のマネージャーを務めていると語っているし、何よりも超多忙を極める赤塚のスケージュール管理は、古い付き合いの長谷こそがもってこいの存在だったのは、赤塚自身、至るところで述べている。

だが、その当事者の一人でもある「週刊少年サンデー」の赤塚番記者だった武居俊樹が自著『赤塚不二夫のことを書いたのだ』(文藝春秋社、05年)で、酒席での長谷の一言が『バカボン』移籍の切っ掛けとなったと綴っており、観念した長谷は、以下のような言い分で渋々その事実を認めている。

「酒はやっとビールが人並みに飲めるようになってきた頃だが、酔うのは早い。勢いでこんなことも言った。

「そんなにマガジンのバカボンが気になるなら、サンデーがかっぱらったらいいよ」

自分では記憶にない言葉である。しかし、この言葉が武居氏のヒントになって、彼が広瀬部長にバカボン移籍を強引にすすめてください、と進言することになったのである。 〜中略〜 バカボン移籍のヒントが、当時のぼくの酔った上での冗談発言にあった、と言われたときは、非常に驚いたものである。 〜中略〜 それを真面目な方向で武居氏は部長への意見として利用したのだ。移籍には、ぼくは赤塚に大反対をしたのだが、「部長から、おれとあんたとは兄弟みたいなもんじゃないかって言われて」、オーケーしてきたというのである。」(『あるマンガ家の自伝 桜三月散歩道』)

赤塚程度の存在なら、適当に言いくるめられると高を括っていた長谷だったが、切れ者の武居記者にはそれは通用しないと諦め、自身に最も罪が被らない方向で、このような歯切れの悪い記述をアンサーとして加えたのであろう。

因みに、『天才バカボン』の「サンデー」移籍騒動で、赤塚とフジオ・プロ関係者が講談社サイドより出入り禁止の扱いを受けたと、前出の『赤塚不二夫 天才ニャロメ伝』で描かれているが、これも全くの出鱈目である。

赤塚に関して言えば、「少年マガジン」誌で、『天才バカボン』が中断だった時期、また「少年サンデー」系列で『バカボン』が連載されていた期間や「週刊ぼくらマガジン」で連載が再開されるまでの間、例えば、創刊10周年を記念した「週刊少年マガジン」(69年14号)で、手塚治虫やトキワ荘メンバーを含め、当時、第一線で活躍していた人気漫画家とともにその表紙を飾っていたし、何よりも、その系列誌である「週刊ぼくらマガジン」連載の『死神デース』(70年49号〜71年19号)や、「別冊少年マガジン」に、滝沢解原作による特別読み切り「鬼警部」(70年12月号)、更には『狂犬トロッキー』(71年1月号〜9月号)といった連載作品が掲載されていた事実を鑑みると、この記述もまた、身も蓋もない虚言であることは一目瞭然と言えるだろう

長谷は、「移籍が決まってしまうと、フジオ・プロは講談社から毛嫌いの対象とされ、古谷三敏が『なかよし』に連載していた作品も、たちまち終了となってしまった。」と、『あるマンガ家の自伝 桜三月散歩道』で語っているが、これは『プリンセスプリンちゃん』(69年1月号〜12月号)のことを指しているのは明白で、『バカボン』移籍後も半年以上も継続しているし、何よりも、雑誌の中心読者層が求める内容とは些か乖離したものでもあるため、人気低迷の結果、打ち切られたと考えるのが妥当なところではないだろうか……。

だが、何故このように、古谷作品の打ち切りまで引き合いに出しているかと言うと、赤塚の独断による非常識的行為(あくまで長谷が主張したいところの)が齎した講談社サイドへの損害が、如何に甚大なものであり、また罪のない人間をも巻き込む迷惑極まりないものであったかを印象付けたかったからにほかならない。

真相を知れば知るほど、逆にこちらが恥ずかしくなるくらい、軽々しい動機による捏造なのだ。

『赤塚不二夫 天才ニャロメ伝』にも、虚言や事実誤認が多く、これらに関しても、この場を使い一つ一つ訂正してみたい。

「赤塚不二夫責任編集」と銘打たれた月刊漫画雑誌「まんがNo.1」を刊行するにあたり、「話の特集」の名物編集長であった矢崎泰久の実父・矢崎寧之が経営する日本社に配本を受け持ってもらう流れとなった。

矢崎寧之は、文藝春秋社の元重役で、その創設者でもある菊池寛の秘書を務めていたことでも知られるお堅い人物だ。

明治生まれで昔気質な寧之は、この時当時の若者の多くがそうであった長髪族が大嫌いだったという。

そのため、赤塚は頭を丸めて、寧之との面会に赴いたと描いているが、これは長谷の記憶違いである。

赤塚がトレードマークとも言える長髪をバッサリ切ったのは、「まんがNo.1」が創刊された以降の1973年1月23日、当時、新宿区河田町にあったフジテレビ第一スタジオで、東京12チャンネル系の「私のつくった番組 マイテレビジョン 赤塚不二夫の激情No.1」の収録に際してであった。

従って、「まんがNo.1」の配本コードの件で、日本社に面談に赴いた時期とは、タイムラグが生じるのである。

また、赤塚がこの時、番組のオンエアを通し、頭を丸めたのは、かねてより深く交際を続けていた、とある女性との結婚を真剣に考えており、前妻との離婚調停を見据えていた時期であったからである

件の交際女性の実父は、職業柄、たいへん厳格な人物であり、けじめの挨拶を付けるためにも、公開断髪に踏み切ったというのが真相だ。

1975年、総合電機メーカーのソニーがβマックス規格初のビデオデッキSL−6300の販売を開始。その発売に合わせ、ソニーは「週刊少年サンデー」の16ページを広告ページとして買い上げ、SL−6300の性能と利用法を簡便に伝えるPRコミックを赤塚マンガ的視点から表現して欲しいとの打診から、『ココロのボス』(75年31号)なる読み切り作品を赤塚は執筆する。

ストーリーになんの脈略もなく、申し訳程度にビデオデッキの宣伝を絡め、その用途の説明については、欄外に文字で記すのみという、広告漫画としての体裁は些か整えていないものの、ギャング団の首領であるココロのボスが、田舎からやって来る最愛の母の為、病院を占拠し、医者に成り済ました立派な姿を見せようと奮闘するが、予期せぬ出来事が突然発生したことで、偽医者のボスが心臓移植という、高難度な手術を施行せぬばならなくなったそのトラブルを綴った傑作エピソードである。

だが、長谷は『赤塚不二夫 天才ニャロメ伝』の中で、登場人物達が「ソニーのビデオデッキ」「ソニーのビデオデッキ」と16ページに渡り、ただひたすら「ソニーのビデオデッキ」ど連呼するだけのギャグもユーモアもない最低な手抜き漫画をそのまま寄稿したかのように語っているが、これも痛々しさを露呈した長谷特有のデマの一つである。

