文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

ニャロメ誕生までの奇跡

2020-06-22 21:58:04 | 第4章

さて、ニャロメの活躍により、人気作品となった『ア太郎』であるが、そもそもニャロメとは、いつ頃、どのような形で発生してきたキャラクターなのか、余り知られていない。

元々ニャロメは、ドラマの進行を促すべく、コマの片隅に幕間的に現れては消える、台詞すらない単なるペットマーク的なキャラクターに過ぎなかった。

1968年頃より、赤塚は『バカボン』の作中、リアルなタッチで描かれた月夜の景観を、ページ半分程を使い、ドラマのインターミッション的役割を担う特殊効果として、頻繁に取り入れるようになった。

下絵の段階で、赤塚が大きく鉛筆で「夜」とだけ書いたものを、古谷三敏が、そのリリシズム溢れる繊細な筆致で、バラエティーに富んだ様々な夜景に仕上げ、美麗且つシュールな幻想的空間をヒトコマに凝縮して描いてみせたのだ。

赤塚が下絵の段階で、特にシチュエーションを指定せず、古谷の叙情的センスに一任して描かせたのも、その作品世界に斬新なエフェクトを生み出す一因となったのだろう。

その夜のシーンに、赤塚は一つの点景として、直接ドラマの進行とは関係ない、下弦の月に照らされては、片手倒立する野良犬を神出鬼没に配置させ、読者の意表を突いていた。

そんな類縁性に基づく、自然延長線上に位置するキャラクターとして、『ア太郎』にも、同じく夜景の大ゴマ等に、尖った耳と大きな目が印象的な野良猫を好んで描き加えるようになり、これがニャロメのキャラクターメイクの原点となったのである。

また、「ニャロメ」というネーミングは、1970年代より、オリベッティ社配下のエットレ・ソットサスのデザイン研究所を拠点に、デザイナー、前衛アーティストとして世界を股に掛けて活躍することになる立石鉱一ことタイガー立石と知遇を得た際に、赤塚が直接彼から見せてもらったという自作のナンセンス漫画のワンシーンからヒントを得て、名付けられたものだ。

元々立石は、「ボーイズライフ」のユーモアページを中心に、アメリカンコミックを彷彿させる小洒落たサイレントギャグを複数執筆しており、後に公私に渡り密接な間柄となった赤塚は、前述のフジオ・プロ発行のファン向けギャグ漫画誌「まんが№1」に、やはりシュールな前衛的感覚を際立たせた『ガギググゲゲラ』なるナンセンス漫画を立石に連載させるなど、その才能を高く評価していた。

立石作品の登場人物達が激昂した際に発する、「コンニャロメ」、「キショウメ」といった奇抜な言語表現に直截的な影響を受けた赤塚は、そんな場面転換にのみ登場していた前述のマスコット猫に、ひと言「ニャロメ」と鳴かせ、ここで漸く、ニャロメのキャラクターの原型が形作られることになったのだ。


『バカボン』最初のアニメ化と「週刊少年マガジン」での再連載

2020-06-22 20:09:28 | 第4章

だが、翌1971年、『バカボン』の第一弾目のテレビアニメ化の企画が、当時数々のヒット番組を手掛け、飛ぶ鳥落とす勢いで規模を拡張していたアニメ製作会社・東京ムービーより立ち上がり、日本テレビ系列での放映が決定する。

赤塚は、このアニメ化企画を手土産に講談社の重役に陳謝し、『バカボン』は「週刊少年マガジン」の兄弟誌である「週刊ぼくらマガジン」で再開される。

しかし、四回掲載した後、雑誌が休刊。その後、ワンクッションを置いて、掲載誌を『タイガーマスク』(原作・梶原一騎/作画・辻なおき)や『仮面ライダー』(石ノ森章太郎)といった「週刊ぼくらマガジン」の看板タイトルとともに、ホームグラウンド「週刊少年マガジン」へと切り替え、前述の通り再連載される運びとなった。

