連載開始当初は、パパの周囲を困惑させる非常識な振る舞いも、天衣無縫な心情の表れとして描かれていたが、話数を重ねるに連れ、その作為なき無軌道は、悪意に染まったものへと変容を遂げてゆく。
つまり、パパの行為そのものが、天然ボケや馬鹿さ加減といった概念を通り越し、市井の人々を混乱の渦へと巻き込む、愉快犯、確信犯的な悪業を湛えたものへと取って変わっていったのだ。
パパの過激化してゆく暴走行為の中で、読む者に最も怖気を投げ掛けるであろう行状は殺人であり、一見恵比寿顔で、善人そうに見えるパパだが、劇中実に多くの人間を死に至らしめている。
タバコをやめたいと志願するバカ大の後輩・モク山に、これを吸えば、必ずタバコをやめられると、タバコの代わりに、点火したダイナマイトをくわえさせ、爆死させたり(「モク山さんの禁煙なのだ」/71年35号)、損をするのが大嫌いと嘯く後輩を医者に連れて行き、指、左目、鼻、歯、胃を削ぎ落とさせ、最後にダルマにしてしまったり(「ただでもうける大もうけなのだ」/72年46号)と、手口は様々で、そのメンタリティーは、潜在意識の段階において、常にサイコパス顔負けの心の闇が不合理な悪意と共鳴し合う、徹底したアンチヒューマニズムに導かれし傾向にあるのだ。
にも拘わらず、パパが犯してきた犯罪の数々が法により裁かれることは、全くもってなく、その後もパパは殺人を主とする触法行為を繰り返しては、堂々と日常生活を送っている。
そもそも、パパには、それらの行為に対する贖罪意識もなければ、無論、自己処罰を促す倫理性など微塵もない。
何しろ「モク山さんの禁煙なのだ」では、パパがモク山さんを爆殺させた後、「今日は友だちにタバコをやめさせてやったのだ」と、嬉々としてママに報告しているのだ。
まるで、殺人など、日常行為の一環でしかないと言わんばかりの軽薄ぶりだ。
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最初の殺人が行われたのは、「バカは死んでもなおらない」(69年9号)というエピソードで、この時のパパはあろうことか、一度に五人もの人間を連続して殺害しているのだ。
ある日パパは、不景気の余り、「死にたい」という言葉を口癖とするショボくれた中年男に遭遇する。
パパは、男に同情し、その強い希死念慮を叶えてあげるべく、ビルの工事現場から大石を落下させ、死なせようとするが、石は男ではなく、制止に来た工事関係者の頭上に命中し、全く関係のない人物が命を落としてしまう。
次にパパは、タクシーに乗り込み、運転手に「あの人をひいてあげろっ」と伝え、ハンドルを握るが、それを拒否する運転手と揉み合いの末、タクシーは壁に激突。運転手だけ事故死する。
二度も別の人間が死に至り、項垂れるパパのところに、今度は目ん玉つながりが現れる。
パパは男を射殺しようと、目ん玉つながりから拳銃を借り出そうとするが、この時も揉み合いとなり、銃が暴発。銃弾が胸に当たり、目ん玉つながりの方が死んでしまう。
立て続けに別人を殺してしまったパパは、今度こそはと毒薬を調達し、再度男の殺害を企てるが、泥棒を追い掛け、喉がカラカラに渇いた警察官が、パパの制止を無視し、用意した毒入りジュースを飲み干したため死に至る。
遂に、万策尽き果てたパパは、男を原っぱに呼び出し、土管の中に閉じ込める。
土管の上に大きな石を置き、男を閉じ込めることに成功するが、その男は三日後、命からがら無事脱出する。
だが、男は三日間絶食していた反動から、レストランでカツ丼三つ、天丼五つ、カレーライス八つを平らげるという無茶をやらかし、肝硬変による急死を遂げるのであった。
当然、パパはそんな結末を知る由もない。
これらの殺人行為が、まだ悪意のない、自殺幇助の延長にあったものとはいえ、多くの人々の人生がパパの無分別によって、文字通り破壊されてゆく様相には、ショッキングな戦慄と人間の不条理な巡り合わせの双方を覚えずにはいられない。
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