長谷は、赤塚が物事を徹底的に単純化することで、このような作家としてのプライドをも欠落した暴挙に出るという印象操作をしたかったのだろうが、赤塚がソニーのSL−6300のPR漫画を「週刊少年サンデー」に描いたのは、これ一本のみで、無論、他誌に掲載された同時期の赤塚読み切りを探しても、そうした内容のものはない。

また、長谷がこの時、ネームを担当したと語っているが、これも大嘘で、長谷が執筆したのは、間違いなく欄外に記されたSL−6300の性能や利用法についての説明文のみであろう。

尚、この「ソニーのビデオデッキ」の連呼は、この前年である1974年、元あきれたぼういずの坊屋三郎が外人相手に言い放つ「あんた外人だろ? 発音悪いね!」のフレーズが話題を集めた松下電機産業(現・パナソニック電工株式会社)のパナカラー・クイントリックスのヒットCMを模倣したものと思われる。

赤塚不二夫を取り巻く最低最悪な漫言放語の一つに、赤塚作品のほぼほぼ全てを長谷邦夫が代筆したものという、とんでもない出鱈目があるが、この辺りも長谷が代筆していないタイトルまで、自身が描いたかのように語ることから、発生するに至ったと見ていいだろう。

1978年、赤塚は、サンポウジャーナル社より新創刊された隔週漫画誌「コスモコミック」に『ニャロメの研究室』(78年9月20日創刊号〜78年12月20日号)という連載を立ち上げる。

『ニャロメの研究室』は、優れた学識を持ちつつも、鼻持ちならない学者ネコというキャラクター設定のニャロメが、毎回、アインシュタインの相対性理論や慣性の法則、ダーウィンの進化論等、マスマティクスやサイエンスといったアカデミックな分野を漫画と図解で解かりやすく解説したシリーズだ。

長谷は、この企画をネーム、コマ割り、下絵に至るまで全て自身が取り仕切ったと語っているが、下絵に関しては、赤塚自らが執筆している。

78年当時、赤塚連載のメインストリームだった『天才バカボン』(「週刊少年マガジン」67年15号〜69年9号 71年27号〜75年2号 75年43号〜76年49号ほか)や『ギャグゲリラ』(「週刊文春」72年10月16日号〜82年12月23日・30日合併号)といった作品群と寸分違わないタッチである点を照らし合わせれば、歴然として見て取ることが出来よう。

この指摘を読まれた一部のネットユーザーには、「『天才バカボン』にしても、『ギャグゲリラ』にしても、長谷邦夫が描いたものだから、同一のタッチに見えるのだ」と反論する向きもあろうが、赤塚タッチと長谷タッチの区別すら付かない読者に、今更詳しく解説し、理解の是正を求めることなど、土台無理な話であるため、これ以上の言及は避けておく。

ただ、長谷は、この時「コスモコミック」の巻末ページに『現代妖語解説』という、「アメリカン」「翔んでる」「フィーバー」「有事」「クロスオーバー」といった現代用語は現代用語でも、俗語に近い現代妖語を漫画で読み解くという異色のカルチャーコミックを連載しており、長谷自身、その記憶が混同している可能性もなきにしもあらずだ。

因みに、この「コスモコミック」は、赤塚の他にも、石ノ森章太郎、さいとうたかを、上村一夫といったビッグネームが執筆していたものの、創刊から僅か7号をもって廃刊の憂き目に遭う。

その後、この雑誌のエディターとして携わっていた坂崎靖司と山口哲夫は、編集プロダクション「波乗社」を設立。この両名の企画により、1981年から『ニャロメのおもしろ数学教室』『ニャロメのおもしろ宇宙論』『ニャロメのおもしろ生命科学教室』『ニャロメのおもしろコンピューター探検』等をパシフィカより、描き下ろし単行本として刊行し、いずれも一〇万部を越えるベストセラーとなったが、これらの作品でも、長谷が構成とネームを担当し、赤塚の下絵でスタッフが仕上げるという創作スタイルを採用していた。

長谷も所詮は素人であり、現在の観点から見て、科学知識に対する理解の不手際などは否めないものの、一連のカルチャーコミックのヒットは、構成とネームを務め、この時、フジオ・プロのグーグル役を必死で担おうとしていたその奮闘があったからこそであると、それに関しては筆者も、改めて声を張っておきたい。

長谷は、赤塚との訣別を決心した理由に、1991年から「週刊女性」誌上にて連載開始された『へんな子ちゃん』(91年1月8日・15日合併号〜94年8月16日号)のアイデア会議にあったと、『漫画に愛を叫んだ男たち』の中で述懐している。

『へんな子ちゃん』とは、少女漫画誌「りぼん」にて、1967年9月号から69年8月号に掛けて連載されていた同名タイトルのリメイク作品である。

「毎週決まった曜日に(名和註・フジオ・プロビルの)三階の部屋へ行く。すると赤塚はその週のテーマやヒントをメモした原稿用紙を差し出すことが多くなった。

これが事前に一人でアイデアを考えているのなら、より充実したプラン会議ができる。しかし、そうではなかった。かつての作品からギャグを拾ってメモしたものに過ぎないのであった。担当編集者は若い女性である。そのことに気づかない。

ぼくは黙認するしかなかった。もしその事実を彼女の前で明かせば、赤塚は傷つくからである。

しかし、「週刊女性」は高年齢の読者もいる。かつて「りぼん」の愛読者で、『へんな子ちゃん』を憶えている人がいることも大いにあり得るのだ。ぼくは、用意されたアイデアを極力ボツにして、別の設定へ振り向けるよう話を誘導するしかなった。

ある週のこと、定例の日に部屋をのぞくと、「長谷、もうアイデアはできているから今日はいいよ」と、彼は言うのである。

どれ見せて、とそのメモを見ると、先週ボツにしたアイデアがそのままメモし直されていた。(ああ、もうぼくがアイデア会議に出る意味はなくなってしまった……)」

長谷は、旧作『へんな子ちゃん』で使われたアイデアを赤塚が焼き直しして描いたように述べているが、りぼん版『へんな子ちゃん』と「週刊女性」版『へんな子ちゃん』では、同様のネタやストーリーなど一切ないというのが事実だ。

赤塚に限って、そこまでの殊勝なファンなど存在するわけもないが、「りぼん」版、「週刊女性」版の両シリーズを通読すれば、一目瞭然である。

これは、赤塚の漫画家としての不誠実ぶり、更には、長谷自身が赤塚に辟易しつつも、健気なまでに赤塚を慮る姿をアピールするために書いた杜撰な創作と言えるだろう。

作品を大量生産してきた巨匠漫画家が過去に使ったアイデアに再刃を施すことは、儘あることで、赤塚にも、その長い作家生活において、そうしたセルフオマージュを幾つか確認することが出来る。

