文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

嫉妬? パワハラ? 永井豪作品を連載打ち切りに追い込んだその真意とは?

2023-05-16 14:01:32 | 論考


赤塚不二夫の死後、ネットの普及も手伝ってか、世の赤塚認識は、晩年における、酒に溺れ、漫画家としての活動が停滞したその醜態や、好色漢とも見られがちなその言動から想起されるように、「俗物」といった概念が強いのではないだろうか。

赤塚のモラルを越えた奔放な言動は、現在、コンプライアンスの観点から鑑みた場合、完全にアウトであると思われるケースが多々ある。

酔い潰れた「週刊少年キング」の小林鉦明記者を仕事場に近い妙正寺川に、武居、五十嵐両記者とともに放り込もうとしたエピソードなどは、赤塚伝説の一つとはいえ、それそのものが、暴行傷害、殺人未遂の大犯罪であるし、飲酒運転なども、ベンツを乗り回していた時代は恒常的に繰り返していたとも聞く。

また、漫画集団の忘年会では、AV女優を招いて本番ショーを披露し、写真週刊誌「FRIDAY」に取り上げられたことから、戸塚警察に呼び出しを喰らい、厳しいお叱りを受けるといった
愚行も露呈させるなど、インモラルな奇行を挙げれば枚挙に暇がないが、これらの馬鹿さ加減は、個人的にはまだ笑って許容出来る範囲内にはある(苦笑)。

だが、近年において、赤塚不二夫の俗物イメージを更に際立たせてやまないエピソードが、ネットを舞台に頻繁に拡散されており、多くのユーザーから、これはパワーハラスメントではないか、もしくは嫉妬ではないかと、厳しい批判の声を受けている。

いつもの赤塚に向けてありがちな、泡沫ユーザーらによる風説の流布や漫言放語ならば、筆者としてもスルーの対象となるのだが、今回取り上げるトピックは、そういった類いのものではなく、確かなソースを備えた、紛うことなき事実であるので、敢えてエントリーに加えた次第だ。

それは、1968年に、デビュー間もない永井豪の初連載作品に、赤塚不二夫が編集長に抗議し、ストップを掛けたと言われる『じん太郎三度笠』(「週刊少年マガジン」)打ち切り事件である。

このすったもんだは、『ナマちゃん』で赤塚のギャグ漫画家としての才能を発掘した「まんが王」編集長の壁村耐三が、永井にとって初連載作品となる『じん太郎三度笠』を読んだ赤塚が、永井に「赤塚不二夫先生がアドバイスをくれるから、一緒に来ないか」と誘ったことに端を発する。

デビュー間もない当時の永井にとって、ギャグ漫画の第一人者で赤塚は雲の上の存在。喜び勇んで壁村に同行したら、出会い頭より赤塚から「どうしてあんなマンガを描くんだ!」と、開口一番、怒鳴られたという。

怒り心頭の赤塚は、続けて「こういう残酷なマンガを載せちゃいかんって、編集部にも怒鳴り込んだんだ」と息巻いたそうな。

事実、『じん太郎三度笠』は、読者からの評判も上々で、編集部側としても、その後も連載続行の意向を固めていたにも拘わらず、第5回目の掲載をもって打ち切られてしまう。

漫画ファン及び世間一般の想いとしては、今となっては箸にも棒にも掛からない赤塚不二夫程度の存在が、漫画界の至宝ともいうべき永井豪の才能を摘もうとするなんて言語道断、不快千万であるというのが大半であろうが、個人的には、打ち切りを決断した「週刊少年マガジン」編集長の内田勝にも、その非があると思えてならない。

つまり、内田はこの時、勝ち馬に乗ってやまないそのご都合主義的な性格から察するに、『バカボン』の連載開始により、「マガジン」の部数増大に大きく貢献した赤塚に対し、日和っていたと思えて仕方ないのだ。

まだ、永井は『ハレンチ学園』をヒットさせる前で、内田にしたら、海のものとも山のものとも付かない存在だったであろうことは、安易に想像が付く。

その後、有名な『バカボン』の「サンデー」移籍事件によって、赤塚から酷くプライドを踏み躙られた内田は、急遽掌を返し、赤塚のその作品は勿論のこと、全人格を事あるごとに否定、批判を重ねるようになる。

