文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

赤塚独自の死生観 悟りの境地へと至るニヒリズム

2021-04-30 19:47:58 | 第5章

生と死が紙一重の領域でせめぎ合う、通常ならば、タブー視されて然るべきこれらの対立軸は、生に対する享楽と死に向かう超越志向が同一の実相を持った概念であるという、赤塚独自の深淵なる死生観が、ナンセンスな思考と観点によって、笑いへと転化されたものだ。

赤塚は、幼少時代に生まれ育った満州で、多くの死を現実として直視してゆく中、人間はいざという時、醜い動物、賤しい虫のような存在になることを身をもって体感してきたと語っていたが、そうした幼心に拓いた、悟りの境地へと至るニヒリズムが、その死生観の背後に横たわっているように思えてならない。

漫画家の森田拳次は、人生の重苦しさや身を削るような辛ささえも、全て肯定する赤塚の度量の大きさは、この満州で過ごした幼少期に育まれたものであると、拙著『赤塚不二夫大先生を読む 本気ふざけ的解釈 Book1』のインタビューで述べていたが、その強靭なメンタルは、死が生と表裏一体を為す、人間にとって不可避の現実であるということを、自身の分身たるパパをトリックスターとし、敢えてブラックな笑いに挿げ替えたこれらのエピソードからも、確実に見て取ることが出来よう。

死を現実に起こり得る現象として捉えているパパにとって、死ぬこともまた、生きることと同様、問題解決へと導く選択肢の一つだ。

迷いや苦悩を解決する糸口として、死が最良の策であった場合、パパは躊躇することなく、それを有効な手立てとして用いるのである。

そのため、パパの残忍な凶行も、自己快楽の追求を動機とした悪魔性に満ちたものでありながらも、ターゲットが抱く難問奇問を一気に解きほぐしてゆく、一種の啓示としての有り様を示しているかに見えるのだ。

やがて、パパの犯罪行為は、作風が先鋭性を帯びてくるに従い、更に壮絶なスケールを伴うカタストロフを引き起こしてゆく。

「ジンクス人間の恐怖なのだ」(「月刊少年マガジン」75年6月号)では、町で一番の粗暴な男が、ジンクスに囚われはじめ、暗示に掛かりやすくなると知るやいなや、これまでの意趣返しとばかりに、飛行機に激突するよう心理誘導を企て、飛行中の旅客機もろとも大爆破させる。

また、「衝撃のSF問題作なのだ‼」(76年18号)では、実は地球の主であるバカ大の後輩の口を塞ぎ、窒息させ、遂には、地球を爆発させてしまったりと、無差別テロなどという言葉ではカテゴライズ出来ないほど、より人命が軽視され、物質化されるのである。

ブラックユーモアという生易しい概念では括れない、惨憺たる現実的脅威を拡大滑稽化したこれらの挿話は、エゴイスティックな激情と衝動を盤石に据えた、パパの異常心理を存在の根として、実りを得た好例と言えよう。

そして、生命の倫理を超越した独自の死生観の発露にして、読む者を心底寒からしめるこうした倒錯性こそが、『バカボン』ワールド最大のナンセンスであり、常軌を逸する特異な世界観を支えるバックボーンでもあるのだ。


死に彩られたバカボンのパパの日常

2021-04-30 15:04:56 | 第5章

連載開始当初は、パパの周囲を困惑させる非常識な振る舞いも、天衣無縫な心情の表れとして描かれていたが、話数を重ねるに連れ、その作為なき無軌道は、悪意に染まったものへと変容を遂げてゆく。

つまり、パパの行為そのものが、天然ボケや馬鹿さ加減といった概念を通り越し、市井の人々を混乱の渦へと巻き込む、愉快犯、確信犯的な悪業を湛えたものへと取って変わっていったのだ。

パパの過激化してゆく暴走行為の中で、読む者に最も怖気を投げ掛けるであろう行状は殺人であり、一見恵比寿顔で、善人そうに見えるパパだが、劇中実に多くの人間を死に至らしめている。