この平成初頭の時代、赤塚が過去の自作のアイデアをそのまま拝借したのは、このリバイバル版「へんな子ちゃん』ではなく、「週刊現代」誌上にて連載された『赤塚不二夫のギャグ屋』(91年4月13日号〜11月16日号)の「デブの幸せ」(91年10月19日号)と、プロットの一部を流用した「コミックボンボン」連載作品『大日本プータロー一家』(90年10月号〜91年8月号)の「納豆でネバネバ!!」(91年6月号)からなる二つのエピソードである。

因みに、「デブの幸せ」では、「週刊少年キング」連載の『おそ松くん』(72年13号〜73年53号)の「となりのカワイコちゃん」(72年49号)、「納豆でネバネバ!!」では、引き続き「週刊少年キング」で連載された『ギャグギゲギョ』(74年5号〜38号)(単行本化の際のタイトルは『ギャグの王様』)の「地球最期の日の王様」(74年31号)がそれぞれ元ネタになっている

このリバイバル版『へんな子ちゃん』に触れたついでから、赤塚が最もリメイクしたがっていた過去作が、かつて「週刊少年サンデー」に連載された『母ちゃんNo.1』(76年27号〜77年12号)であったことを長谷は述懐している。

これは、「コミックボンボン」や「テレビマガジン」、「ヒーローマガジン」といった講談社系児童漫画誌に『天才バカボン』(「コミックボンボン」87年10月号〜91年10月号ほか)や『もーれつア太郎』(「コミックボンボン」90年4月号〜91年1月号ほか)のリメイク連載をしていた1990年の段階で、赤塚自身、公に語っていたことからも事実と言えよう。

また、赤塚がアイデア会議を経由することなく、一人自ら切った新作『母ちゃんNo.1』のネームが、二社の赤塚番記者にプレゼンテーションされたものの、そのどちらからも掲載しようという話がなかったというのも十二分に頷ける。

それは、赤塚不二夫ディレッタントを自認している筆者ですら、新作『母ちゃんNo.1』に対し、赤塚ギャグでありながらも、凡庸なストーリー漫画を踏襲したドラマトゥルギーに終始している点が否めず、ヒットこそしなかったものの、かつての「週刊少年サンデー」版のように目眩くギャグの展開力が希薄に感じてならなかったからだ。

だが、前述のように、長谷が、常務である桑田裕や眞知子夫人との確執により、フジオ・プロを追われた後の1994年、新作『母ちゃんNo.1』は、「デラックスボンボン」誌上にてリバイバル連載される。

無論、「デラックスボンボン」の読者たる平成キッズの評判を呼ぶこともなかったものの、94年4月号から同誌廃刊号となる95年3月号まで、ジャスト一年間の連載された。

長谷の記述のみ触れると、新作『母ちゃんNo.1』が世に出ることがなかったと、読者に誤解を与えること間違いが、『母ちゃんNo.1』のリバイバルに関しては、長谷と赤塚が訣別した以降の連載であり、作品自体、全くと言って良いほど話題を集められなかった点を総合しても、長谷が知らないのも無理からぬ話ではあるのだ。

長谷が赤塚を回顧する中で、比較的高い頻度で見受けられるのが、赤塚と誰かを比べることで、さり気なく赤塚を矮小化してゆく記述だ。

「NHK紅白歌合戦の当夜、市川ビル前の駐車場にTV中継車がやって来て、藤子スタジオの仕事現場が全国に放映されたこともあった。」

これも全くの嘘である。

要は、赤塚不二夫率いるフジオ・プロは、国民的番組NHKの「紅白歌合戦」の中継には、出演出来なかったが、藤子不二雄とそのスタッフは、大々的に取り上げられたと、その注目度の差を伝えたかったのだろうが、この時、大晦日に正月返上で漫画製作に勤しむ藤子スタジオの様子を放映したのは、民放局であるTBSの「ゆく年くる年」(65年12月31日〜66年1月1日)である。

先刻承知の通り、この時『オバケのQ太郎』は、先行作品『おそ松くん』(「週刊少年サンデー」62年16号〜69年15号ほか)より一足早く、TBSでアニメ化され、またそのスポンサーである不二家を含む二次媒体との連動を伴ったメディアミックス戦略の成功により、赤塚と並ぶギャグ漫画界のトップとして、原作者である藤子不二雄コンビもまた、一躍時の人となっていた。

そうした下地もあり、『オバQ』の放映局であったTBSが、この年に丁度持ち回りであった「ゆく年くる年」で、神社仏閣や様々な宗教施設からの中継と交えて、修羅場と化した藤子スタジオのライブを放映したのだ。

記述するのも馬鹿らしいが、この件に関しては、「第16回NHK紅白歌合戦」のアーカイブを視聴すれば、疑問の余地もないだろう

また、タモリのテレビデビュー(「土曜ショー マンガ大行進 赤塚不二夫ショー」75年8月30日放映、NET)についても、長谷は例によって、タモリの素人離れした別格ぶりを示すことで、既に赤塚不二夫という存在が過去の遺物に成り下がっている印象を操作をしている。

この辺りの描写を前述の『あるマンガ家の自伝 桜三月散歩道』より抜粋してみたい。

「子どもたちの夏休みがほぼ最後の日ということで、NETから依頼されて、高島忠夫氏の『アフターヌーン・ショー』を赤塚版の子ども向けにして放映したい、という話が持ち込まれていた。」

これは事実であろう。

また、この時のタモリの衣装についても、「扮装はキリスト教の神父の衣装で出そうということで、これだけは衣装部への発注となった。」

尚、この時のスチール写真は、タモリゲスト回である1996年12月30日放送の「徹子の部屋」で取り上げられ、筆者はそれを確認している。

従って、これも間違いないと断言出来よう。

だが、タモリの珍芸、奇芸のパフォーマンスにすっかり魅了された司会の高島忠夫の独断による、タモリのパフォーマンスをもっとフィーチャーしたいという意向から、そのプログラムに対して、長谷は「番組全体が、もう赤塚マンガの話題ではなくなっている。」と述懐しているが、当時、オンエアされた当番組を視聴された方々に話を伺うと、どうも話が違うようだ。

番組内容は、赤塚のこれまでの半生をタモリが紙芝居で幕間的に紹介し、ゲストの藤子不二雄Aや石ノ森章太郎とのトークを挟んで番組進行、フジオ・プロでの製作風景のVTRが放映され、最後にバカボンのパパに扮した赤塚と実際のバカボンのパパの着ぐるみが何故か結婚式を上げるというシュールな展開へと雪崩込み、牧師に扮したタモリが、藤子A、石ノ森とともに二人を祝福するというように、この番組でのタモリの立ち位置は、あくまで赤塚のアシスタントというものだった。

冷静に考えてみよう。

いくらその後、芸能界で天下を取るタモリとはいえ、この時はまだプロデビューもしていない素人だ。

そんな素人に、この時、押しも押されぬギャグ漫画の第一人者たる赤塚不二夫をそっちのけにしてまで、フィーチャーするなんて話は、天地がひっくり返ったところで有り得ない話であろう。