無論、内田に『じん太郎』の打ち切りを要求したのは赤塚だが、日和見主義の内田が赤塚と蜜月関係を築いていたという悪しきタイミングも重なった結果としか言い様がない。

『じん太郎三度笠』は、主人公のじん太郎がヤクザの生首に生け花を挿したり、興奮のあまり、人間を切り刻んだり、殺したりと徹底したブラックユーモアに貫かれし作品だ。

ただ、永井としては、可愛い絵柄で描かれた作品であるため、読み手にそこまでの残酷性は感じさせないと思っていただけあって、赤塚の主張は理不尽極まりないものとして写ったようだ。

何故なら、同じく「マガジン」で好評連載中であったさいとうたかをの時代劇画『無用ノ介』は、更に血飛沫飛び交うスプラッター描写が濃厚であり、どうしてストーリー劇画では残酷描写が問題なく、ギャグ漫画では否定されるのか、永井にしたら、その理屈が全く理解出来なかったからだ。

その時、永井はこう思ったという。

「赤塚先生がダメだというのは、自分が描きたくても描けないものをアッサリ描かれたからだな。そう思った僕は、よしやってやろうと、叱られて自分の進むべき道を再確認したのだ。」(「第19回 少年マンガのタブー」/「永井豪、初の自伝的エッセイ 豪氏力研究所」「Web現代」、02年)

つまり、永井は、赤塚の『じん太郎』に対する打ち切りの強行は、自身の才能へのあからさまなジェラシーであると判断したのだ。

永井が語る再確認とは、タブーへの挑戦を意味しており、この後間もなく、「少年ジャンプ」創刊号にて、女生徒へのセクハラやスカートめくりを大々的に扱い、後に社会問題化する『ハレンチ学園』を発表。連載扱いとなり、大ヒット作となる。

永井の逆境をバネとし、漫画界のエポックメイキングになり得る大傑作を発表したその功績は、称賛に値するものだが、永井が赤塚から受けた仕打ちに対し、嫉妬と感じたその発言には、筆者自身、永井と赤塚の間で埋めることの出来ない、当時の流行語でいうところの「世代の断絶」を感じずにはいられない。

その世代の断絶とは、則ち、戦後生まれであり、戦後民主主義の時代の秩序と安寧の社会の中で育った永井と、戦時中、満州に育ち、後に「人間はイザという時には、醜い動物、卑しい虫のような存在になる」と言い放った赤塚との間に横たわる死に対する意識の違いである。

永井は、戦後民主主義の恩恵を受けて育った最初の世代であったが、その実、理念と運動と制度との三位一体であるべき筈の民主主義が、その教育も含め、民意とは乖離した虚妄と欺瞞に満ちた社会構造にあるという異質感をブラックジョークに包んでカリカチュアライズしたのではなかろうか。

赤塚が嫌悪した『じん太郎三度笠』におけるスプラッター描写もまた、後にスパークする永井の作家性の萌芽として、個人的には見て取れる。

事実、その作風は『ハレンチ学園』に登場するヒゲゴジラら悪辣でスケベな教師どもが、山岸や十兵衛らに徹底的に懲らしめられたり、後に第一部の完結編となる「ハレンチ大戦争』での大日本教育センターとハレンチ学園との大バトル描写等においても確認出来よう

他方、満州時代、凄惨な殺戮や横たわる死体を嫌というほど目の当たりにしてきた赤塚にとって、また戦後、母親の後に付いて命からがら日本に引き揚げて来た際、実の妹をジフテリアで失った赤塚にとって、永井が描くハード&ラウドなスプラッターギャグは、人間の尊厳を損なう卑俗な光景に映ったのかも知れない。

ましてや、赤塚自身がパイオニアとなって開拓してきたナンセンス・ギャグ漫画の世界である。

当事者である赤塚にしてみたら、伊達や自惚れではなく、我こそがギャグ漫画界の総元締めだという意識が強く働いたに違いない。

その結果、己のフィールドで、このような漫画が描かれることは我慢ならず、『じん太郎』の打ち切りを「マガジン」編集部に要求したというのが、筆者の推測であり、見解である。