古巣に返り咲いた『バカボン』は、バカボン一家を中心としたファミリー向けの日常的笑いは影を潜め、ブロークンギャグとも言うべき狂気と破壊性を高騰させた超ナンセンス漫画へと覚醒を遂げる。

そして、「マガジン」本誌では、途中休載を挟みつつも、1976年49号まで、再び「マガジン」人気を牽引する強力連載の一本として足掛け五年に渡って掲載された。

更に、74年8月号から78年12月号に掛けては、「別冊少年マガジン」(75年6月号より「月刊少年マガジン」と改題)にもレギュラー連載され、同誌のイメージリーダーとなるなど、まさに『バカボン』は、70年代の「マガジン」ブランドをシンボライズする名タイトルとして、各講談社系少年漫画誌をクロスオーバーし、赤塚ギャグ最大級のホームランにして、最長連載記録を樹立するに至った。

『バカボン』関連の事柄で、やはり特記すべきは、完全版や傑作選など、数多の数ほど刊行されたコミックスの存在である。

版元である講談社KCコミックスやアケボノコミックス、竹書房漫画文庫等、この約半世紀で、様々に判型を変えて出版された二〇〇点余りにも及ぶ各シリーズの単行本の発行部数は、累計一二〇〇万部以上を誇り、セールス面においても、赤塚漫画随一のロングランヒットとなる。

また、移籍によるトラブルから、急遽講談社児童まんが賞の受賞を取り消される悲運に見舞われたものの、1972年には、この時同時連載中であった『レッツラゴン』とともに、児童漫画家としては初の快挙となる文藝春秋漫画賞受賞の対象作品となり、『バカボン』特有の反秩序反理性の発想原理を基盤としたギャグのダイナミズムは、アフォリズムの次元へと転位して余りある鋭峰なカリカチュールとして、あらゆる世代より圧倒的評価を獲得するまでに至った。

テレビアニメにおいても、第一作目に当たる『天才バカボン』放送終了後以降も、『元祖天才バカボン』、『平成天才バカボン』、『レレレの天才バカボン』と、赤塚存命中においても計四度に渡ってシリーズ放映され、その都度アニメ企画に連動する形で、児童誌を中心に複数本の新作が断続的に新連載、もしくは旧作が再掲載された。

また、様々な企業のイメージキャラクターとして、広告やテレビCMに幾度となく登場するなど、『天才バカボン』は、名実ともに赤塚漫画の代名詞となった。


ニャロメのブレイクと「サンデー」掲載版『バカボン』の打ち切り

2020-06-21 07:57:22 | 第4章

このような流れから、『バカボン』は、69年9号の「週刊少年マガジン」、69年1月号の「別冊少年マガジン」で、一旦最終回を迎え、約半年間のインターバルを設けた後、「週刊少年サンデー」35号、「DELUXE少年サンデー」9月号にて、「新連載『天才バカボン』」と飾り立てたタイトルロゴとともに、華々しく再登場する。 

だが、この時点で、もう『バカボン』は、「サンデー」には必要なかったのだ。

具体的詳細については、後程紙幅を割いて記述するが、「マガジン」版『バカボン』の連載終了とほぼ同時期、『ア太郎』には、自己主張の激しい、人語を話す野良猫・ニャロメがレギュラーキャラとして加わるようになっていた。

踏み潰されても、立ち上がり、あらゆる権威や常識に反発しては、玉砕してゆくニャロメのキャラクター像は、1970年の日米安保条約の締結を阻止すべく、政治闘争に燃えていた全共闘世代の心情や生き様とシンクロし、巷ではかつてないニャロメブームが沸き起こっていた。

勿論、その人気は、全共闘世代の若者のみならず、絵の描きやすさ、キャラクターの親しみやすさも相俟って、子供はもとより、サラリーマンなどの壮年層にも広がり、この時期、『ア太郎』は「週刊少年サンデー」、否、サブカルチャーの最前線に位置する、時代の象徴とも言うべきトップ漫画へと躍り出ることになる。