それに、赤塚を隙あらば陥れたい長谷と、純粋に当時、赤塚のファンだった少年達の証言、どちらが客観性を伴っているか、また信頼に足り得る情報であるのか、その回答は皆まで語るまでもないだろう。

余談だが、筆者が『赤塚不二夫大先生を読む』のインタビューで、テレビ初出演のタモリと共演した際の印象について藤子不二雄Aに伺った際、下記のようなコメントを頂戴した。

「番組の最後の方でタモリ氏が出てきてね。片言の日本語で煙に巻く外国人のインチキ牧師を演じたんだ。

元々タモリ氏は、デビュー前から赤塚氏の繋がりで紹介されていてね。

僕らの行き着けだった「ナジャ」とか「アイララ」とか、新宿の場末のバーに出没しては、4ヶ国麻雀だとか、イグアナの形態模写だとか、今まで見たこともないような、それこそ至芸を披露してくれてね。」

紙幅の関係から、やむなくカットとなってしまったが、そんなタモリのテレビ初出演に対し、藤子Aは「初出演とは思えないくらい堂に入った落ち着きでね。その後、テレビやラジオで大活躍するようになったけど、それも当然の流れだなと思ったね」という称賛で結んだ。

尚、近藤正高による著書『タモリと戦後ニッポン』でも、タモリ史を回想した内容だけに、「土曜ショー マンガ大行進 赤塚不二夫ショー」についても触れているが、著者の近藤は、1976年生まれと、当然ながら本番組をオンタイムで視聴しておらず、ましてや、『総特集 赤塚不二夫 81年目のバカなのだ』(「ユリイカ」2016年11月臨時増刊号)で、チビ太のキャラクターデザインが、高井研一郎によるものであると、誤った受け売りをそのままミスリードしてしまうほど、赤塚に関する知識は泥縄式に等しい御仁だ。

そんな近藤もまた、前掲の『あるマンガ家の自伝 桜三月散歩道』からの一文を引用として取り上げ、悲しいかな、この記述のラストとして、締め括っている。

タモリ関連書籍に関しては、屈指の一冊と呼べる著作だけに、このような誤認識により、それを台無しにしてしまった長谷による風説の流布は、実に罪深いものがある。

『漫画に愛を叫んだ男たち』が刊行されて、2024年現在、既に二〇年の月日が経とうとしている。

しかしながら、調べればあからさまにバレる、これらの稚拙な虚言すらも、漫画研究家やマニアらによって叱正されることは一切なかった。

これがもし、別の巨匠漫画家だったら、その作家のディレッタントにより、明確なソースが呈示されつつ、それこそ炎上レベルで斧正されていたことであろう。

余談だが、漫画評論家の米澤嘉博が、1981年に『戦後ギャグマンガ史』(新評社刊)なるクロニクル本を上梓した際、赤塚マンガには一切興味がなかったのであろう。代表的な赤塚マンガの連載期間を含む事実関係の錯誤や、作品世界に対する理解の闕如が至るところにおいて散見され、初読の際、愕然とした想いに駆られたことがあった。

この本が刊行された81年当時、赤塚は、漫画界の第一線ともいうべき少年週刊誌からの撤退を余儀なくされていたものの、「週刊文春」連載の『ギャグゲリラ』ほか、週刊誌1本、月刊誌6本の連載を抱えていた。

無論、これらの作品はヒットには結び付かなかったものの、漫画家としての仕事が一切なかったわけではなかった。

そして、何よりも、まだこの時代は、ほんの数年前まで、週刊誌5本、月刊誌7本といった同時連載を抱えており、赤塚自身、ギャグ漫画の大家として、また世間の記憶に留められていた頃である。

尚、この著作は2009年、前年の赤塚の逝去に合わせたタイミングだったのかは知る由もないが、筑摩書房より文庫化された。

米澤よりも若い気鋭の漫画研究家がオリジナル版にあった錯誤誤記を訂正した完全版と謳っていたものの、赤塚に関する誤った記述やデーターは全くもって訂正されることはなく、やはりというか、漫画研究家の間でも、赤塚の漫画家としての認識は所詮その程度のものだと、改めて痛感した次第である。

因みに、この文庫版は、フジオ・プロスタッフの吉勝太が新たに描き下ろしたレレレのおじさんがそのカバーを飾っているが、そのテキストにおいて、赤塚が蔑ろにされているだけに、殊更に虚無感が込み上げてくる。

閑話休題。話が横道に逸れてしまったが、筆者は常々「長谷邦夫にファンや味方はいても、赤塚不二夫にとってのそれらは一切ない」と当ブログで語っているが、これなどはまさに、そうしたトラジェディの証左であると嘆いても憚らない。

他にも、長谷によるデーター等の細かい錯誤誤記を挙げれば、呆れ返る程にキリがないが、この場を使って逐一訂正を加えておきたい

赤塚マンガ最大のヒット作であり、赤塚の象徴的作品とも言える『天才バカボン』。その連載期間を「週刊少年マガジン」昭和42年15号〜昭和44年9号 昭和46年37号〜昭和49年29号」と、著書『天才バカ本なのだ!!!』の中で解説しているが、「マガジン」誌での復活連載を指しているとおぼしき昭和46年37号〜昭和49年29号という記述は、この復活連載の『天才バカボン』と時同じくして、ライバル誌「週刊少年サンデー」にて並行連載されていた『レッツラゴン』のそれである。

しかしながら、こうしたん誤謬ですら、『天才バカボン』を回顧した記事等で、長谷の解説文が連綿として使われている始末なのだ。

『天才バカボン』は、連載、中断、再連載と途中掲載誌を変え、長きに渡って発表され続けた作品である。

従って、少ないページ数の中で、その全データを書き切るには限界があるわけだが、この『天才バカ本なのだ!!!』は、1988年にリニューアル刊行された講談社コミックス『天才バカボン』全16巻をテキストに執筆されたものである。

このシリーズは、1987年のリバイバル連載以前の67年から76年に「週刊少年マガジン」「別冊少年マガジン」「週刊ぼくらマガジン」「月刊少年マガジン」に掲載された作品をアトランダムに編纂したもので、「週刊少年サンデー」等の小学館系の少年誌に引っ越し連載していた時期のエピソードについては、一切収録されていない。

従って、「週刊少年マガジン」(昭和42年15号〜昭和44年9号 昭和46年27号〜昭和50年2号 昭和50年43号〜昭和51年49号)、「別冊少年マガジン」(昭和42年8月号〜昭和44年1月号 昭和49年8月号〜昭和50年5月号)、「週刊ぼくらマガジン」(昭和46年20号〜昭和46年23号)、「月刊少年マガジン」(昭和50年6月号〜昭和53年12月号)と記すべきであるのだ

1994年から翌95年に掛けて、長谷の編著により『ニッポン漫画家名鑑』『ニッポン名作漫画名鑑』『ニッポン漫画雑誌名鑑』の三部作をデーターハウスより刊行されるが、これらの著作においても、赤塚不二夫関連に関し、幾つかの間違いがあるので、指摘しておきたい。

