goo blog サービス終了のお知らせ 

文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

怪人・タモリとの出会い 芸能活動の活発化 

2021-12-22 00:11:28 | 第8章

さて、本書ではこれまで、1956年のデビューから、晩年を迎えた1985年までの作家活動を中心に、赤塚不二夫の全体像を俯瞰し、あらゆる赤塚作品を徹底分析、新たな解釈を加え、体系化を試みてきたが、ここで一先ず趣向を変え、赤塚の本業以外の活動にも、目を向けてみたい。

漫画を除いた赤塚の仕事で、最もメジャーなものといえば、テレビ出演だろう。

人気漫画家として活躍するようになった1960年代半ば以降、既に触れた通り、『まんが海賊クイズ』(NET・現テレビ朝日)や『歌う王冠 チーターとバカボン』(日本テレビ)、『ウォー!コント55号』にレギュラー出演し、それから後も、各界の著名人が若者達と語り合い、行動をともにし、様々な発見をリポートするNHK総合の『若者たちはいま』(74年10月27日~78年2月22日)や、歴史に埋もれた出来事にスポットを当てるバラエティー番組『スポットライト』(75年4月3日~76年3月25日)で、リポーターや司会を努め、一般にも広くその顔が認知されてゆく。

また、ゲストとして招かれた番組も、『11PM』、『徹子の部屋』、『クイズタイムショック』、『クイズダービー』、『素晴らしき仲間』、番組審査員としては、『欽ちゃんの仮装大賞』や『お笑いスター誕生』など、枚挙に暇がない。

時を経て80年代、赤塚のこうしたテレビ出演の頻度が一気に高まってゆくのも、ある男との出会いが大きく影響していることが、その後の活動年譜から見ても、よく分かる。

そのある男とは、森田一義。後に、ビートたけし、明石家さんまとともに、日本のお笑いシーンを代表するビッグ3として磐石を置くこととなるタモリその人である。

数々の珍芸、奇芸の持ち主であるタモリは、大分県日田市のボーリング場で、雇われ支配人をしていた1972年頃より、ジャズ、フュージョンのサックス奏者として名高い渡辺貞夫のツアーに参加していた山下洋輔トリオ(山下洋輔、中村誠一、森山威男)と知遇を得ており、そうした交流から、山下らの溜まり場である、新宿コマ劇場裏のバー〝ジャックの豆の木〟の常連客のカンパ金を得て、1975年6月に地元福岡より上京していた。

この時臨席していた一人が長谷邦夫で、タモリの面白さを目の当たりにし、衝撃を受けた長谷は、赤塚にタモリを一目会わせようと、赤塚を〝ジャックの豆の木〟へと連れ出す。

赤塚は、タモリとの初対面を果たしたその時の状況を、次のように振り返る。

「だまっているときは、さえない銀行員みたいな男が、かくし芸みたいに、いろんな物まねをやりはじめると、バーの中には、「ガハッ! ガハハハハッ!」と、ものすごい笑いが爆発した。

~中略~

「カゼをひいた、中国のターザンをやれ!」

「大河内伝次郎が英語をしゃべり、ソ連の宇宙船にのって、ベトナム語を話すテレシコワとケンカしたのを、寺山修司に解説させろ!」

なんて、メチャクチャな注文を、じつにみごとにこなした。タモリはなおも独演会をつづけ、テレビなどでおなじみになっている珍芸を、――それもテレビでは禁止されているような強烈なパロディを、ざっと五時間もぶっつづけにやってみせるのだった。とても、ボクの文章や漫画などでは表現できないおもしろさで、ボクは身体中アセがびっしょりになってしまった。」

(「落ちこぼれから天才バカボンへ」ポプラ社、84年)

後に、究極の密室芸と謳われるタモリの才気煥発なパフォーマンスにすっかり魅了された赤塚は、この天才を故郷にUターンさせてはいけないという想いから、タモリに自身がその時住んでいた〝カーサ目白〟という家賃十七万の高級マンションを住居として提供する代わりに、プロになって笑芸の世界でデビューするよう、進言する。

元々赤塚は、職業柄、大のお笑いファンで、1968年の第十六回NHK漫才コンクールでは、赤塚が創作した漫才台本『求む!秘書』が、志賀あきら、榎本晴夫のコンビによって実演披露され、見事、第二位を獲得するという好成績を収めたこともあった。なお、この漫才は同年3月17日に録画放映されている。 