また、ニャロメのブレイクと時同じくして、毛虫のケムンパス、蛙のべしといった常識的な約束事や論理性を無視した奇っ怪なキャラクターが登場。作品のスパイスとなって余りあるナンセンスな魅力を一気に引き上げ、日常を超えたシュールな光彩を放つようになる。

ムーブメントという観点から捉えると、ニャロメの登場を導火線とした『ア太郎』フィーバーは、かつての『バカボン』人気さえも完全に凌駕する盛り上がりを見せていた。

事実、「サンデー」参入後、『バカボン』の人気は伸び悩み、『バカボン』が「サンデー」の部数増大の起爆力となると踏んだ編集部の目算は、大きな誤算をもたらす結果となった。

「サンデー」掲載版『バカボン』の各エピソードごとにおける総体的なクオリティーは、無論一定水準をキープしており、時として「マガジン」時代をも上回る毒々しいシニシズムや、ナンセンス面においては、カルト的とも言えるハイブロウな異端的ギャグを満載した回も少なくはなかった。

例えば、『ア太郎』、『バカボン』の同時掲載という特性を活かし、『ア太郎』(「てってい的なひねくれブタ」/69年51号)で、デコッ八の親切心に触れ、折角改心したひねくれブタが、野菜の配達中、そのまま『バカボン』(「クラスメートルがやってきたのだ」/69年51号)にも登場し、パパにすき焼きにして食べられてしまったり、同じく『ア太郎』(「天国みやげ」/69年49号)で、ニャロメから、誘拐されそうになった際、相手の股関を強く握るよう唆された男の子が、やはり『バカボン』(「ゆうかい犯人はオカシなのだ」/69年49号)にもスライドして登場し、話し掛けてきたパパの股ぐらを思いっきり握り、悶絶させたりと、ドラマのポイントとなる重要なプロットや、文脈の中で伝達される情報としての笑いを、タイトルのヘッジを越え、ハプニング的なギャグへと移し変える新たな意匠を作り上げたりもしたが、当然ながら同じ作家によって描かれた作品が並列するとなると、両タイトルの全体的な空気が似通ってきてしまい、『バカボン』のアバンギャルドな笑いにおける新鮮さは、見る見るうちに損なわれてゆく結果となった。

『バカボン』は、『巨人の星』や『あしたのジョー』、『無用ノ介』といった硬質なストーリー漫画や劇画作品と並び合ってこそ、光輝く作品であって、複数のギャグ漫画が犇めき合う「サンデー」誌面においては、『バカボン』単体の特質は埋没してしまうきらいさえ孕んでいた。

同名作家の、同様のタッチによる、同質の雰囲気を醸し出した二つの作品が隣接し合うことにより、一躍「サンデー」の看板作品となった『ア太郎』の人気を損ないかねないと判断した「サンデー」編集部は、無情にも、連載僅か三十回にして『バカボン』の掲載打ち切りを決断する。

皮肉にも、『バカボン』は、ニャロメの大ブレイクによって、『ア太郎』人気が高まるに従い、「サンデー」編集部にとって、「目の上の痰瘤」的な存在となったのだ。

無論、『バカボン』の連載を終了させることで、この頃、漫画家として、既にトップランクのギャランティが支払われるようになった赤塚の原稿料を削減しようとする腹積もりも、編集内部にあったことは間違いないだろう。

赤塚にとって、この茶番とも言うべき移籍劇は、自身の漫画家人生において、最大の汚点となってしまい、赤塚本人も、自らの慢心が招いた失敗だったと、これに対し、その後、悔恨の念を吐露している。