まず、「週刊少年ジャンプ」にて設立された新人ギャグ漫画家の登竜門「赤塚賞」についてだが、設立年は1965年ではなく、正しくは1974年。65年当時、「少年ジャンプ」はまだ創刊すらされていない。

また、『ニッポン名作漫画名鑑』で取り上げられた『レッツラゴン』『松尾馬蕉』に関しても、『レッツラゴン』の連載期間は、昭和47年〜49年ではなく、昭和46年〜49年。『松尾馬蕉』(「平凡パンチ」)は、昭和56年ではなく、昭和58年の連載作品だ。

この三部作は、複数の漫画マニアからも理解の欠乏や記述の誤りが指摘されているように、資料的価値に照らしても、愚にもつかないレベルであるが、あくまで当ブログは、赤塚不二夫に特化したブログなので、その他の作家や作品に関する記述については、ここでの言及を避けておく。

さて、本稿では、長谷邦夫の著作における虚言や歪曲、事実誤認等を重箱の隅を突くように、一つ一つ詳細に訂正してきたが、現在、赤塚不二夫にファンや味方が皆無といった現状を鑑みると、誰もこのような記事を求めることもないだろうし、端から見れば、単なる世迷い言に過ぎないだろう。

そして、長谷が振り撒いたこれらの妄言に更なる尾鰭が付き、赤塚作品の全作品を長谷邦夫が代筆したという戯言にシンボライズされる、赤塚への矮小化や形骸化を促す流言飛語が、この先もネットやメディア等において切れ目なく飛び交うことは、火を見るよりも明らかだ。

混濁の世の不条理と言うべきか、現在の赤塚不二夫は、死して尚、国民のサンドバッグ宜しく、儘ならない日常への鬱憤晴らしの対象として、日々SNS等のネット民により罵詈雑言を浴びせられている始末である。

恐らく、長谷にとっても、世の赤塚に対する、ここまでの地に堕ちた扱いは想定外のものであったに違いない。

最早、文化遺産としても遺らず、今後も世間一般から益々揶揄され、歪なまでに俗物化されてゆく赤塚不二夫という存在に対し、長谷邦夫は、草葉の陰でほくそ笑んでいるのだろうか……。

いや、こんなこと、考えるだけで野暮というものだろう。

今後も、赤塚不二夫がギャグ漫画の第一人者だったという認識は、現世において、益々希薄化してゆくこと必至なのだから……。

他にも、長谷に関するトピックを二、三抱えているが、プライベートな問題である上、ややもすれば、その名誉を著しく損なう事柄も多分に含まれているので、これ以上の言及は控えておく。

そして、筆者が長谷邦夫について触れるのは、本稿をもってピリオドとしたい。


天知る地知る読者知る① 『トキワ荘の遺伝子』に見る北見けんいちによる風説の流布

2024-05-12 23:27:13 | 論考

今年(2024年)の2月29日、小学館から『トキワ荘の遺伝子 〜北見けんいちが語る巨匠たちの横顔〜 』なる著作が刊行された。

奥付には、「2024年3月5日 初版第一刷発行」とある。

元フジオ・プロのアシスタントであり、やまさき十三原作の『釣りバカ日誌』に作画を務めている北見けんいちがこれまで交流を持った巨匠漫画家達の素顔について触れるという内容で、聞き書きを文筆家の小田豊二が担当している。

45年生まれの小田もまた、旧満州国のハルピン市の出身であり、北見同様、所謂「引き揚げ組」だ。

そうした出自からも、北見と親しくなった小田に、インタビュアとしての白羽の矢が立ったのは想像に難くない。

企画は、元「ビッグコミックオリジナル」の編集者で、浦沢直樹作品のブレーンや原作を多数務めたほか、現在は作家としても活躍目覚ましい長崎尚志によるもので、長崎はかつて『「大先生」を読む。』で赤塚番を担当したこともある。

トキワ荘グループをはじめ、戦後漫画史を牽引し、漫画の黄金時代を築いた大漫画家が次々と鬼籍に入ってゆく状況の中、そんな巨匠達の素顔を知る北見の証言を記録に遺したいという長崎の想いは、一漫画マニアとしては理解出来ようが、本書の刊行がアナウンスされた時、「北見けんいちが語る巨匠たちの横顔」なるサブタイトルに触れ、個人的に悪い予感しかしなかったのも事実だ。

実際、その不安は杞憂に終わることなく、やはりというか見事に的中していた。

これまで北見は、インタビュー等で赤塚不二夫との想い出を回顧した際、曖昧な記憶と憶測で語っていることが多く、またその時々に応じて発言内容が大きく違っていたり、場合によっては、言葉足らずから、赤塚の偉業を矮小化してやまない風説も多々見受けられていたからだ。

具体的な例を挙げれば、フジオ・プロの分業システムについての質問から、赤塚の執筆領域について触れた際、「先生はラフに丸とか三角を描いて、高井さんが鉛筆でキャラクターの線を入れていく。で、その次が僕らがなぞって、次に背景とかベタっていう流れ作業だよね。」(『赤塚不二夫マンガ大全「ぜんぶ伝説のマンガなのだ!!」/宝島社、11年』)と語っているのに対し、23年刊行の『まんが 赤塚不二夫伝 ギャグほどすてきな商売はない!!』(光文社)では、赤塚の筆による密度の濃い下絵の実物(『赤塚不二夫の中国故事つけ漫画』/集英社、83年)を現フジオ・プロスタッフから見せられ、「おれが手伝ってたキングの『おそ松くん』(1972〜73年)とか文春の『ギャグゲリラ』(1972〜82年)なんかも、赤塚先生、このくらい克明に下絵を入れてくれてたよ! 高井研一郎さんがいた頃(1969年2月頃まで)は、もっとラフな感じだったね。」(原文ママ)と証言している。

妄言極まる北見の赤塚に対する証言は、これ以外にも枚挙に暇がないが、今回は、タイトルにもあるように『トキワ荘の遺伝子』に限り、その錯誤誤記を逐一訂正してゆきたい。

事実、赤塚以外の巨匠についても、誤謬を湛えた発言が多々あるが、当ブログは、あくまでも赤塚不二夫に特化したブログであるため、今回は赤塚に関する不備な記述のみを勘校するに留めることにした。

赤塚以外の巨匠漫画家についての記述は、それぞれの作家のディレッタント諸氏に叱正を乞いたい。

まず、北見は、赤塚不二夫を語る上で、赤塚がブレイクにするに至ったその原点に、赤塚、古谷三敏、高井研一郎の三角錐があったことを語っている。

その見解に対し、筆者も異論はない。

まだ、フジオ・プロ設立前、新宿区西大久保を仕事場としていた時のことだ。(この辺りは、本橋信宏著『60年代、郷愁の東京』(主婦と生活社、10年)に詳しい。)

ギャグの赤塚、教養と蘊蓄の古谷、キャラクターメイクの天才・高井。まさに完全な三角錐だったと北見は語る。

「『おそ松くん』のなかで高井さんが描いたキャラクター?

