激甚なスラップスティックナンセンスからブラックファンタジー、そして、シュールで退廃的なクレージーコメディーへと、作劇の変遷を辿った『レッツラゴン』であるが、連載後期に至ると、本シリーズで開陳されたデスメタル且つアナーキーなギャグの切迫は、所謂アブストラクト・エクスプレッショニズムの漫画版として、赤塚ワールドに更なる驚愕の一ページを加えることとなる。
「コーラの花嫁」(73年3・4合併号)は、ゴンの親父とコカ・コーラの瓶が結婚するという、超絶的な変態性と読解不可能なメルヘンを新類型のナンセンスとして呈示した怪作中の怪作だ。
真っ昼間から泥酔したゴンの親父が、建設現場の前を横切ると、誤って鉄骨が落ちてくる。
だが、その場に落ちていたコーラの空き瓶を踏んだため、間一髪で鉄骨の下敷きから逃れられる。
親父は、命を救われた恩をコーラ瓶に抱き、篤く持て成して差し上げようと、そのまま家に持ち帰る。
コーラ瓶を座布団に座らせ、誠心誠意歓待する親父だったが、無機質な姿では、気の毒に思えたのか、その後、親父は、コーラ瓶にセーラー服を着させる。
すると、そのチャーミングな姿に、段々とコーラ瓶に異性としての魅力を感じ出し、親父は、コーラ瓶との結婚を真剣に考え出す。
そして、ゴンやベラマッチャを交えての擦った揉んだを経て、親父は、妻を生涯に渡り、割らず、クズ屋に売らず、花瓶にしないことを誓い、教会でコーラ瓶と挙式を迎える。
「ウガガ、あとであのビンを割って、おやじを未亡人にしてやるのベラマッチャ‼」
「あのビンが ぼくの二度めのおかあさんか‼ ワハハハ」
このエピソードにシンボライズされるように、後期『レッツラゴン』では、無意味の生成と増産が果てしなく繰り返される流動的空間が、その世界観として創出される。
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特に、次に述べる「恐怖のまん中人間」(74年10号)などは、まさに、そうした無意味の概念を、意識の外部の実存的関係へと還元することにより、シュールとナンセンスの二項対立を鮮明化させた、諸刃の剣とも言うべき危うさを含んだ異端の一作と呼べよう。
ゴンの親父の殺人未遂事件の罪に問われたトーフ屋ゲンちゃんは、ゴンや親父、ベラマッチャから火焙りの刑に処され、その厳しい拷問に音をあげ、実際は無実であるにも拘わらず、犯人は自分であることを供述する。
だが、ゴン達は罪を認めたら、拷問をやめるという約束を無視し、今度は白状した罪として、巨大なおろし金でゲンちゃんの頭を削り出す。
やったと言っても拷問。やらなかったと言っても拷問。
遂に、自我が崩壊したゲンちゃんは、自分は犯人でなければ、犯人でないわけでもない。つまり、真ん中だと言い出す。
そんなゲンちゃんが、「まん中だ‼」「まん中だったらまん中だ‼」と絶叫しながら、ゴン達を追い掛け廻すと、街中の人間達も、その狂気的な迫力に恐れおののき、三々五々逃げ出すというのが、そのあらましで、このアンコンシャスな粗雑感が巨大な塊となって、自然の摂理たる因果律や、硬直化した規範概念から背理する超常的浮遊性に、更なる増幅を掛けるのだ。
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