文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

藤子不二雄『オバケのQ太郎』との相乗効果

2019-10-17 08:35:04 | 第2章

乗効果

 

このように、日本中の少年読者を爆笑と熱狂の坩堝へと引き込み、漫画とは縁遠い高年齢層にも人気と知名度を上げた『おそ松くん』だが、既に、テレビアニメ化もされ、社会現象を巻き起こしていた藤子不二雄の『オバケのQ太郎』が、『おそ松くん』と同じく「週刊少年サンデー」を発表媒体としていたことによる相乗効果によって、更なる輝きを引き立てたのも、また事実であろう。

元々『オバQ』は、スタジオ・ゼロの財務を支えるべく、新設された雑誌部の企画として始まった藤子・F・不二雄と藤子不二雄Ⓐによるコラボレート作品であり、石ノ森章太郎が脇キャラを描いたほか、当初は赤塚も仕上げと背景を担当するなど、スタジオ・ゼロの豪華メンバーが作画協力に携わったシリーズとしても知られている。

そして、これまで科学冒険物やアクション物などドラマ性を強く打ち出したスタイルの作品を得意としていた藤子不二雄が、ギャグメーカーとしてのそのポストを確固たるものにした磐石こそが、この『オバQ』なのだ。

本来なら、同じ雑誌に連載される競合作品であり、しかもギャグ漫画という形態上、互いの気受けを損ないかねないライバル関係に陥りがちだが、ナンセンスな飛躍にドラマの展開を委ねた、即効性の強い爆笑誘発型の『おそ松』に対し、『オバQ』は、一見オバケという異質で超常的なキャラクターを主人公に据えながらも、子供達のリアルな生活感覚に即した、遅効的な微笑誘発型のギャグを身上としており、両者の笑いにおける質感と起爆性が全く異なるものであるという作品の温度差からも、この二つのギャグ漫画は、互いの魅力を際立たせ、隣接し合う結果となったのだ。

実際、1965年から66年に掛けての『オバQ』、『おそ松』の存在感の際立ちは、同時期におけるあらゆるジャンルの人気漫画とは明らかなディファレンスを放ち、ギャグ漫画という少年漫画の新たなメインストリームをリードする両輪として、漫画出版界に『オバQ』&『おそ松』の二強時代を現出した。

版元の小学館と広告代理店の主導による、他媒体との流通に基準を合わせた斬新なブランディングも効を奏し、両作品のブランドプレミアムがより強化された点も、メディアミックスの先駆けと言えるだろう。

本誌においても、『西遊記』をオリジンとし、『おそ松』、『オバQ』の人気者達と、つのだじろうの『ブラック団』のキャラクター達が一堂に介するグルービーなノリが、お祭り騒ぎ的な高揚ムードをもたらす『ギャハハ三銃士』(『週刊少年サンデー増刊 お正月まんが号』66年1月5日発行)、オバQとチビ太がお互いの優秀さ(?)を競い合う、ドツキ漫才のようなやり取りが緩やかな笑いを振り撒く『オハゲのKK太郎』(「週刊少年サンデー」66年10号)等、作品の垣根を越えて客演するオールスターキャストによる大作漫画のコラボレーションが続々と企画された以外にも、巻頭ページでも両作品の特集記事が頻繁に組まれ、様々な『オバQ』、『おそ松』グッズが、ほぼ毎号のように裏表紙等に広告として大きく宣伝された。

このように、当時、漫画雑誌史上最大の発行部数を誇った「週刊少年サンデー」のツートップとしての『オバQ』、『おそ松』の超絶的人気と、二次媒体との連動を伴ったセンセーショナルなプロモート戦略が、誌面上からもひしひしと伝わってくる。

人気絶頂期の両作品は、総集編として、幾度も「別冊少年サンデー」に纏められ、また、その特集号が、軒並み数十万部という爆発的な売れ行きが続いたことも、特筆に値するだろう。

留まることを知らない『オバQ』&『おそ松』人気に着目した東宝映画は、『喜劇駅前』シリーズの第十五作目『駅前漫画』(監督/佐伯幸三)で、この二大ギャグ漫画を起用。ブラウン管から飛び出したオバQ、おそ松は、森繁久弥、伴淳三郎、フランキー堺といった喜劇界の大御所スター達とも夢の共演を果たし、遂にスクリーンデビューを飾ることになる。

更にブームを拡大した両作品は、この映画のヒットも一つの跳躍材料となり、戦後大衆文化史の一幕に『オバQ』、『おそ松』時代の刻印を刻んだ。


新書版コミックス初の大ベストセラー 『おそ松くん全集』

2019-10-17 02:37:41 | 第2章

丸美屋の『おそ松くんふりかけ』、東京渡辺製菓の『コビト・おそ松くんチョコレート』と同様、『おそ松』人気の圧倒性を印象付けたもう一つのヒット商品に、『おそ松』連載末期より刊行された『おそ松くん全集』全31巻+別巻2巻が挙げられよう。

