文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

衝撃の『バカボン』移籍事件 「サンデー」の巻き返し作戦

2020-06-19 07:40:15 | 第4章

1968年の「週刊少年マガジン」新年号で、ボクシング漫画の金字塔にして、現代漫画の最高傑作との呼び名も高い『あしたのジョー』(原作・高森朝雄/作画・ちばてつや)がスタート。70年には、同誌の発行部数を150万部に引き上げるなど、これにより「マガジン」は、劇画ブームの立役者になるとともに、同誌大躍進の布石となる莫大な金脈を掘り当て、「サンデー」との差を大きく引き離した。

一方の「サンデー」は、社会現象化した『オバQ』&『おそ松』ブームから一転。この二大ヒット作の週刊連載終了後、その勢力は、低迷に向け、緩やかではあるが、失速しつつあった。

赤塚と同じく「サンデー」の驚異的な跳躍において、そのキーパーソンとなった藤子・F・不二雄は、『オバQ』からテレビとの相乗効果を狙ったタイアップ作品『パーマン』へと人気を継続させる。

しかし、『パーマン』終了後の1968年、人類に宇宙への夢と希望を与えたアポロ計画にインスパイアされ、発表された『21エモン』は、壮大なスケールを纏って展開する未来SFギャグにして、藤子ワールドに新たな展望を切り開くエポックとも言い切れる好シリーズであったが、編集部が期待を寄せたほどのヒットには至らず、その後、起死回生を賭けてスタートさせた『ウメ星デンカ』もまた、今ひとつ読者の気受けが高まらずにいるなど、停滞を余儀なくされていた。

因みに、藤子F、赤塚作品以外での、1969年「サンデー」新年号のシリーズ連載の布陣を見てみると、『歌え‼ムスタング』(原作・福本和也/作画・川崎のぼる)、『地球ナンバーV7』(横山光輝)、『ドカチン』(板井れんたろう)、『あかつき戦闘隊』(原作・相良俊輔/作画・園田光慶)、『サスケ』(白土三平)といった諸作品が並んでおり、いずれも当代一流の人気漫画家が健筆を振るっていたタイトルではあったものの、この中で、辛うじて話題を集め、また堅調な人気を持続し得ていたのは、当時テレビアニメがオンエアされていた『サスケ』のリメイク連載と、軍服、制帽、銃剣のレプリカ等、ミリタリーグッズのプレゼントキャンペーンを大々的に張り、戦争に対する礼賛を悪戯に助長するものとして、日本児童文学者協会をはじめ、各市民団体、有志から問題提起を受けるなど、後に波紋を投げ掛けることとなる『あかつき戦闘隊』といった劇画勢のみであった。

鳴り物入りで登場した赤塚の『ア太郎』も、依然として振るわず、低空飛行を続けている。

実際、「サンデー」編集部でも、人気が一向に上向き加減とならない『ア太郎』の打ち切り案が、比較的早期の段階から浮上していたらしい。

『あしたのジョー』の特大ヒットにより、「マガジン」に王者の座を奪われた「サンデー」編集部は、そのポストを奪還すべく、業界のタブーとも言うべき巻き返し作戦に打って出る。

「サンデー」の創刊10周年を記念し、毎号「赤塚不二夫の編集するページ」として、一個人の漫画家としては破格の80ページもの掲載スペースを用意することを交換条件に、赤塚に「サンデー」への『バカボン』宿替えを打診してきたのだ。

つまり、「マガジン」の『バカボン』愛読者を根こそぎ「サンデー」が頂戴しようという魂胆だ。

当然そこには、今一息冴え渡らずにいる『ア太郎』人気を『バカボン』とのジョイントで盛り上げて行こうという算段も、多分に含まれていたことは言うまでもない。

『バカボン』は、掲載誌「マガジン」の主力連載でありながらも、講談社児童まんが賞を逃した悲運の作品であったが、実際、1969年度の同賞の受賞がほぼ確定していたという事実はあまり知られていない。

爆発的ヒットとなった『バカボン』の「マガジン」の部数増大への貢献度を鑑みれば、当然の結果とも言え、そうした事情を背景に、講談社主催による「『天才バカボン』大ヒット祝賀会」が開催されるのだが、その席で壇上に上がった赤塚は、何と、自らが「サンデー」の編集長になって、「マガジン」を追い抜きたいと、不敵にもそう語り出したのだ。

無論、赤塚にとっては、宴の席でのリップサービスのつもりで発言したジョークに過ぎなかったのだろうが、その来賓客の中で、ただ一人、この言葉を真剣に捉えていた者が、当時赤塚と一心同体の存在であった長谷邦夫だと言われる。

そのことを裏付ける根拠と、『バカボン』の「サンデー」移籍の具体的な経緯と詳細が、前出の赤塚担当記者だった武居俊樹が、2005年に書き下ろした自伝的エッセイ『赤塚不二夫のことを書いたのだ』(文藝春秋社)に過不足なく記されている。

事の発端は、赤塚行き着けのバー「竹馬」で、赤塚、武居、長谷、高井が酒を酌み交わし、たまたま酒の肴が漫画の話になった際に、長谷が酔いに任せて発したひと事であった。

「『バカボン』、「マガジン」から持ってきて、赤塚不二夫を「サンデー」の独占作家にしちゃえば」

漫画家として、トータル的な才能に恵まれなかった長谷は、自身の持てる能力のほぼ全てを、類友である赤塚との共同作業に投入し、誠心誠意赤塚をフォローすることで、クリエーターとしての活路や自らの存在意義を見出だしていた。

