生と死が紙一重の領域でせめぎ合う、通常ならば、タブー視されて然るべきこれらの対立軸は、生に対する享楽と死に向かう超越志向が同一の実相を持った概念であるという、赤塚独自の深淵なる死生観が、ナンセンスな思考と観点によって、笑いへと転化されたものだ。
赤塚は、幼少時代に生まれ育った満州で、多くの死を現実として直視してゆく中、人間はいざという時、醜い動物、賤しい虫のような存在になることを身をもって体感してきたと語っていたが、そうした幼心に拓いた、悟りの境地へと至るニヒリズムが、その死生観の背後に横たわっているように思えてならない。
漫画家の森田拳次は、人生の重苦しさや身を削るような辛ささえも、全て肯定する赤塚の度量の大きさは、この満州で過ごした幼少期に育まれたものであると、拙著『赤塚不二夫大先生を読む 本気ふざけ的解釈 Book1』のインタビューで述べていたが、その強靭なメンタルは、死が生と表裏一体を為す、人間にとって不可避の現実であるということを、自身の分身たるパパをトリックスターとし、敢えてブラックな笑いに挿げ替えたこれらのエピソードからも、確実に見て取ることが出来よう。
死を現実に起こり得る現象として捉えているパパにとって、死ぬこともまた、生きることと同様、問題解決へと導く選択肢の一つだ。
迷いや苦悩を解決する糸口として、死が最良の策であった場合、パパは躊躇することなく、それを有効な手立てとして用いるのである。
そのため、パパの残忍な凶行も、自己快楽の追求を動機とした悪魔性に満ちたものでありながらも、ターゲットが抱く難問奇問を一気に解きほぐしてゆく、一種の啓示としての有り様を示しているかに見えるのだ。
やがて、パパの犯罪行為は、作風が先鋭性を帯びてくるに従い、更に壮絶なスケールを伴うカタストロフを引き起こしてゆく。
*
「ジンクス人間の恐怖なのだ」(「月刊少年マガジン」75年6月号)では、町で一番の粗暴な男が、ジンクスに囚われはじめ、暗示に掛かりやすくなると知るやいなや、これまでの意趣返しとばかりに、飛行機に激突するよう心理誘導を企て、飛行中の旅客機もろとも大爆破させる。
また、「衝撃のSF問題作なのだ‼」(76年18号)では、実は地球の主であるバカ大の後輩の口を塞ぎ、窒息させ、遂には、地球を爆発させてしまったりと、無差別テロなどという言葉ではカテゴライズ出来ないほど、より人命が軽視され、物質化されるのである。
ブラックユーモアという生易しい概念では括れない、惨憺たる現実的脅威を拡大滑稽化したこれらの挿話は、エゴイスティックな激情と衝動を盤石に据えた、パパの異常心理を存在の根として、実りを得た好例と言えよう。
そして、生命の倫理を超越した独自の死生観の発露にして、読む者を心底寒からしめるこうした倒錯性こそが、『バカボン』ワールド最大のナンセンスであり、常軌を逸する特異な世界観を支えるバックボーンでもあるのだ。