えーとねぇ、赤塚先生が描いたのは、一松、チョロ松、カラ松、トド松、十四松、それにおそ松だろ。あとはお父さんとお母さん、おそ松の憧れのトト子ちゃんも先生が描いていたよね。 〜中略〜 チビ太は、先生だと思うけどな。そうかな高井さん? 先生の本にそう書いてある? じゃ、高井さんかも?」

これは、聞き書きの小田豊二のミスリードである。

正確には、『バカボン線友録 赤塚不二夫の戦後漫画50年史』(学習研究社、95年)で、赤塚の口実筆記を担当した編集プロダクション「メモリーバンク」代表の綿引勝美の筆記ミスで、これにより、チビ太=高井デザイン説が一気に広まったのだ。

チビ太は元々、『おそ松くん』以前に執筆していた『ナマちゃん』(「漫画王」「小学生画報」「まんが王」、58年〜62年)に登場する乾物屋の小倅・カン太郎と『キツツキ貫太』(「週刊少年マガジン」、61年)の主人公・貫太とをフュージョンさせて誕生したキャラクターである。

尚、イヤミ、デカパン、ハタ坊をデザインした高井を北見はキャラ作りの天才と称賛するものの、そんな高井でも、原作がないと、漫画は描けない。

逆にストーリーを描ける人は、キャラが描けない。

高井と赤塚を対比し、両方描ける人は少ないと居丈高に語っているが、北見もまた、『釣りバカ日誌』『愛しのチィパッパ』『サッチモ』(いずれも原作はやまさき十三)等、原作がなければ、ほぼほぼ漫画が描けない漫画家の一人である。

キャラクター作りについて、北見は相当な事実誤認をしている。

「『天才バカボン』の「ウナギイヌ」は、古谷さん自ら「俺が描いた」って言ってたなあ。」

これは古谷三敏が10年に上梓した『ボクの手塚治虫せんせい』(双葉社)に記されていた記述だが、これは古谷による記憶違いか、編集者による筆記ミスのいずれかであろう。

後に古谷は、ウナギイヌをフィーチャーしたDVDマガジン『昭和カルチャーズ「元祖天才バカボン」feat・ウナギイヌ』(角川SSCムック、16年)において、次のように訂正している。


「「今日の漫画が掲載される頃はちょうど土用の丑の日だね」なんて話をして、じゃあウナギをテーマになにか考えようという話になり、いつものように寝起きでまだ目が覚めていなかった僕はベランダでタバコを吸いながらボーッとしていた。そうしたら目の前をイヌがダーッと走り去ったんです。そこでピンときてウナギにイヌを掛けたら面白いんじゃないかと思いついたら先生が「それはイケる!」となって、ああでもないこうでもないと二人で絵を描き始めて、最終的に先生が描き上げたのがウナギイヌだったんですよ。」

長谷邦夫や『バカボン』担当の赤塚番記者だった五十嵐隆夫の証言とはディテールが若干異なるが、赤塚がウナギイヌを創り上げたという話は、両名とも一致している

また、レレレのおじさんについて、北見はこう述べている。

「あれは、先生じゃないかな。俺は、そのキャラは、手塚治虫さんの流れを汲んでると思うよ。」

レレレのおじさんは、手塚治虫をルーツとしたキャラクターではなく、『ドロンちび丸』や『猿飛佐助』で有名な杉浦茂をオマージュしたものだ。

また、レレレのおじさんは、第一期連載(「週刊少年マガジン」、67年15号〜69年9号)の『天才バカボン』で、幾度となくそのプロトタイプが登場し、試行錯誤の末、生まれたキャラクターだ

そして、厳密に言えば、「川でトリを釣るのだ」(「週刊少年マガジン」、67年27号)、「ハリとカモイがシキイなのだ」(「週刊少年マガジン」、67年42号)、「キョーレツな香水なのだ」(「週刊少年マガジン」、67年43号)に登場した三つのキャラクターを、チビ太同様にフュージョンさせ、「免許証なんて知ってたまるか」(「週刊少年マガジン」、67年48号)で、現在のスタイルとなって初登板したのだ。

この時、高井が三つのプロトタイプを創案し、赤塚が描きやすいようにリライトを施し、完成させたというのが真相である。

ニャロメ、ケムンパス、べしについてはこう語っている。

「え、「ニャロメ」? あれは高井さんじゃないよ。たしか、タイガー立石さん。 〜中略〜  先生がなんか、「二本足で歩き、言葉を話す変なネコ」のキャラを頼んだんじゃないかな。「ニャロメ」って名づけたのも彼だって話だよ。」

「「べし」とか「ケムンパス」とか。あれもアイデアは先生で、具体的に絵にしたのは、高井さんでしょう、たぶん。」

あやふやな記憶を辿りながら、「たしか」や「たぶん」といった推測の副詞を用いて保険を打っている点は、姑息な印象を拭えず、些か気分が悪いが、ケムンパスもべしも、高井がフジオ・プロを退社した後にそのプロトタイプが登場したキャラクターだ。

因みに、ケムンパスの初登場は、「ココロのボスにラブレター」(「週刊少年サンデー」69年15号)、べしのそれは、「ニャンゲンにニャリたい」(「週刊少年サンデー」69年40号)である。

高井は、早くとも68年の秋頃、遅くともフジオ・プロが西新宿の市川ビルから代々木の村田ビルに移る前の69年の年明けには、独立している。

つまり、退社した高井が、ケムンパスとべしをキャラクターメイクするためだけに、その後フジオ・プロを訪れたとは考え難い。

事実、高井はケムンパスとべしに関して次のように延べている。

「その後のケムンパスとかべしあたりになると、(あだち)勉ちゃんがやってくれたんじゃないかな。」

つまり、ケムンパスとべしも高井の退社以降に生まれたキャラクターであるため、高井もその詳細は知らないのだ。

因みに、あだち勉のフジオ・プロ入社は、71年であるので、ケムンパス、べしが登場した『もーれつア太郎』の連載が終了した一年後のことである。

また、ニャロメは元々は、『天才バカボン』に登場する夜のイヌの類縁性を示したネコであり、『もーれつア太郎』の担当編集者だった武居俊樹によれば、ドラマが一段落した際の句読点として頻出させていたリアルタッチの月の夜景に、赤塚が好んで描き加えていた尖った耳と大きな目が特徴的なマスコットキャラであった。

ここで北見が語っているタイガー立石とは、1970年代より、オリベッティ社傘下のエットレ・ソットサスのデザイン研究所を拠点に、デザイナー、前衛アーティストとして世界を股に掛けて活躍することとなる立石鉱一その人である。