タバコをやめたいと志願するバカ大の後輩・モク山に、これを吸えば、必ずタバコをやめられると、タバコの代わりに、点火したダイナマイトをくわえさせ、爆死させたり(「モク山さんの禁煙なのだ」/71年35号)、損をするのが大嫌いと嘯く後輩を医者に連れて行き、指、左目、鼻、歯、胃を削ぎ落とさせ、最後にダルマにしてしまったり(「ただでもうける大もうけなのだ」/72年46号)と、手口は様々で、そのメンタリティーは、潜在意識の段階において、常にサイコパス顔負けの心の闇が不合理な悪意と共鳴し合う、徹底したアンチヒューマニズムに導かれし傾向にあるのだ。

にも拘わらず、パパが犯してきた犯罪の数々が法により裁かれることは、全くもってなく、その後もパパは殺人を主とする触法行為を繰り返しては、堂々と日常生活を送っている。

そもそも、パパには、それらの行為に対する贖罪意識もなければ、無論、自己処罰を促す倫理性など微塵もない。

何しろ「モク山さんの禁煙なのだ」では、パパがモク山さんを爆殺させた後、「今日は友だちにタバコをやめさせてやったのだ」と、嬉々としてママに報告しているのだ。

まるで、殺人など、日常行為の一環でしかないと言わんばかりの軽薄ぶりだ。

最初の殺人が行われたのは、「バカは死んでもなおらない」(69年9号)というエピソードで、この時のパパはあろうことか、一度に五人もの人間を連続して殺害しているのだ。

ある日パパは、不景気の余り、「死にたい」という言葉を口癖とするショボくれた中年男に遭遇する。

パパは、男に同情し、その強い希死念慮を叶えてあげるべく、ビルの工事現場から大石を落下させ、死なせようとするが、石は男ではなく、制止に来た工事関係者の頭上に命中し、全く関係のない人物が命を落としてしまう。

次にパパは、タクシーに乗り込み、運転手に「あの人をひいてあげろっ」と伝え、ハンドルを握るが、それを拒否する運転手と揉み合いの末、タクシーは壁に激突。運転手だけ事故死する。

二度も別の人間が死に至り、項垂れるパパのところに、今度は目ん玉つながりが現れる。

パパは男を射殺しようと、目ん玉つながりから拳銃を借り出そうとするが、この時も揉み合いとなり、銃が暴発。銃弾が胸に当たり、目ん玉つながりの方が死んでしまう。

立て続けに別人を殺してしまったパパは、今度こそはと毒薬を調達し、再度男の殺害を企てるが、泥棒を追い掛け、喉がカラカラに渇いた警察官が、パパの制止を無視し、用意した毒入りジュースを飲み干したため死に至る。

遂に、万策尽き果てたパパは、男を原っぱに呼び出し、土管の中に閉じ込める。

土管の上に大きな石を置き、男を閉じ込めることに成功するが、その男は三日後、命からがら無事脱出する。

だが、男は三日間絶食していた反動から、レストランでカツ丼三つ、天丼五つ、カレーライス八つを平らげるという無茶をやらかし、肝硬変による急死を遂げるのであった。

当然、パパはそんな結末を知る由もない。

これらの殺人行為が、まだ悪意のない、自殺幇助の延長にあったものとはいえ、多くの人々の人生がパパの無分別によって、文字通り破壊されてゆく様相には、ショッキングな戦慄と人間の不条理な巡り合わせの双方を覚えずにはいられない。


暴走する自虐的退廃 破壊蕩尽の極限を映し出す「勝木くんのライバル部なのだ」

2021-04-28 23:26:08 | 第5章

ライバル部の勝木くんは、パパの永遠のライバルとして登場(「勝木くんのライバル部なのだ」/「別冊少年マガジン」75年1月号)。パパにはどんな些細なことでも負けたくない彼は、パパと寿司屋に行けば、寿司のワサビの量を競い合い、家が火事になれば、消火に来た消防車の台数を自慢し、嫉妬したパパに自宅を放火までさせてしまう……。

パパが腕を怪我すれぱ、勝木は自らの腕を切り落とし、勝木が交通事故に遭えば、今度はパパが負けじとトラックに轢き殺されようとする。

このままだと、どちらかが死んでしまうと恐れた勝木は、パパから離れようと、一人南洋の孤島に旅立つが、既にその島には、パパが待ち構えていた。

何もない孤島で、二人はお互いのツリーハウスが建てられているヤシの木に小便を引っ掛けながら、木が伸びるのをいつまでも競い合うのであった……。

パパと勝木の対立の構図が一貫してチャイルディシュな優越と虚栄に貫かれている点が何とも可笑しく、不均衡な誇張や取り違えの対置が、暴走する自虐的退廃と鮮やかに連動し、無機的な観念を媒介とする破壊蕩尽の極限を映し出している。