創作に対して、とことんまで誠実であるということ、そのことを直に学び、赤塚こそが、最も興味のある漫画家(人間)として公言して憚らなかった長谷の希望のベクトルは、赤塚を更にビッグな存在へと高め、漫画界で天下を取らせたいという想いに傾きを掛けていたのであろう。

そのためには、赤塚を「サンデー」の独占作家にさせ、そのカリスマ的価値を際立たせることが必須ではないかという思惑が、この時、長谷の中で働いたことは想像に難くない。

しかし、その発言に対し、赤塚は無反応で、その場に居合わせた高井もまた、「そんなこと、出来るわけがない」と、聞く耳を持たず、会話は別の話題へとスライドし、話は一旦そこで立ち消えとなった。

だが、機先を制す。

長谷のそのひと言を胸に刻み付けた武居は、早速その翌日、『バカボン』を「サンデー」に移籍させ、『ア太郎』とジョイント掲載させる企画案を、この時編集長だった高柳義也に伝え知らせる。

当初、「机上の空論」、「画餅飢えに充たず」といった面持ちで武居の話に耳を傾けていた高柳も、武居の熱弁に触れ、段々とその話に意欲的になり、遂には、赤塚が小学館で最も信頼を寄せている広瀬徳二第二編集部長が、赤塚への説得工作にあたり、『バカボン』の移籍の確約を取り付けることとなる。

赤塚が広瀬の要求を飲むに至るまで、どのような遣り取りが二人の間で取り計られていたのか、誰もわからない。

しかし、両者の表も裏も知り尽くしている武居は、人の良い赤塚の性格に漬け込み、赤塚が中野区弥生町に新居を構えた際に、小学館が貸し出した大金のことまで持ち出し、恩を売りながら、おだてて脅す、ヤクザ同様の手口で、赤塚を屈伏させたのではないかと推測する。

勿論、赤塚にも、自分は「サンデー」によって育て上げられたという感謝の念があり、部数低迷に喘ぐ同誌の危機的立場を少しでも打開出来ればという恩返しの想いから、『バカボン』の「サンデー」移籍を決断したことも、強ち間違いではないだろう。

そして赤塚は、長谷を連れ立ち、講談社に談判に乗り込む。

当時、「マガジン」の編集長を務め、『バカボン』の「サンデー」移籍を赤塚から直談判された内田勝は、その時の状況を、著作『「奇」の発想』(三五館、98年)でこう記述している。

「連載前に別館で打合せをして以来、二度目にわざわざ来社した赤塚さんは、

「じつは「サンデー」が毎号八十頁を、〝赤塚不二夫が編集する頁〟として提供してくれることになり、ついては『天才バカボン』も『マガジン』から『サンデー』に持っていきたいのだが……」

と強ばった面持ちで告げた。

ぼくは寸秒も置かず、「結構です。どうぞ」と答えた。大反対されて、長い遣り取りになると予想していたらしい赤塚さんは、呆気にとられた表情を見せたが、ぼくは手塚さんの「W3」の時と同じく、今度は赤塚ギャグに対抗するギャグ・マンガを作ろうと、話を聞いている最中に、すでに心に決めていたのだった。赤塚さんが『マガジン』に勝てるか、『マガジン』編集部が赤塚ギャグに勝てるか、それは〝男の勝負〟というものだ。」

内田が赤塚の申し出に対し「結構です。どうぞ」と答えたのは、事実として間違いのないことであろうが、その時、現場担当の五十嵐隆夫記者とともに、この場に同席していた副編集長・宮原照夫の話では、内田が承諾する前、赤塚と舷舷相摩す相当な遣り取りがなされたとのことで、内田が語った内容とは若干事情が異なる。

内田の記憶違いか、それとも赤塚に対する永遠に消し去れぬ腹立たしさの表れとも取れる捏造かは、当然ながら、筆者の知る由ではないが、自らが熱心に企画を立ち上げ、プロデュースし、大成功を収めた作品を易々手放す真似をしたとは思い難い。

宮原の言う通り、赤塚の『バカボン』移籍への決意は固く、それに対し、これ以上無駄な説得に労力を費やすまでもないと諦めた内田が、最終的に赤塚側の要望を受け入れたと考えるのが穏当であろう。

漫画界において、それまで日陰の存在であった劇画作家を一躍メジャーシーンへと押し上げ、また、後にビジュアルの魔術師と異名を取る大伴昌司をグラビア企画構成者に起用するなど、常に独創的なプランを打ち出しては、「マガジン」の部数増大に大きく貢献してきた内田は、業界の風雲児とも呼ばれた有能なエディターであるが故か、人一倍自尊心が強く、毀誉褒貶の激しいことでも知られていた。

この一件で自身の面子を酷く踏みにじられたと感じた内田は、その後『バカボン』が「マガジン」へと再び舞い戻り、第一期「マガジン」連載版を上回る人気作品へと返り咲くも、終生に渡って、赤塚を憎悪し、インタビュー等において、赤塚に対し、一貫して否定的な発言をし続けることになる。

尚、この移籍トラブルにより、講談社側は、フジオ・プロ系列の作品の掲載を全てボイコットしたと、長谷邦夫の著作を初めとする多くの赤塚関連の書籍で流布されているが、これも事実無根の話である。

やはり、講談社としても、ドル箱コンテンツとなった赤塚ギャグを手放したくない想いが強かったのだろう。

事実、赤塚は『バカボン』の移籍、中断中であっても、「別冊少年マガジン」には、『鬼警部』(70年)、『狂犬トロッキー』(71年)といった滝沢解原作による長編読み切りや連載作品を、「週刊ぼくらマガジン」には、『死神デース』(70年~71年)というシリーズ連載を各々執筆している。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