衝撃の『バカボン』移籍事件 「サンデー」の巻き返し作戦

2020-06-19 07:40:15 | 第4章

1968年の「週刊少年マガジン」新年号で、ボクシング漫画の金字塔にして、現代漫画の最高傑作との呼び名も高い『あしたのジョー』(原作・高森朝雄/作画・ちばてつや)がスタート。70年には、同誌の発行部数を150万部に引き上げるなど、これにより「マガジン」は、劇画ブームの立役者になるとともに、同誌大躍進の布石となる莫大な金脈を掘り当て、「サンデー」との差を大きく引き離した。

一方の「サンデー」は、社会現象化した『オバQ』&『おそ松』ブームから一転。この二大ヒット作の週刊連載終了後、その勢力は、低迷に向け、緩やかではあるが、失速しつつあった。

赤塚と同じく「サンデー」の驚異的な跳躍において、そのキーパーソンとなった藤子・F・不二雄は、『オバQ』からテレビとの相乗効果を狙ったタイアップ作品『パーマン』へと人気を継続させる。

しかし、『パーマン』終了後の1968年、人類に宇宙への夢と希望を与えたアポロ計画にインスパイアされ、発表された『21エモン』は、壮大なスケールを纏って展開する未来SFギャグにして、藤子ワールドに新たな展望を切り開くエポックとも言い切れる好シリーズであったが、編集部が期待を寄せたほどのヒットには至らず、その後、起死回生を賭けてスタートさせた『ウメ星デンカ』もまた、今ひとつ読者の気受けが高まらずにいるなど、停滞を余儀なくされていた。

因みに、藤子F、赤塚作品以外での、1969年「サンデー」新年号のシリーズ連載の布陣を見てみると、『歌え‼ムスタング』(原作・福本和也/作画・川崎のぼる)、『地球ナンバーV7』(横山光輝)、『ドカチン』(板井れんたろう)、『あかつき戦闘隊』(原作・相良俊輔/作画・園田光慶)、『サスケ』(白土三平)といった諸作品が並んでおり、いずれも当代一流の人気漫画家が健筆を振るっていたタイトルではあったものの、この中で、辛うじて話題を集め、また堅調な人気を持続し得ていたのは、当時テレビアニメがオンエアされていた『サスケ』のリメイク連載と、軍服、制帽、銃剣のレプリカ等、ミリタリーグッズのプレゼントキャンペーンを大々的に張り、戦争に対する礼賛を悪戯に助長するものとして、日本児童文学者協会をはじめ、各市民団体、有志から問題提起を受けるなど、後に波紋を投げ掛けることとなる『あかつき戦闘隊』といった劇画勢のみであった。

鳴り物入りで登場した赤塚の『ア太郎』も、依然として振るわず、低空飛行を続けている。

実際、「サンデー」編集部でも、人気が一向に上向き加減とならない『ア太郎』の打ち切り案が、比較的早期の段階から浮上していたらしい。

『あしたのジョー』の特大ヒットにより、「マガジン」に王者の座を奪われた「サンデー」編集部は、そのポストを奪還すべく、業界のタブーとも言うべき巻き返し作戦に打って出る。

「サンデー」の創刊10周年を記念し、毎号「赤塚不二夫の編集するページ」として、一個人の漫画家としては破格の80ページもの掲載スペースを用意することを交換条件に、赤塚に「サンデー」への『バカボン』宿替えを打診してきたのだ。

つまり、「マガジン」の『バカボン』愛読者を根こそぎ「サンデー」が頂戴しようという魂胆だ。

当然そこには、今一息冴え渡らずにいる『ア太郎』人気を『バカボン』とのジョイントで盛り上げて行こうという算段も、多分に含まれていたことは言うまでもない。

『バカボン』は、掲載誌「マガジン」の主力連載でありながらも、講談社児童まんが賞を逃した悲運の作品であったが、実際、1969年度の同賞の受賞がほぼ確定していたという事実はあまり知られていない。

爆発的ヒットとなった『バカボン』の「マガジン」の部数増大への貢献度を鑑みれば、当然の結果とも言え、そうした事情を背景に、講談社主催による「『天才バカボン』大ヒット祝賀会」が開催されるのだが、その席で壇上に上がった赤塚は、何と、自らが「サンデー」の編集長になって、「マガジン」を追い抜きたいと、不敵にもそう語り出したのだ。