他にも、「小さな転覆がやがて大きな転覆を起こす」という、毛沢東語録を模倣したスローガンを旗印に、様々な物を逆さまにして国家転覆を図るものの、何度転覆させても、起き上がるダルマに負け、革命が挫折してしまうレジスタンスの毛原(「わしらの政府の転覆なのだ」/「別冊少年マガジン」75年3月号)、自ら見た夢を実体化させるという驚異的な成果をもたらすものの、結局は無意味な連鎖体系へと埋没してしまう夢学部のアラジン(「夢人間アラジンくん」/「月刊少年マガジン」76年9月号)等々、非現実の想像界をも突き抜けるキャラクターのオンパレードで、エスタブリッシュメントのコモンセンスに対する挑発は、その対決軸において、更に展開、押し広げられ、繰り返されてゆく。

バカ大関係者をフィーチャーしたエピソードでは、人間が抱え込む劣等的悲哀や人間社会における負の縮図をテーゼに取り込み、自我という人間の奥底に潜む不条理な感情を解放した幾つものギャグが画稿狭しと弾き出されており、これこそが、それらの物語の特色でもある。

赤塚の盟友でもあった落語家の立川談志は、「落語は人間の業の肯定である」といった見解を常々公言していたが、権威を嘲笑しつつも、人間の愚劣さや脆弱さを全て肯定するそのイリュージョンは、パパとバカ大関係者との対立の構図とも照応しているように思えてならない。

つまり、赤塚もまた、バカ田大学という非理知的、倒錯的な概念枠組みを通し、学歴至上社会を嘲弄しつつも、人間の愚かさを皮肉り、戒め、時として自虐を交えながら、 マイノリティーそのものへの理解と共鳴を示していたのであろう。

これらのキャラクターの共通項といえば、異世界のロジックを磐石とした狂気の顕在性にある。

そして、その内面に深く沈潜するシュールや滑稽といった概念とは異質な形而上学的観念が、作品の世界観の表層を支配する正気の視点と緊密な平衡を読者の脳内に植え付け、新たな思考類型の構築を可能ならしめるのだ。


時代遅れのカッコ悪い見本とは!? 「4年のズレおくれなのだ」

2021-04-27 13:24:48 | 第5章

「4年のズレおくれなのだ」(73年29号)に登場する、時代感覚が人一倍錆び付いている後輩のケチ田は、四年前(1969年~70年)に起きた出来事をオンタイム(1973年)のニュースとして捉え、その情報通ぶりを自慢する、アナクロニズムなる概念を体現した最たる人物だ。

何しろ、このケチ田くん、左翼派学生達による革命闘争が完全なる終焉を迎えた73年の段階で、よど号が赤軍派学生にハイジャックされたことに衝撃を受け、一々パパに報告に来る、甚だしいまでの時代錯誤ぶりなのだ。

その後、パパから皆川おさむの『黒ネコのタンゴ』のドーナツ盤を三十円で売り付けられ、(ケチ田にとっての)入手困難な最新レコードを安値で手に入れたことに歓喜するケチ田は、最近凄い歌を覚えたと、辺見マリの70年のヒット曲『経験』を得意気に歌ってみせ、パパを大爆笑させる。

因みに、ケチ田が口ずさむ愛唱歌も、三波春夫の「EXPO'70」のテーマソング『世界の国からこんにちは』という、見事な化石っぷりだ。

『黒ネコのタンゴ』の他にも、一年分(四年前)の古新聞をパパから譲り受け、そこに報じられているアポロ11のニール・アームストロング船長による人類初の月面着陸や、巨人軍投手・金田正一の電撃引退、楯の会率いる三島由紀夫の市ヶ谷自衛隊駐屯地における割腹自殺等に強いショックを受ける。

また、話題が愛読書である「少年マガジン」に及ぶと、既に連載が終了している『あしたのジョー』や『巨人の星』を現在連載中の名タイトルとして絶賛し、パパを呆れさせてしまう始末だ。