『おそ松くん』の単行本は、「シェー‼」が流行語として全国的に広まる以前の比較的早い時期に青林堂と東邦図書出版から、それぞれ全5巻として発売されたが、ベストセラーには至らず、版元の小学館の「ゴールデンコミックス」レーベルより選集が一冊リリースされた後、68年に曙出版が新たに設立した新書版レーベル「アケボノコミックス」の第一号として叢書化され、ここで漸く特大ヒットに繋がったという複雑な経緯を辿ったことでも知られている。

続々と刊行された『おそ松くん全集』は、小学館系各児童誌、少年誌に掲載された作品のみをほぼコンプリートした24巻までの初版分だけでも、一五〇万部以上のセールスを記録し、その後も80年代に入るまで重版に重版を重ねた本シリーズの総売り上げ部数は、最終的に五〇〇万部を遥かに上回ることになる。(『おそ松くん全集』の総発行部数を一〇〇〇万部とする文献(『シェーでギャグのパフォーマンス おそ松くんはギャグの先生だった』/「サンデー毎日」90年8月5日号)も存在する。) 

因みに、連載が終了した70年代後半以降も『おそ松くん』は、ホームコミックス(汐文社・全5巻、76年)、サンコミックス(朝日ソノラマ・全10巻、79年)、ボンボンKCコミックス(講談社・全34巻、88年~89年)、竹書房文庫(竹書房・全7巻、95年+全22巻、04年~05年)、小学館文庫(小学館・全1巻、05年)等、複数の出版社から傑作選や完全版が復刻され、そのシリーズだけでも、凡百のギャグ漫画とは桁違いの冊数を弾き出している。

また、テレビアニメ化の決定により、当初はホームグラウンドである「週刊少年サンデー」一誌のみだった『おそ松くん』の連載が、その便乗企画で、「幼稚園」、「小学一年生」、「小学二年生」、「小学四年生」、「ボーイズライフ」といった小学館系各月刊誌において、相次いで開始されるようになると、そのポピュ ラリティーは弥増しに高まってゆき、連日、赤塚のもとに返信しきれない程のファンレターが、それまで以上に舞い込むようになった。

そうした流れから、オフィシャルファンクラブ「六つ子クラブ」を組織し、ファンとの連帯の輪を広げてゆく。そして、1965年からは、愛読者へのレスポンスとPRを兼ねたファン向けの会報誌「おそ松くんニュース」(全12号)、「おそ松くんブック」(2・3合併号を含む全12冊)、「まんが№1」(全7冊)を、赤塚自ら主宰するフジオ・プロより発刊。日々、驚異的な執筆スケジュールに忙殺され、講演やサイン会などの各種イベントやテレビ出演などにも借り出されていた赤塚が、その編纂にタッチすることは一切なく、マネージャーの横山孝雄に実務のほぼ全てを委ねるが、それでも、赤塚自身、レギュラーの連載や読み切りの執筆の合間を抜い、真心の篭った楽しいコマ漫画や漫画教室を熱心なファンに向けてコンスタントに提供するなど、ファンサービスを怠ることはなかった。

同じく1966年には、『おそ松くん』の爆発的人気に目を付けた華書房より、赤塚にとって初の自伝本『シェー‼の自叙伝』が刊行される。

赤塚の自伝的クロニクルは、僅かに90ページ程度で、残りの不足は、『おそ松くん』、『おた助くん』といった初期の代表的な赤塚ギャグ漫画で穴埋めした、些か杜撰な体裁の新書本であるが、「シェー‼」で満天下を沸かせ、一躍時の人となった赤塚の話題性と、漫画家という職業そのものがまだ広く認知されず、存在自体が物珍しかった時代のバックボーンもあり、『シェー‼の自叙伝』は順調に売れ続け、小規模ながらも、ロングセラーとして注目を浴びた。

尚、この本は、アイデアブレーンからスケジュール管理、スタッフの月給計算に至る雑用総務として、その後も長きに渡って赤塚をサポートしてゆく長谷邦夫がゴーストライターを務めた口述筆記本だ。(赤塚名義で発表された活字媒体の作品の多くは、長谷によって執筆されたものである。)

因みに、この華書房は翌67年に不渡りを出し、倒産したため、フジオ・プロがその在庫の多くを買い取り、新規描き下ろしのカバーを巻き直して読者へ頒布することとなる。

その後、華書房の社長であった末広千幸は、ロッキード事件に揺れ動く1976年、パラグアイにコミューンを作り、日本経済の破綻と国家の滅亡を煽ることで、壮大な移住計画を企てるといった大々的な霊感商法詐欺を働き、世間の耳目を集めるが、この詐欺事件をモチーフにした作品で、彼女をモデルにしたキャラクターとして広く世に知られているのが、藤子・F・不二雄の人気漫画『エスパー魔美』の「大預言者あらわる」に登場する銀河王であることをこの場にて補記しておきたい。