立石は、赤塚も『いじわる教授』(65年7月号〜12月号)、『スリラー教授』(66年1月号〜3月号、67年4月号〜6月号、9月号)、『おそ松くん』(66年4月号〜7月号、10月号〜12月号)等、かつてレギュラー執筆していた「ボーイズライフ」誌上にて、ユーモアページを担当し、そこにアメリカンコミックにインスパイアされたと思われる小洒落たサイレントギャグを多数執筆していた。

そんな立石が描くキャラクター達が激昂した際、「コンニャロメ!!」「キショウメ゙!!」といった奇抜な言い回しをしており、その影響を受けた赤塚が件のマスコットキャラであるネコに一言「ニャロメ」と鳴かせ、ここにニャロメのキャラクターの原型が形作られることになったのだ。

北見は、ニャロメがバカボンのパパと同様に赤塚ワールドの象徴にして、ポリティカルの季節のアナロジーを体現したキャラクターに成長したことに対し、「いまだったら、「あのキャラは俺が描いた」と権利を主張する人も多いだろうけど、あの当時はそんなこと、誰も言わなかったし、いい時代だったよね。」と、嫌味を言っているが、ニャロメというネーミングはともかく、そのキャラクター自体は、赤塚が生み出したものだから、第三者が権利を主張すること自体、頓珍漢な話なのだ。

漫画家・赤塚不二夫の最大の功績の一つに『おそ松くん』に登場するキザで出っ歯の鼻持ちならないキャラクター・イヤミが発する「シェーッ!!」の奇声がボディーアクションとともに、全国的な流行語となったことが上げられる。

北見は「シェーッ!!」誕生についてこう語っている。

「あのポーズはね、お花見から生まれたんだってね。先生から聞いたことがあるよ。え、新説? いやホントだよ。俺、その時、参加してないんだけど、ある時、みんなで新宿御苑に花見に行ったんだって。

ただ、桜の下で酒を飲んでいるだけじゃつまらないから、サイコロを使った「チンチロリン」っていうゲームがあってさ、それをやって負けたヤツが罰ゲームとして、なんかおもしろいポーズをとらなくちゃいけないというルールにしたんだって。赤塚先生なら考えそうなことだよね。

誰だったか聞き忘れたけど、高井さんか、古谷さんか、松山(名和註・しげる)さんか、負けたんで、両手を逆に伸ばして、片足曲げて、あの「シェー」のポーズをしたんだそうだよ。声は「シェー!」じゃなかったって言ってたけど。「ヒョエー!」とか言ったんじゃないの。

みんなひっくり返って笑ったんだけど、それを見た全然関係のない花見のグループの客が輪の中に入ってきて、「あんまりおもしろいから、俺たちも仲間に入れてくれ」って、大盛り上がりだったんだって。それで、あの「シェー!」のポーズが生まれたって、聞いたよ。」

これも完全に北見の記憶違いで、真相は下記の通りである。

「仕事が一段落したある日、みんなでめずらしく散歩などとしゃれこんで、新宿御苑へ出かけたものでした。

そこで、誰が言い出したのか、ジャンケンでまけた者が『シェー』をやろうといいだしたものです。みんなで御苑の芝生の上で車座になり、ジャンケンをして負けたものがまんなかに進みでて『シェー』をやるのです。

まわりの人は遠くから、なにを変なことをやっているか……。不思議そうな顔をして見ていましたが、中から一人こちらへやってきて『おもしろそうだから仲間に入れてくれ』としばらく遊んですごしました。

そのとき、その当人は『シェー』の何であるかも知らずやっていましたが、あとになってマスコミでさわがれ、その実体を知ったとき、おそらく『おれはまっ先にシェーをやった』と手をうったことだろうと、今でもこのことが私たちの仲間の語り草になっています。」(『おそ松くん全集』第11巻、巻頭エッセイ「『シェー』のこと/曙出版、68年)

この北見の証言は、「新説」でもなければ、「真実」でもないことを声を大にして伝えたい。

フジオ・プロのルーツについても、北見は大きな勘違いをしている

「一回、先生の自宅(名和註・西大久保の第三さつき荘)からすぐ近くに、仕事場だけが移ったんだよ。 〜中略〜 「永光荘」って言ったかな。六畳一間。竹中健治さんというアシスタントも増えて、先生入れて六人。これが「フジオ・プロ」のはじまりだね。」

実際は、赤塚も参加していた石ノ森章太郎主宰の「東日本漫画研究会」が、新党員を中心とした人間関係のトラブルが発生し、自然消滅したことにより、その灯を絶やしたくないという想いから、62年頃、当時、『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』の連載開始により、既に人気漫画家に仲間入りを果たしていた赤塚を中心に、長谷邦夫、横山孝雄、高井研一郎、よこたとくお、山内ジョージといったその残党と、この時、赤塚の最初の妻であった稲生登茂子らによって結成された「まんが七福神・プロダクション」が母体となっている。

この頃は、忙しくなりつつあった赤塚の執筆をサポートする赤塚主体のプロダクションというよりも、それぞれ独立した漫画家達が、お互いを刺激し合いながら、新しい漫画を創造してゆこうという高邁な理念のもとに組織された、謂わば「新漫画党」のスタイルや規模を矮小化したファクトリーであったが、参加した面々を見ても、これがフジオ・プロのルーツであったことに論を俟つまでもないだろう。

ただ、ここで北見が語った「永光荘」については、筆者も初耳であり、今となっては、そのアパートも取り壊されているであろうが、近々新宿区内の図書館に赴き、当時の住宅地図を調べて確認を取るつもりだ。

尚、まんが七福神・プロは、神田に構えた事務所が安普請で、南京虫の巣窟と化した衛生上の問題もあり、その活動は不活発のまま、ピリオドを打つこととなった。

赤塚、古谷、高井が三角錐と語っていた北見だが、フジオ・プロの分業制、また執筆量ついても、大きな記憶違いをしている。

「すごい時は、週刊誌の連載が二本、月刊誌の連載が十本、その他読み切りが十五本ぐらいあったもの。もちろん、先生ひとりじゃ描けないから、先生はストーリーとコマ割り、絵は古谷さんが描いたり、高井さんが描いたり、三人と担当編集者でアイデアを考え、三人で描いたって感じだね。」

まだ、高井がフジオ・プロに在籍していた頃、週刊誌に関しては、「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」「少女フレンド」の三誌連載が通常の仕事量であり、赤塚のキャリアにおいて、週刊誌の同時連載の最高記録は、1974年から75年に掛けての「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」「週刊少年キング」「週刊少年チャンピオン」「週刊文春」の五誌である。

分業制についても、この時北見は、アイデア会議には呼ばれていなかったので、不明瞭なのかも知れないが、高井はアイデアブレーンは一切務めていない。

あくまで作画スタッフとして、赤塚をサポートしていただけだ。

アイデアのブレーンストーミングをしていたのは、赤塚、古谷、担当編集者の三名に長谷邦夫を加えた四名である。

古谷は、アイデアに関しては、赤塚と古谷、担当編集者の間でディスカッションを交わし、長谷は基本的に書記の係りだったと反芻するが、長谷もアイデアマンとして機能を果たしていた筈であると、筆者個人としては踏んでいる。