無論、赤塚にとっては、宴の席でのリップサービスのつもりで発言したジョークに過ぎなかったのだろうが、その来賓客の中で、ただ一人、この言葉を真剣に捉えていた者が、当時赤塚と一心同体の存在であった長谷邦夫だと言われる。

そのことを裏付ける根拠と、『バカボン』の「サンデー」移籍の具体的な経緯と詳細が、前出の赤塚担当記者だった武居俊樹が、2005年に書き下ろした自伝的エッセイ『赤塚不二夫のことを書いたのだ』(文藝春秋社)に過不足なく記されている。

事の発端は、赤塚行き着けのバー「竹馬」で、赤塚、武居、長谷、高井が酒を酌み交わし、たまたま酒の肴が漫画の話になった際に、長谷が酔いに任せて発したひと事であった。

「『バカボン』、「マガジン」から持ってきて、赤塚不二夫を「サンデー」の独占作家にしちゃえば」

漫画家として、トータル的な才能に恵まれなかった長谷は、自身の持てる能力のほぼ全てを、類友である赤塚との共同作業に投入し、誠心誠意赤塚をフォローすることで、クリエーターとしての活路や自らの存在意義を見出だしていた。

創作に対して、とことんまで誠実であるということ、そのことを直に学び、赤塚こそが、最も興味のある漫画家(人間)として公言して憚らなかった長谷の希望のベクトルは、赤塚を更にビッグな存在へと高め、漫画界で天下を取らせたいという想いに傾きを掛けていたのであろう。

そのためには、赤塚を「サンデー」の独占作家にさせ、そのカリスマ的価値を際立たせることが必須ではないかという思惑が、この時、長谷の中で働いたことは想像に難くない。

しかし、その発言に対し、赤塚は無反応で、その場に居合わせた高井もまた、「そんなこと、出来るわけがない」と、聞く耳を持たず、会話は別の話題へとスライドし、話は一旦そこで立ち消えとなった。

だが、機先を制す。

長谷のそのひと言を胸に刻み付けた武居は、早速その翌日、『バカボン』を「サンデー」に移籍させ、『ア太郎』とジョイント掲載させる企画案を、この時編集長だった高柳義也に伝え知らせる。

当初、「机上の空論」、「画餅飢えに充たず」といった面持ちで武居の話に耳を傾けていた高柳も、武居の熱弁に触れ、段々とその話に意欲的になり、遂には、赤塚が小学館で最も信頼を寄せている広瀬徳二第二編集部長が、赤塚への説得工作にあたり、『バカボン』の移籍の確約を取り付けることとなる。

赤塚が広瀬の要求を飲むに至るまで、どのような遣り取りが二人の間で取り計られていたのか、誰もわからない。

しかし、両者の表も裏も知り尽くしている武居は、人の良い赤塚の性格に漬け込み、赤塚が中野区弥生町に新居を構えた際に、小学館が貸し出した大金のことまで持ち出し、恩を売りながら、おだてて脅す、ヤクザ同様の手口で、赤塚を屈伏させたのではないかと推測する。

勿論、赤塚にも、自分は「サンデー」によって育て上げられたという感謝の念があり、部数低迷に喘ぐ同誌の危機的立場を少しでも打開出来ればという恩返しの想いから、『バカボン』の「サンデー」移籍を決断したことも、強ち間違いではないだろう。

そして赤塚は、長谷を連れ立ち、講談社に談判に乗り込む。

当時、「マガジン」の編集長を務め、『バカボン』の「サンデー」移籍を赤塚から直談判された内田勝は、その時の状況を、著作『「奇」の発想』(三五館、98年)でこう記述している。

「連載前に別館で打合せをして以来、二度目にわざわざ来社した赤塚さんは、

「じつは「サンデー」が毎号八十頁を、〝赤塚不二夫が編集する頁〟として提供してくれることになり、ついては『天才バカボン』も『マガジン』から『サンデー』に持っていきたいのだが……」