無論、そうであったとしても、それは、当時の赤塚の漫画家としての優位的な立場を利用した職権の発動に過ぎず、筆者としても弁護の余地はない。

因みに、この後、永井の談によれば、「赤塚賞の審査員をした際、赤塚先生がこっそり謝りに来た」とのことで、赤塚にしても、永井に対する暴挙は、大人気なかったという反省の面もあったのだろう

また、時を経た1995年、赤塚は永井作品に対し、こう評価している。

「セリフが簡潔でうまい、のも豪チャン漫画の特徴だ。百ページの長編描いても流動感というかスピード感というか、すっーと読ませてしまう。 〜中略〜 SFものも怪奇ものもギャグも、僕がみんな好きなのは、そこに「永井豪調が貫かれているからなのだ。漫画が本当に好きで漫画家になった“最後”の漫画少年なのだ。」(「“最後の漫画少年”なのだ」/『バカボン線友録! 赤塚不二夫の戦後漫画50年史』所収、学習研究社)

一方の永井は、絶頂期にあった赤塚に対し、こう評価している。

「ナンセンスに関しては八方破れな大変なセンスの持ち主だと思う。ぼくもギャグでデビューしたから、赤塚さんを目標にしていました。今では二人が違ったものになったから楽しみに見ている。傍目から見ると、形式にとらわれないで、リラックスしてやっている感じがいい。」(「マルチ・イメージ 赤塚不二夫④」/『別冊まんがNo.1 赤塚不二夫大年鑑』所収、日本社、73年)

さて、ここで一つの疑問が生じてくる。

「週刊ぼくらマガジン」「週刊少年マガジン」と講談社系漫画誌にカムバックした第三期連載の『天才バカボン』や『レッツラゴン』の連載開始となった1971年以降、赤塚ワールドにおける尖鋭性は更に拍車が掛かり、作中、登場人物が死に至らしめられるギャグも頻繁に描かれるようになったことだ。

『じん太郎』批判をした赤塚がその後、そのスプラッター描写を自家薬籠中のものとしてしまっているこの作風の変化に対し、懐かし漫画マニアであるSNSユーザーらも疑問を投げ掛けていた。

一体何故……!?

筆者は、この作風の変化に関し、最愛の母・リヨの前年の死が大きく影響しているのではないかと推測する。

ろくに仕事もなかったトキワ荘時代、上京して来たリヨにべったり甘える姿を見られ、仲間達から「マザコンの極致」と笑われていた赤塚である。

終戦後、ソビエト連邦にて軍事裁判に掛けられ、長らくシベリアでの抑留生活を強いられていた父・藤七に代わって、幼い赤塚らを女手一つで守り抜き、また育てて上げたリヨは、赤塚にとって掛け替えのない存在だった。

つまりは、そんなリヨの逝去をもって、赤塚不二夫にとっての戦中は終わったのではないかということだ。

勿論、『レッツラゴン』の開始直前に訪れたニューヨークでの短期遊学とその時に受けたカルチャーショック、そして「MAD」編集部への訪問がその作風の変化に色濃く影響を及ぼしたことは、語るに及ばない。

さて、永井豪と赤塚不二夫、どちらの方が漫画家としてのステージが上かと問われれば、『デビルマン』『マジンガーZ』をはじめとする世界的な評価も含め、永井豪に軍配が上がることは必至であると、赤塚不二夫ディレッタントを自認している筆者ですら、そのように理解している。

ただ、その後、書評家であり、プロインタビュアーである吉田豪との対談で、永井は、こうした諸々の影響から、暫くはギャグ漫画を続けてみようという意思を固めたと語る中、「ついでに赤塚先生を追い詰めてやろうと思って」と結んだが、もし、永井自身、自らのギャグ漫画が赤塚を漫画家として追い詰めたとの認識を抱いているならば、そこには、モヤモヤとした違和感を拭い切れず、その件に関しても、この場にて個人的な見解を申し立てておきたい。