だが、そんな時代遅れの流行に振り回されるミーハー生活も束の間、ふとした切っ掛けで、ケチ田は、自分の時間観念に四年ものズレがあったことを知り驚愕する。

しかし、そこは情報収集能力に長けたケチ田だけあって、アイドルの浅田美代子やロックバンドのキャロルに夢中になり、たちまち現在の流行の最先端に追い付いてしまうのであった。

流行を無節操なまでに追い、日々目まぐるしく塗り替えられてゆく最新情報をキャッチすることに至上の価値を見出だすうちに、思考が麻痺し、物事の本質を見失ってしまうという鋭敏なアイロニーが、本作の根幹に注がれている。

そしてそこには、流行に対する敏感さを誇ること自体、時代遅れの格好悪い見本だという、赤塚らしい箴言も込められているのだ。


恍惚と不合理の背反的二重性 「日本人間改造論」

2021-04-26 10:42:27 | 第5章

さて、奇行愚行を重ねながらも、その求道的な精神により、人間の叡智をも超越する境地へと辿り着いた天才的馬鹿な奇人変人が、魑魅魍魎の如く跋扈するバカ田大学であるが、ここで、数あるバカ大関係者の中でも、個人的に多大なインパクトを受けた、超エキセントリックな人物達を幾人か紹介したい。

田中角栄が、自民党総裁選挙直前に発表した政策綱領「日本列島改造論」を捩ったサブタイトルも秀逸な「日本人間改造論なのだ」(72年39号)は、色情狂の彼女と付き合うことになった、自称・ハンサムガイの後輩のスキ男が、もしかしたら彼女は、自分の顔だけを愛しているのではないかと疑心暗鬼に陥ったため、妄想に歯止めが効かなくなり、遂には、自らの身を無限跳躍のパラノイアへと沈めてしまう、戦慄のブラックコメディーである。

彼女の自分への思慕の念は、果たして真実の愛なのだろうか……。

そんな贅沢な悩みに懊悩するスキ男にパパは、顔を不細工に整形し、彼女の愛は本物か確かめろと、驚くべき策を提案する。

スキ男はパパの言う通り、次々と顔相を変形させてゆく。

グロテスクな面構えとなったスキ男に対し、彼女は「顔なんか問題じゃないわ‼ 人間は心よ‼」と、変わらぬ愛を伝えるが、それでも、スキ男は納得が出来ない。

スキ男は、パパの制止も無視し、バケモノ同然の姿へと変貌を遂げる。

だが、そんな姿になっても、彼女のスキ男への想いは揺らぐことはなかった。

それでも、彼女の愛が信じられないスキ男は、遂に自らを羽の生えた怪獣へと変身させてしまう。

そして、「ここまでくれば もうすきじゃないだろう?」と言うスキ男に、彼女は「あたりまえよ‼」「ほんとはあなたが目をたてにしたときからきらいになったのよ‼」と残酷なまでな本心を吐露するのだ。

彼女はスキ男が最初に目を縦に整形した時点で、既に嫌いになっていたが、スキ男が何処まで不気味にエスカレートするか、ただ見てみたかっただけだという。

怒り狂ったスキ男は、そのまま彼女を連れ去り、南の小さな無人島へと飛び立つ。

「まだぼくをすきかい?」

「もうしかたないからすきよ」

このように、スキ男の真実を求めるが故の没入状態には、背反的二重性とも例えるべき恍惚と不合理性がその根源に根を下ろし、読者の純粋理性をにわかに揺るがしてゆく超越者としての凄みさえ感じさせる。

ここで見逃せないのは、スキ男のような倒錯性や唐突性を纏ったキャラクターとの対決軸において、パパが非現実の世界にどっぷり浸かるのではなく、一歩リアリスト的立場に近付き、非日常と日常を繋ぐ架け橋として存在している点だ。

この時パパは、対峙するバカ大の後輩達と一緒になって混沌の彼方にトリップしたり、あるいは、彼らを翻弄する賢人ぶりを見せ付けたりしながら、読者を日常を超えたパラレル世界へと連れ込むガイド役を務めている。

パパのこのようなリアリストとしての視点は、時として、彼らにとって残酷な裏切り行為となって、その異界の論理を一気に根底から覆してゆく。

そして、その横糸として織り込まれたパパのデモニッシュな感性は、二重、三重のどんでん返しと相俟って、既知なるアプシュルドに輪を掛けた錯乱を投げ掛けるわけだが、それはまた別項にて詳しく論述したい。