1981年、『チビドン』の終了に伴い、「コロコロ」誌上では、赤塚の愛猫・菊千代をフィーチャーした『花の菊千代』(81年4月号~82年3月号)が、シリーズ連載される。
菊千代は、エジプトを原産とするアビシニアン系の血を引くミックスで、生まれて間もない78年、アシスタントの友人である学生が、フジオ・プロに連れて来た際、赤塚がチャップリンのチョビヒゲとタキシードを彷彿させる毛の模様が気に入り、フジオ・プロで飼われることになったオス猫である。
菊千代の名は、赤塚が私淑する黒澤明の傑作時代劇「七人の侍」の、三船敏郎演じる主人公の役名から拝借したものだ。
この菊千代、前足を頭の上に大きく伸ばし、仰向けの状態で寝たり、犬のチンチンのポーズをお披露目したり、芸達者な一面を持っており、大漫豪の家に居候している万年猫というバリューも相俟って、テレビ、新聞、雑誌等、あらゆるメディアの取材を受けることになる。
そのピークは、1981年~82年で、CM出演だけでも、日本酒の富貴やカネボウ絹石鹸、東京電力、ヤクルト、ミノルタと数社に登り、富貴では高橋英樹と、カネボウ絹石鹸では夏目雅子といった大物芸能人とも共演し、この時期、動物タレントとして大きな話題を振り撒いていたのである。
旧国鉄のトクトクきっぷのCMでは、ご主人様である赤塚とも共演し、風呂敷包みを担いでの熱演を披露する。
この時、菊千代のギャランティが、駅員役の赤塚の五〇万に対し、一五〇万という破格の金額で、「俺は猫より安いのか」と、赤塚を心底悔しがらせたという。
こうして、一般にも顔と名前が広く認知されるようになり、そんな耳目を集めたフィーバーぶりが下地となって、本作『花の菊千代』が連載されるに至ったのだ。
大富豪である飼い主のお婆さんが亡くなったことで、遺産金の百億を相続した菊千代が、金の力を笠に、人間社会で横暴の限りを尽くすという、倒錯した倫理観を笑いに挿げ替えたエピソードが、毎回、熾烈極まる様相を帯びて展開される。
劇中、菊千代が百億の預金額が記帳された銀行の通帳冊子を人間どもに印篭の如く差し出すシーンが、ギャグとして登場するが、これもリアルに菊千代が預金通帳を所有していたことが発端となって生まれた設定だ。
売れっ子となった菊千代へのギャラの振り込みを一ヵ所に纏めておこうと思いたった赤塚は、話題作りも兼ね、赤塚菊千代名義で、富士銀行中井支店に預金口座を開設するが、猫に暗証ボタンは押せないとの理由から、勝手に金を卸しては、その大半を飲食費として使ってしまったそうな。
『花の菊千代』でも、ご多分に漏れず、他の赤塚漫画同様、スターシステムが流用され、ニャロメが菊千代のライバル役として登場。より伸張力に富んだドラマ構造を確保するとともに、作品世界の重層性を大いに広げた。
空腹に加え、陽射しをモロに浴びて、干物同然に干からびてしまったニャロメにお湯を注ぎ、生き返らせた菊千代だったが、菊千代の意中のガールフレンド・花子がニャロメを気に入ったことに腹を立て、命の恩人として感謝するニャロメに対し、今度は徹底した嫌がらせを繰り返し、また元の干物の状態にしてしまう。
だが、敵もさるもの。奇跡的な生還を果たしたニャロメは、菊千代への復讐を誓い、その頭脳プレイによって、菊千代を逆に窮地へと追い込んでゆく。
この菊千代とニャロメのバーサスは、「ライバル登場ニャ‼」(81年8月号)、「ふくしゅうはこわいニャ‼」(81年9月号)の二話に渡って描かれ、どちらのエピソードもインプロビゼーションを基盤に、脱論理性を増幅させてゆく混乱劇として、高い次元へと昇華したカリカチュールが凝らされ ているが、2007年に刊行された「コロコロコミック」のベストクロニクル「熱血‼コロコロ伝説」(Vol. 3)では、「ライバル登場ニャ‼」のみの収録であるため、アッと驚く落ちまで辿り着いてはおらず、新世代の読者に後味悪い読後感を与えてしまったであろうところが非常に残念でもある。
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『花の菊千代』は、本家・菊千代ほどのブレイクを果たせず、ジャスト一年で連載終了と相成るが、その後「いんなあとりっぷ」誌上で、『不二夫と菊千代の交換日記』(83年1月号~84年3月号)、『吾輩は猫・菊千代である』(84年4月号~90年3月号)と、菊千代目線による赤塚家の身辺雑多を記録したエッセイが長期連載され、また二見書房からは、『吾輩は菊千代である』(82年)という漫画とエッセイを融合させた写真集も発売された。
尚、『不二夫と菊千代の交換日記』と『吾輩は猫・菊千代である』の二作品は、91年、同じく版元であるいんなあとりっぷ社より『赤塚だァ!菊千代だァ!』のタイトルで単行本化され、そのうちの四一本が収録された。
1995年には、「微笑」で、御年十八歳となった菊千代の余生と相も変わらない赤塚家の超日常を、赤塚による代筆文と菊千代の筆によるイラストとのコラボレートという異色の設定で綴った、エッセイ形式による読み物『菊千代18才の遺言』(95年5月13日号~96年4月22日号)の連載がスタート。
このシリーズもまた、連載終了後の97年、扶桑社から『吾輩は猫なのだ』のタイトルで単行本化され、好調なセールスへと推移する。
だが、同年10月10日の深夜、十九歳となった菊千代は老衰のため、この世を去ることとなる。
人間の年齢に換算すると、一〇〇歳を越える大往生だった。
後述するが、菊千代の没日となったこの日は、赤塚の大回顧展『赤塚不二夫展 これでいいのだ トキワ荘の青春から天才バカボンへ』の開催初日に当たり、この前日となる9日は、そのレセプションパーティーが、会場となる上野の森美術館で執り行われていた。
まさに、赤塚の帰宅を待っての逝去だったという。
共に一つ屋根の下で暮らして約二〇年。からかいの限度を越え、時として、赤塚から虐待に近い扱いも受けていたとされる菊千代だったが、この一人と一匹の間には、単なる飼い主とペットという結び付きでは語り切れない、同士、同胞のような強い絆で繋がっていたに違いない。
菊千代の死は、新聞やワイドショーでも、大きく取り上げられた。
そして、その亡骸が埋葬された哲学堂動物霊園内の墓石は、同霊園の名所となり、現在も参拝者が途絶えることはないようだ。
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