と強ばった面持ちで告げた。

ぼくは寸秒も置かず、「結構です。どうぞ」と答えた。大反対されて、長い遣り取りになると予想していたらしい赤塚さんは、呆気にとられた表情を見せたが、ぼくは手塚さんの「W3」の時と同じく、今度は赤塚ギャグに対抗するギャグ・マンガを作ろうと、話を聞いている最中に、すでに心に決めていたのだった。赤塚さんが『マガジン』に勝てるか、『マガジン』編集部が赤塚ギャグに勝てるか、それは〝男の勝負〟というものだ。」

内田が赤塚の申し出に対し「結構です。どうぞ」と答えたのは、事実として間違いのないことであろうが、その時、現場担当の五十嵐隆夫記者とともに、この場に同席していた副編集長・宮原照夫の話では、内田が承諾する前、赤塚と舷舷相摩す相当な遣り取りがなされたとのことで、内田が語った内容とは若干事情が異なる。

内田の記憶違いか、それとも赤塚に対する永遠に消し去れぬ腹立たしさの表れとも取れる捏造かは、当然ながら、筆者の知る由ではないが、自らが熱心に企画を立ち上げ、プロデュースし、大成功を収めた作品を易々手放す真似をしたとは思い難い。

宮原の言う通り、赤塚の『バカボン』移籍への決意は固く、それに対し、これ以上無駄な説得に労力を費やすまでもないと諦めた内田が、最終的に赤塚側の要望を受け入れたと考えるのが穏当であろう。

漫画界において、それまで日陰の存在であった劇画作家を一躍メジャーシーンへと押し上げ、また、後にビジュアルの魔術師と異名を取る大伴昌司をグラビア企画構成者に起用するなど、常に独創的なプランを打ち出しては、「マガジン」の部数増大に大きく貢献してきた内田は、業界の風雲児とも呼ばれた有能なエディターであるが故か、人一倍自尊心が強く、毀誉褒貶の激しいことでも知られていた。

この一件で自身の面子を酷く踏みにじられたと感じた内田は、その後『バカボン』が「マガジン」へと再び舞い戻り、第一期「マガジン」連載版を上回る人気作品へと返り咲くも、終生に渡って、赤塚を憎悪し、インタビュー等において、赤塚に対し、一貫して否定的な発言をし続けることになる。

尚、この移籍トラブルにより、講談社側は、フジオ・プロ系列の作品の掲載を全てボイコットしたと、長谷邦夫の著作を初めとする多くの赤塚関連の書籍で流布されているが、これも事実無根の話である。

やはり、講談社としても、ドル箱コンテンツとなった赤塚ギャグを手放したくない想いが強かったのだろう。

事実、赤塚は『バカボン』の移籍、中断中であっても、「別冊少年マガジン」には、『鬼警部』(70年)、『狂犬トロッキー』(71年)といった滝沢解原作による長編読み切りや連載作品を、「週刊ぼくらマガジン」には、『死神デース』(70年~71年)というシリーズ連載を各々執筆している。


日活アクション、東映任侠路線からの影響と連載初期の低迷

2020-06-18 19:40:50 | 第4章

ブタ松一家やココロのボスファミリーが『ア太郎』のレギュラーメンバーとして常時出演するようになったのは、当時「週刊少年サンデー」の赤塚番記者を務めていた武居俊樹の影響だ。

赤塚同様、熱心な映画フリークだった武居記者は、この頃、絶大な人気を誇っていた『渡り鳥』シリーズ、『流れ者』シリーズといった小林旭の日活の活劇物や、高倉健、鶴田浩二といったスター俳優を主演に迎え、大ヒットを記録した『昭和残侠伝』、『博奕打ち』の各シリーズ等、勧善懲悪劇を磐石に持つ東映任侠路線の熱烈なファンでもあり、まさにブタ松一家とココロ・ファミリーの激化する勢力抗争の縮図などは、そうした武居の好みが充分な触発材料となって実ったアイデアと言えるだろう。