永井もまた、『ハレンチ学園』を皮切りに『あばしり一家』(「少年チャンピオン」、69年〜73年)、『キッカイくん』(「週刊少年マガジン」、69年〜70年)『ガクエン退屈男』(「週刊ぼくらマガジン」、70年)『オモライくん』(「週刊少年マガジン」、72年)『ケダマン』(「週刊少年サンデー」、72年)『おいら女蛮』(「週刊少年サンデー」、74年〜75年)『イヤハヤ南友』(「週刊少年マガジン」、74年〜75年)等々、夥しい数のギャグの傑作、怪作群を連載するが、永井ギャグが少年漫画誌の誌面を賑わせていた時代は、赤塚ギャグの全盛期、円熟期と重なり、これらの永井作品が赤塚ギャグを漫画界より駆逐したとは、到底考えられないのだ。

実際、赤塚が長らく主力作家として執筆してきた「サンデー」「マガジン」「キング」といった少年週刊漫画誌から退場するのは、1978年のことであり、代表作である『天才バカボン』もまた、同年12月号をもって「月刊少年マガジン」での連載を終了している。  

戦後ギャグ漫画の歴史を時系列で整理するならば、赤塚がその執筆活動において、縮小傾向を迎えるに至った時期は、1974年に「週刊少年チャンピオン」で連載開始され、爆発的人気を博した山上たつひこの『がきデカ』の影響下にあって、その後続々と登場した秋本治、小林よしのり、鴨川つばめ、江口寿史といったギャグ漫画家達の台頭と時を同じくしている。

彼らに第一線を譲るかたちで、赤塚ギャグは少年漫画の世界から淘汰されたと言えるだろう。

『がきデカ』のヒットと山上の台頭に後続した新たな才能の登場により、ギャグ漫画のメインストリームが、赤塚ワールドから大きく乖離し、読者が漫画に求める笑いの傾向がより細く枝分かれしていったのだ。

彼らは、赤塚や永井のようにプロダクション・システムによって作品を大量生産することなく、少数スタッフにより、一本の連載を忠実に守ってゆく創作方法を採っていた。

その結果、仕上がりにバラつきのない、及第点を越える作品群を、1970年代後半において、高頻度で提供することに成功した。

赤塚が漫画界の第一線、則ち少年週刊誌から離脱した最大の要因は、永井豪の活躍ではなく、このように『がきデカ』ショックによるギャグ漫画の大きな変革にあるのだ。

余談だが、ギャグ漫画界における山上たつひこの影響力は、赤塚不二夫以降、最も甚大で、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』でデビューする秋本治が、暫くの間、山上を捩ったペンネーム「山止たつひこ」としていたことは有名だが、その主人公・両津勘吉の原型もまた、同じく山上の代表作である『喜劇新思想体系』に登場する角刈ヘアに腕捲くり姿のゴリラ顔した制服警官、玉無啓三巡査にあると思えてならない。

そのくらい赤塚以降のギャグ漫画家で、ニューエイジたる山上のセンスは強力な磁場を放っていたのだ。

因みに、1978年は、『Dr.スランプ』の鳥山明と『うる星やつら』の高橋留美子がデビューを果たした年でもある。

永井豪も、同年「週刊少年サンデー」に、映画「スター・ウォーズ」にインスパイアされたとおぼしき『スペオペ宙学』、「月刊少年ジャンプ」に、ザーサイ星雲のピータン星からやって来たスーパーマンの活躍をドタバタテイストたっぷりに描いた『超マン』(『キン肉マン』に登場する人気超人・ラーメンマンのルーツか?)を連載するが、いずれも大きな人気を得るまでには至らなかった。

赤塚とは違い、70年代末期以降においても、メジャー少年誌での連載を持ち得ていた永井だったが、その永井ギャグですら、最早ヒットに恵まれる時代ではなくなってきていたのだ。

しかし、永井はその後も、サイキック・アクション大作『凄ノ王』で第4回講談社漫画賞を受賞(80年)。近年では、その全作品に対し、第47回日本漫画家協会文部科学大臣賞(18年)や、フランス政府から芸術文化勲章「シュバリエ」を授与するなど(19年)、OVA化や映画化といったメディアミックスも含め、現在に至るまで意気軒昂な活躍を示していることは先刻承知の通りである。

今年(2023年)に入ってからは、体調不良も危ぶまれている永井だが、赤塚が言うところの「最後の漫画少年」として、健康に留意しつつ、世界に散らばる無数のファンのためにも、益々の活躍を祈念するばかりだ。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