文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

荘厳なる『旧約聖書』の世界観をパロディー化した 『B.C.アダム』

2021-12-21 19:06:57 | 第5章

1975年、71年よりホームグラウンドである「週刊少年マガジン」にカムバックした『天才バカボン』(第三期)が最終回を迎え、掲載誌をそのままに、新連載作品『B.C.アダム』(75年7号~26号)がスタートする。

遥か遠い永劫の昔、エデンの園には、神前結婚した妻であるおカミさんとともに、恐妻家の神さまが住んでいた。

天地を創造し、全智全能である神さまが、唯一頭の上がらない相手がおカミさんで、炊事洗濯もやらされれば、時には逆DVの餌食になるわで、神の威厳は何処へやら。完全におカミさんの尻に敷かれていた。

ある時、神さまは退屈しのぎにアダムという人間を作り、アダムの寂しさを埋めてやるため、イブというガールフレンドを作ってあげる。

常に欲求不満に駆られ、スケベ根性剥き出しの状態にある神さまは、アダムとイブのラブシーンでも覗いてやろうと、性的な欲望をまだ持ち得ていない二人に、食すとシケべ(スケベ)になるという実を食べさせるよう、ヘビに用命する。

だが、ヘビは、自らがシケべの身を食べ、色情狂になってしまい、アダムとイブには、禁断の果実を食べさせてしまう。

禁断の果実とは、人間の純真無垢さを失わせてしまう林檎の実だった。

そして、裸でいることに羞恥の心が芽生えたアダムとイブは、延び延びと暮らせることを生き物の特権として考えていた神さまの憤慨を招き、アダムには一生働き続ける生活の厳しさを、イブには子供を出産する産みの苦しみを、それぞれ苦役として強いられる。

荘厳なる『旧約聖書』(創世記)の物語にパロディー化を試み、新機軸を打ち立てた意欲的な『B.C.アダム』。

そもそもの着想は、どのような曲折を経て、アウトプットされるに至ったのか……。

赤塚は、『B.C.アダム』を回想し、次のような発言を残している。

「例えば、キリスト教の聖典だっていう『旧約聖書』読んでみなよ。7日間で世界ができたとか、土から人間が作られたとか、おかしいだろ。常識で考えたってあり得ないことがいっぱい出てくる。

~中略~

あれはさ、オレ思うんだけど、ただのギャグ本なんだよ。書いたほうは、誰も考えもしない奇想天外なホラ話をして読者を大笑いさせようとしたら、意外なことにみんな信じちゃったってことなんじゃないの?

聖書がギャグ本だってことを証明したくて、昔、少年マガジンに『B.C.アダム』ってギャグ・マンガを連載したことがあった。」

(『赤塚不二夫の「これでいいのだ‼」人生相談』集英社、95年)

ギャグの鬼・赤塚のフィルターを通せば、聖書でさえ、このようなラディカルな通俗本としての認識がなされてしまう。

やがて、神さまは、アダムとイブ以外にも様々な人間を作り、何故か、イヤミや目ん玉つながり、バカボン一家なども、エデンの園に住み着く。

彼らは、ヒエラルキーの介在しない人間社会で、原始共産的な生活を営んでゆき、それは一見、人類史の最終局面としての一つの理想郷を形成したかに見えたが、自らの欲望の赴くままに生きてゆく人間が増えてきたことから、神さまは、その乱れに乱れたエデンの園を一掃すべく、洪水を起こすことを決意する。

アダムとイブは、避難用の方舟で、二十世紀の現代へとタイムスリップするが、二人を追い掛けてやってきた神さまがそこで見たものは、未来に生きる現代人達の余りにも酷い堕落ぶりだった。

混濁の世の不条理を嘆いた神さまは、人類への更なる罰として、連載の終了を宣言するのだった。

連載回数、僅か二〇回にして、突然の最終回を迎え、「マガジン」編集部より、尻切れトンボのまま、急遽打ち切りを決定された感も否めない『B.C.アダム』であるが、その突然の終了は、同作連載中、日本テレビ系列で、テレビアニメ『元祖天才バカボン』の放映開始が決定したことに起因しているのではないかと思われる。

『B.C.アダム』終了後、同誌においても、『元祖天才バカボン』とのタイアップを狙った原作版『バカボン』の連載が再開されることになるが、その準備期間も考慮し、急遽、取り止めにせざるを得なかったというのが、『B.C.アダム』が短期連載のまま、ファイナルを迎えた真因ではないだろうか……。

『B.C.アダム』は、『バカボン』の世界観とは大きく懸隔する、不条理とメルヘンという不整合な概念が同等の妥当性を備えた作品であり、ユルさの中にも日常からの開放を湛えた、その幸福感漂う世界観に強い魅力を感じていた筆者は、まだまだそのカラーに浸っていたかっただけに、この急転直下の打ち切り劇に対し、胸中晴れない想いがある。

取り分け、本編終盤、現在社会に現れたアダムとイブに強引なやらせ取材を慣行し、テレビ局をクビになったディレクターと、熱烈な芸能ファンである目ん玉つながりとの文字通り軽薄を絵に描いたような痛々しいまでの鳥滸のやり取りは、爆笑必至で、その軽い軽侮を込めたニヒリスティックな落ちも含め、今も変わらぬテレビ業界の腐敗体質の縮図を然り気なく描破した、怜悧なカリカチュールになり得ている。


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1 コメント

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Unknown (MT)
2021-12-23 19:28:29
「バカボン」が終わって数週間、赤塚が自ら登場し、バカボンパパや、当時「少年マガジン」に連載中の「イヤハヤ南友」(永井豪)の南友などまで登場した予告編を経て、いざ読んでみても、「バカボン」時代のギャグには遠く及びません。

途中でバカボン一家や本官さんまで登場、そして現代が舞台と内容がメチャクチャでした。

そんな作品でも記憶に残る話はあり、BCヘビに騙されてアダムとイブが「キンタマ」しか言えない状態(「オオキイキンタマ」や「サンカクキンタマ」など)は傑作でした。こんな時期でもキンタマネタは下品な反面面白かったです。
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