文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

若き才能とエネルギーが結集したスタジオ・ゼロ

2019-10-08 03:10:45 | 第2章

北見が赤塚のアシスタントになって暫くした頃、前年、横山隆一主宰の動画制作プロダクション「おとぎプロ」を退社した鈴木伸一を中心に、藤子不二雄、石ノ森章太郎、つのだじろうらトキワ荘時代の盟友達が、アニメーション制作を業務目的とした有限会社「スタジオ・ゼロ」を設立。これまであった動画部の他に、雑誌部を発足させ、これを機に赤塚も資本家としての参加を打診される。

スタジオ・ゼロ動画部は、日本版ディズニー・プロを目指そうと、高い理想を掲げて設立されたが、現実は程遠いもので、いくつかのテレビアニメの企画を打ち出すものの、その全てが敢えなく没になったり、CMのアニメフィルムの絵コンテを制作した際も、下請けの仕事のため、雀の涙ほどの収入にしかならなかったりと、経済的なメリットをもたらすオファーは一切なかった。

しかし、会社としての利益を上げなければ、存続出来ない。

そこで、切迫する窮状の打開案として、雑誌に漫画を描き、その収入を社員の給料や動画の制作資金に充てるべく、雑誌部を新発足させたのだ。

新しもの好きで、賑やかなことに目がない赤塚は、スタジオ・ゼロに参加すると同時に、自らのスタッフも、スタジオ・ゼロの社員として呼び寄せてしまう。(この時、長谷邦夫も雑誌部を統括するチーフアシスタントとして参加することになる。)

社長の鈴木伸一以下、重役は全員、藤子や石ノ森ら漫画家で占められているため、社員は漫画家志望の青年二人しかおらず、これだけ社員が少ないとあっては、いかんせん、会社としても格好が付かないだろうという、赤塚なりの配慮が働いてのことだ。

スタジオ・ゼロの社長、重役、社員の他、赤塚とそのスタッフが加わると同時に、藤子やつのだらのスタッフも徐々に増員されてゆき、翌1965年4月2日、スタジオ・ゼロは、本拠地を丸ノ内線・新中野駅すぐそばの青果物倉庫から、新宿中央公園坂の下交番のトイメンに建てられた新築の市川ビルに移し、その三階と四階を雑誌部門となるそれぞれのスタジオと動画制作部に振り分けられることになる。

この移転を頑なに主張し、実現させた張本人こそ、他ならぬ赤塚だった。

当時、スタジオ・ゼロがオフィスを構えていた青果物倉庫は、相当な築年数を経ているだけではなく、屋根から外壁に至るまで全ての材料が下等品で、倉庫と呼ぶには申し訳ない木造建築のボロ小屋であった。

何しろ、スタジオ・ゼロのある二階に来客がある都度、階段のみならず、建物全体がグラグラと揺れ出し、二階床の板張りの隙間からは、階下の様子が丸見えだというのだから、長い間赤貧暮らしを送っていた赤塚ですら、自身の想像を越える劣悪な環境だったのであろう。

なので、こんな酷い建物を拠点にしていたら、テレビ局や制作会社の人間が最初から不信感を抱き、スタジオ・ゼロにとっても、マイナスイメージとなるばかりか、纏まる話も纏まらないのではないかという懸念が、赤塚の胸中に絶えず湧いていたのも十分理解出来る。

その後実現される『おそ松くん』のテレビアニメ化の企画であるが、実は、この新中野のスタジオ・ボロ時代に、既に大阪毎日放送から持ち込まれており、同局のプロデューサーやそのスタッフがチルドレンズ・コーナーの関係者を伴い、赤塚側にアプローチしてきていた。

前述したチルドレンズ・コーナーは、実際のところ、東映動画の外注プロとして創立されたインスタント会社であった。

従って、実績など何もなく、どれだけのクオリティーを確保出来るか、全くの未知数であり、そんな不安感から、テレビ局側も、全ての制作をチルドレンズ・コーナーに一任せず、スタジオ・ゼロ動画部と両分することで、スタートさせようという皮算用があったのかも知れない。

だが、スタジオ・ゼロに顔合わせに訪れ、その建物のあまりのオンボロぶりを目の当たりにしたテレビ局のプロデューサーや関係者等は、自ら、赤塚とコンタクトを取っておきながらも、何処か訝しさを抱いたのか、具体案を検討し、企画の素案だけでも完成させるといった前向きな姿勢を見せることもなく、『おそ松』アニメ化の話は、とりあえず、保留という形で収まるに留まった。

そうした経緯もあり、例え折半であったとしても、『おそ松くん』のアニメ製作をスタジオ・ゼロが受け持つことで、これを会社発展に繋がる根拠の一つに出来ないかと考えていた赤塚にとって、デラックスなビルへの移転は必須条件だったと言えよう。


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