フジオ・プロダクション設立 大量生産時代へ

2019-10-15 12:21:17 | 第2章

西新宿に移転した後、保留されたままであった『おそ松くん』のアニメ企画は、具体的な放映開始日時からスポンサーに至るまですんなりと可決した。

因みに、アニメ『おそ松くん』の作画監督と総合演出は、この時スタジオ・ゼロの初代社長に就任していた鈴木伸一が担当することに相成った。

方位学見地に照らして、スタジオ移転が開運効果に繋がる鍵になったとは思い難いが、新天地へと飛翔した赤塚以外のスタジオ・ゼロの漫画家達も、既にその中心勢力がSFとギャグに二極化しつつあった折からの少年漫画誌隆盛の中で、更に人気作家としての活躍の度合いを増し、業界トップのシェアを寡占してゆく。

そして、三階の三四坪のフロアを、藤子不二雄の藤子スタジオ、つのだじろうのつのだプロダクションと三分割して貸し切り、市川ビルは、漫画ブームの上昇気流に乗って、自らも大空に大きく羽ばたきたい、そんな希望を抱いた若者達の烈々たるエネルギーで活気を呈するようになる。

TBSの大晦日の列島生中継で、藤子スタジオの様子が全国ネットで放映されたり、スタジオ・ゼロやフジオ・プロにも、NHKをはじめ多数のテレビクルーの取材が殺到したりと、都心に位置するだけの、ごく一般の複合ビルに過ぎなかっただけの市川ビルが、人気漫画の一大拠点ともいうべきファクトリーとして、一般にも広く認知されるようになったのも、移転後間もなくのことであった。

何しろ、観光バス会社からも、ツアーガイドの申し込みがあり、多数の団体旅行客が見学に訪れたというのだから、如何に市川ビルが注目のスポットとして話題を集めていたかがよくわかる。

社屋拡張に伴い、仕事もスタッフも一気に増えた赤塚は、自らのグループを株式会社フジオ・プロダクションと命名。執筆のスピードアップを図るべく、正式に完全分業制のシステムを採用し、長谷をアイデアブレーンとして、フジオ・プロに所属させた。

長谷のフジオ・プロ入りから程なくして、今度は、1970年以降、曙出版から刊行される赤塚単行本のカバーデザインや赤塚のトータル的なマネージメントを一手に引き受けることとなる横山孝雄もまた、フジオ・プロに新規参入することになり、ここで漸く、長谷、古谷、高井、北見、横山という、赤塚ギャグの全盛期を長期に渡り、バックアップしてゆく布陣が出揃うことになる。

赤塚は、これら有能なスタッフを率い、その才能を惜しみなく放出しながら、ギャグ漫画の第一人者として時代をフルスロットルで駆け抜けてゆく。

フジオ・プロでの執筆作業の分担やアイデア会議の合議制等の詳細は、後程スペースを割いて言及するが、ここでは、当時のハードスケジュール故の内部事情がもたらした、ギャグ漫画を地で行く『おそ松』関連の逸話を紹介したい。

六つ子が主人公である『おそ松くん』は、当然ながらヒトコマ、ヒトコマ、通常の漫画以上に多くのキャラクターを描かなければならない。

そこで、赤塚とスタッフとの間で、作業の効率アップを図るべく、コピー機を導入し、大量複写した六つ子の輪郭部分に表情を描き入れたものを原稿に切り貼りしてみてはどうかという意見交換がなされた。

そのアイデアに乗じた赤塚は、早速、当時としては高価なコピー機を購入し、その提案を実行に移すものの、細かな切り貼り作業は予想以上に手間が掛かった。

結局、描いた方が早いという結論に達し、このアイデアは僅か一年足らずで挫折してしまう。

しばし、都市伝説的に赤塚漫画のキャラクター達は、全てシールとなって画稿に貼り付けられていると語られることがあるが、それは恐らく、このエピソードを下敷きにネット上で自然発生した風説の流布だと思われる。


若き才能とエネルギーが結集したスタジオ・ゼロ

2019-10-08 03:10:45 | 第2章

北見が赤塚のアシスタントになって暫くした頃、前年、横山隆一主宰の動画制作プロダクション「おとぎプロ」を退社した鈴木伸一を中心に、藤子不二雄、石ノ森章太郎、つのだじろうらトキワ荘時代の盟友達が、アニメーション制作を業務目的とした有限会社「スタジオ・ゼロ」を設立。これまであった動画部の他に、雑誌部を発足させ、これを機に赤塚も資本家としての参加を打診される。