また、赤塚の作業範囲についても、ストーリーの作成とコマ割りだけではなく、当たりというラフな下絵をこの時入れており、この当たりこそが赤塚マンガの作風を決定する重要なキーとなっていることは言うまでもない。

事実、赤塚が当たりを入れなければ、赤塚マンガであって赤塚マンガてはない、古谷、高井の癖を湛えた似て非なる代物になってしまうことは必至で、この発言も、北見による毎度お馴染みの言葉足らずか、聞き書きを務めた小田豊二の不確かな筆致が災いしての結果なのか、知る由もないが、このような思慮の浅い記述こそが、連綿と続く赤塚矮小化をより一層深める要因となるのだ。

赤塚不二夫史におけて、ターニングポイントとなったタモリとの邂逅についても、北見は「先生、芸能プロも作ったけど、タモリ氏を入れなかった。田辺エージェンシーの方が、きっとタモリ氏の才能を活生かしてくれるって思ったからだと思う。」と述べているが、赤塚が主宰していた芸能プロとは、音楽プロダクション「フジビデオ・エンタープライズ」を指しているの明白で、共同経営者の井尻新一とのビジョンの相違や、漫画家として多忙な赤塚が経営に携わることが物理的に不可能であったなどの諸事情から、1970年代に入る頃には経営から撤退していた。

タモリが「田辺エージェンシー」へ所属することになった経緯を説明すれば、元々タモリは、赤塚同様タモリの世話人であった山下洋輔とスナック「ジャックと豆の木」のママであったA子女史がその窓口として設立した「オフィス・ゴスミダ」の第一号タレントであった。 

だが、タモリ出演によるとある学園祭での金銭トラブルから「オフィス・ゴスミダ」は解散を余儀なくされる。

そんな中、放送作家の高平哲郎や田辺エージェンシー所属タレントの堺正章との繋がりが生まれ、その縁から、その後、新たな窓口として移籍した高平主宰の編集プロダクション「アイランズ」を経て、田辺エージェンシー所属となったというのが真相である。

今回、赤塚不二夫関連のみ、錯誤誤記を指摘してみたものの、それだけでもこれだけの多くの誤りがあり、本書が如何に杜撰且つ不誠実な編纂の上で成り立ったものか、当記事を通読された御仁には、お解り頂けたと思う。

聞き書きの小田豊二も、赤塚に対しては勿論、漫画全般に興味のない門外漢であることは明らかで、曖昧な北見の記憶を補足するかのように、ウィキペディア等のネット情報から孫引きした記述さえ目に付く有り様だ。

まさに、手塚治虫が言うところの「天知る、地知る、読者知る」を体現した存在だ。

北見けんいち、小田豊二という二人の老害による近年稀に見るこの駄本は、戦後漫画史におけるミッシングリンクを解き明かすという本来の目的とは、程遠い結果となってしまった。

しかしながら、フジオ・プロの元アシスタント出身であり、映画化までされ、大ヒットとなった『釣りバカ日誌』の作画を務めているという北見のバリューから、この駄本に記されていることが全て真実として認識され、そう遠くないいつか、赤塚不二夫史に上書きされてゆくことだろう。

今や、長谷邦夫こそが全ての赤塚作品を代筆したという誤謬が当たり前の事実として罷り通っているように……。

北見、小田の両名には、己の発言の影響力の強さ、そして風説を流布することで、一つの戦後文化史に如何程の形骸化を齎すか、今一度考えて頂きたい。

こうした八方塞がりの状況において、今後も、赤塚不二夫とその作品群が文化遺産として語り継がれて行くことなど最早ないと、常々諦観を抱いている筆者であるが、このような万死に値する低レベルの駄本が二度と刊行されないことを、赤塚不二夫ディレッタントとして、また一人のアーキビストとしてただただ祈念するばかりである。

追記

今回、『トキワ荘の遺伝子』について、忌憚のない見解を述べてきたが、唯一、個人的に膝を打った北見の証言がある。

「ケンカ? 俺、一回派手な殴り合いをしたことあるよ。相手は、当時、フジオ・プロのマネージャーだった横山孝雄さん。 〜中略〜  助手席に横山さんを乗せてさ、原稿用紙にする紙を神田の神保町に買いに行ったんだよ。全紙をロールで買うからさ、車じゃないと運べないから。

で、紙を買いました。その帰りさ、助手席の横山さんがうるさいんだよ。まっすぐ行けばいいのに、「次の信号、右曲がって」とかいちいち言うんだよ。こっちはさ、両親とも江戸っ子だしさ、俺も生まれこそ満州だけど、引き揚げてからずっと東京だろ。だから、俺の方が道は詳しいわけ。

最初は遠慮して、「まっすぐ行った方が早いですよ」とか答えていたんだけど、「黙って俺の言う通りに運転すればいいんだ」みたいな偉そうな命令するようになったからさ、俺もカッとなって、車を止めて、横山さんに「ここで降りろ」って降ろしちゃった。

そしたら、横山さん、仕事場に戻ってきて、怒った。怒った。「北見、表に出ろ!」って言うわけだよ。ハハハ。「おもしれぇじゃねぇか」って外に出てさ、本気でボコボコにしてやったよ。俺、身体はチビだけどさ、ケンカは強いんだよ。子供の時、転校五回もしただろ。そのたびにケンカしてたからさ。だって、負けて帰ってくると、母親が家に入れてくれないから。

それ以来、「北見ちゃんって、ケンカが強いんだって?」ってみんなに言われるようになってさ。」

若き日の北見のこの武勇伝は、メディアでは初めて語られたものと思われるが、北見の漫画家仲間の間では、よく知られたエピソードで、筆者が2011年に社会評論社より『赤塚不二夫大先生を読む「本気ぶざけ」的解釈 Book1』を上梓した際、赤塚不二夫の人となりや、ご自身のギャグ漫画観について語って頂くべく、藤子不二雄A、森田拳次の両御大にインタビューを敢行したことがあったが、その際、両氏から北見のケンカの強さについて伺ったことがあった。

特に森田拳次からは、北見のケンカの強さは、学生時代のボクシング経験の賜物ではないかとも伺った。

ただ、北見は語っていないが、この北見と横山の大喧嘩に対し、赤塚は怒髪天を突く勢いで、二人にブチ切れたという。

その理由は、仲間同士が殴り合いをするなんて以ての外だと怒ったのだと思いきや、赤塚が放った一言はこうだった。

「どうして、どっちかが死ぬまで、殴り合わないんだ!」

森田拳次曰く「こんな発言、赤塚さんをよく知らない人間が聞けば、何たる非常識だと、ドン引きされるかも知れないけど、何よりも強烈なギャグを産み出そうとするなら、赤塚さん自身、常に自分を非日常に持って行かなければならないという強迫観念に駆られていたんだと思う。ホント、ギャグの殉教者だよね。」

そう語っていたのが忘れられない。