尚、余談になるが、武居に感化され、大の旭ファンとなった赤塚は、その熱烈なファンぶりが、テレビ局の知るところとなり、後にトーク番組で小林旭と共演したり、小林旭のリサイタルにゲストとして招待されたりと、公私に渡って親交を深めてゆくことになる。 

このように、松竹大船調の香り沸き立つ人情路線をルーツとした生活ギャグ漫画のスタイルに、当時、幅を効かせていたヤクザ映画の世界観を持ち込み、新たなエネルギーを拡散するとともに、フォーマットの刷新を図った『ア太郎』であったが、連載一年を経ても尚、その人気は好不調の荒波に揉まれ、深く静かに沈んでいた。

確かに、肉体を持たず、超常たる存在に帰属する×五郎が、無意識の状態にある動物などに突然憑依し、ア太郎以外の人間に話し掛けては、周囲をパニックに陥れるというアイデアも、ギャグ漫画としては決して質の低いものではないし、前述のココロのボスをはじめ、面構えも悪ければ、発するジョークも笑えず、診察も誤診だらけという医者としてのモラルが完全に欠落した福笑い病院の医院長といった容貌魁偉なキャラクターらがレギュラー陣に加わり、徐々に作風の趣は、パワフルな度合いを強めつつあった。

しかし、高度経済成長の熱気に溢れ、サイケデリック、フラワーレボリューション、ピーコック革命といった軽佻浮薄な風俗用語が、中学生世代の間でも日常用語化しつつあった時代に、戦災孤児のようにハングリーなア太郎やデコッ八を中心とした義理と度胸の男の世界は、明らかに流行から離反した先祖帰り的な趣向であったし、ギャグの存立基盤においても、因果律に支配された、情緒的風合いが濃厚な人情コメディーでは、『バカボン』の破壊的ナンセンスに匹敵する笑撃的震撼を引き起こすレベルになり得るには至らなかった。

因みに、1968年の時点で、『バカボン』を除くギャグ漫画の人気の中心にして、少年漫画界をリードする鋭角的なナンセンスを弾き出していた作品は、藤子不二雄Ⓐの『怪物くん』であり、ジョージ秋山の『パットマンX』であり、永井豪の『ハレンチ学園』であった。

成る程、『ア太郎』がこれらの諸作品に比べ、些かアナクロニスティックであり、ドメスティックな印象を与えている点は否めない。

テレビメディアにおいても、さしものクレージー・キャッツが往時の人気に陰りを見せ始めていたこの時期、萩本欽一、坂上二郎のコント55号が爆発的ブレイクを果たしたほか、(赤塚も『ウォー!コント55号』(69年7月2日~12月24日)というNET系(現・テレビ朝日)列の公開バラエティー番組に絵師として登場し、55号と共演した。)翌69年には、今尚語り継がれる伝説のコントバラエティー『8時だョ!全員集合』、『巨泉×前武のゲバゲバ90分‼』等、圧倒的スケールを放つお笑い番組が立て続けに放映開始するなど、笑いの質や感覚そのものが、大きく変質を遂げようとしていた転換期でもあった。

従来の傾向を引き継ぎながらも、新たな展開と変革を見せ、土壌を拡大してゆくテレビバラエティーの影響を伴ってか、斬新なギャグ漫画のスタイルを提案する偉才秀才が、群雄割拠しつつあった同時期の少年誌メディアにおいて、その存在を埋没させないためには、ディテールに拘った笑いをテクニカルに紡ぎ出してゆくドラマの内実性以上に、もっと作品総体から醸し出される華やかさと刺激が不可欠とされていたのだ。

本作『ア太郎』が、『おそ松』、『バカボン』と並ぶ赤塚の三大ヒット作として根付くまでには、今暫くの時間が必要だった。