赤塚がタモリに本格的にお笑いを目指すよう促したのも、決して伊達や酔狂ではなかったのだ。

タモリが赤塚の自宅マンションに居候して以降、その主従関係は逆転し、タモリはマンションの家主となり、赤塚は仕事場に泊まり込み、横転させたロッカーをベッド代わりにして寝ていたという。

また、住居だけではなく、タモリには、愛車のベンツを自由に使わせ、月二〇万もの小遣いを渡し、食料や酒類なども折を見ては、マンションを訪れ、マメに差し入れしていたそうな。

赤塚宅に居候するようになって二ヶ月ほど経ったある時、遂にタモリは、彗星の如く芸能界にデビュー。『マンガ大行進! 赤塚不二夫ショー』(75年8月30日放送)という、俳優の高島忠夫が司会を努めるNET系(現・テレビ朝日)のお昼の生番組で、テレビ初出演を果たすことになる。

この番組は、赤塚漫画の出来るまでと赤塚の素顔に肉薄した夏休みの特別企画で、藤子不二雄Ⓐ、石ノ森章太郎とともに、タモリも幕間的なゲストとして登場。番組のハイライトとなる、着ぐるみのバカボンのパパと赤塚が結婚式を上げるシーンで、テッパンネタのインチキ牧師を演じ、カタコトの日本語で、二人に祝福の祈りを捧げるというパフォーマンスを披露した。

因みにこの時、番組をたまたま視聴していた黒柳徹子は、オンエア終了直後、電話でテレビ局にいる赤塚を呼び出し、「ネネ、あのオカシナ人、アレなに⁉ おもしろいわね‼」と興奮覚めやらない様子で、タモリとのコンタクトを求めてきたという。

そうした縁から、タモリは翌月の9月8日、黒柳徹子総合司会による『13時ショー』(NET)の「珍芸スター、お笑い大行進」にゲスト出演。珍芸、奇芸のパフォーマンスで並み居る芸人達を退け、視聴者に鮮烈な印象を残すこととなった。

その後も赤塚は、自身がオファーを受けたイベントやテレビ番組に、タモリを引き連れ、ともに出演するなど、殺人的スケジュールを縫いながら、タモリのプロモート活動に奔走してゆく。

そうした奮闘の甲斐もあってか、タモリに関心を示すテレビ関係者が多数現れ、デビュー一年目にしてタモリは、東京12チャンネル(現・テレビ東京)系列の『空飛ぶモンティ・パイソン』や日本テレビ系列の『金曜10時! うわさのチャンネル』といったレギュラー番組を複数本獲得するまでに至った。

そして、ニッポン放送の人気ラジオ番組『オールナイトニッポン』のDJに抜擢され、遂に、その人気を不動のものとする。

以後タモリは、これまでにない、毒気と軽妙洒脱なインテリジェンスを兼ね揃えた全く新しいボードビリアンとして、あらゆるメディアを席巻し、スーパースターへの階段を一気に駆け上がってゆく。

こうした赤塚とタモリによる泣き笑いの芸能二人三脚は、出会いからタモリがスターダムにのし上がってゆく道程を、敬愛の念を込めて綴った『ボクとタモリ』(「月刊少年ジャンプ」81年8月号)でも見ることが出来る。

『ボクとタモリ』では、作中、赤塚とタモリによる、かつて南太平洋の楽園と謳われつつも、未だベールに包まれていた、西サモアへの珍道中がプロットの一つとして描かれているが、このツアーは、タモリが人気タレントとして盤石を置いた1978年2月頃、某広告代理店から、赤塚&タモリのコンビで、西サモアがどんな国なのか、マーケットリサーチをして来て欲しいというオファーを受けたことに端を発す る。

因みに、この時の現地人との交流や尋常ならざる長旅の記録は、十六年の時を重ね、写真と雑記、それに赤塚の描き下ろし漫画を加えたコミックエッセイ『赤塚不二夫とタモリの西サモアに行ってこれでいいのだ』(講談社、94年)で、漸く一冊の書籍に纏められ、数少ないサモア関連のガイドブックとして、一部ツアーリストの関心を集めるに至った。

タモリとの歴史的邂逅は、『レッツラゴン』の連載終了、「週刊少年マガジン」版『バカボン』の執筆中断が相次ぐといった、赤塚漫画の黄金期が終焉を迎えつつあった頃と重なり、赤塚がパフォーマーとしての活動に傾斜を強めてゆく端緒となった。

そうした意味でも、タモリとの出会いは、赤塚不二夫史を語る上で、一つのターニングポイントとして位置付けられて然るべきだろう。

このようなパフォーマーとしての取り組みは、本業である雑誌媒体においても、活発化してゆく。        

         


最新の画像もっと見る

コメントを投稿