スタジオ・ゼロ動画部は、日本版ディズニー・プロを目指そうと、高い理想を掲げて設立されたが、現実は程遠いもので、いくつかのテレビアニメの企画を打ち出すものの、その全てが敢えなく没になったり、CMのアニメフィルムの絵コンテを制作した際も、下請けの仕事のため、雀の涙ほどの収入にしかならなかったりと、経済的なメリットをもたらすオファーは一切なかった。

しかし、会社としての利益を上げなければ、存続出来ない。

そこで、切迫する窮状の打開案として、雑誌に漫画を描き、その収入を社員の給料や動画の制作資金に充てるべく、雑誌部を新発足させたのだ。

新しもの好きで、賑やかなことに目がない赤塚は、スタジオ・ゼロに参加すると同時に、自らのスタッフも、スタジオ・ゼロの社員として呼び寄せてしまう。(この時、長谷邦夫も雑誌部を統括するチーフアシスタントとして参加することになる。)

社長の鈴木伸一以下、重役は全員、藤子や石ノ森ら漫画家で占められているため、社員は漫画家志望の青年二人しかおらず、これだけ社員が少ないとあっては、いかんせん、会社としても格好が付かないだろうという、赤塚なりの配慮が働いてのことだ。

スタジオ・ゼロの社長、重役、社員の他、赤塚とそのスタッフが加わると同時に、藤子やつのだらのスタッフも徐々に増員されてゆき、翌1965年4月2日、スタジオ・ゼロは、本拠地を丸ノ内線・新中野駅すぐそばの青果物倉庫から、新宿中央公園坂の下交番のトイメンに建てられた新築の市川ビルに移し、その三階と四階を雑誌部門となるそれぞれのスタジオと動画制作部に振り分けられることになる。

この移転を頑なに主張し、実現させた張本人こそ、他ならぬ赤塚だった。

当時、スタジオ・ゼロがオフィスを構えていた青果物倉庫は、相当な築年数を経ているだけではなく、屋根から外壁に至るまで全ての材料が下等品で、倉庫と呼ぶには申し訳ない木造建築のボロ小屋であった。

何しろ、スタジオ・ゼロのある二階に来客がある都度、階段のみならず、建物全体がグラグラと揺れ出し、二階床の板張りの隙間からは、階下の様子が丸見えだというのだから、長い間赤貧暮らしを送っていた赤塚ですら、自身の想像を越える劣悪な環境だったのであろう。

なので、こんな酷い建物を拠点にしていたら、テレビ局や制作会社の人間が最初から不信感を抱き、スタジオ・ゼロにとっても、マイナスイメージとなるばかりか、纏まる話も纏まらないのではないかという懸念が、赤塚の胸中に絶えず湧いていたのも十分理解出来る。

その後実現される『おそ松くん』のテレビアニメ化の企画であるが、実は、この新中野のスタジオ・ボロ時代に、既に大阪毎日放送から持ち込まれており、同局のプロデューサーやそのスタッフがチルドレンズ・コーナーの関係者を伴い、赤塚側にアプローチしてきていた。

前述したチルドレンズ・コーナーは、実際のところ、東映動画の外注プロとして創立されたインスタント会社であった。

従って、実績など何もなく、どれだけのクオリティーを確保出来るか、全くの未知数であり、そんな不安感から、テレビ局側も、全ての制作をチルドレンズ・コーナーに一任せず、スタジオ・ゼロ動画部と両分することで、スタートさせようという皮算用があったのかも知れない。

だが、スタジオ・ゼロに顔合わせに訪れ、その建物のあまりのオンボロぶりを目の当たりにしたテレビ局のプロデューサーや関係者等は、自ら、赤塚とコンタクトを取っておきながらも、何処か訝しさを抱いたのか、具体案を検討し、企画の素案だけでも完成させるといった前向きな姿勢を見せることもなく、『おそ松』アニメ化の話は、とりあえず、保留という形で収まるに留まった。

そうした経緯もあり、例え折半であったとしても、『おそ松くん』のアニメ製作をスタジオ・ゼロが受け持つことで、これを会社発展に繋がる根拠の一つに出来ないかと考えていた赤塚にとって、デラックスなビルへの移転は必須条件だったと言えよう。


プロダクション・システムの導入と古谷三敏の参入

2019-10-05 23:58:19 | 第2章

「シェー‼」の国民的大流行、原作漫画とテレビアニメのストーリー媒体の爆発的人気で、『おそ松くん』は、名実共に現代漫画を代表する大ヒット作品となり、一躍時代の最前線に躍り出た赤塚のもとに、テレビ、新聞、雑誌等、各マスコミからの取材が殺到する。

『おそ松くん』関連のサイン会やイベント、各界の著名人との対談にも駆り出され、遂には、テレビのバラエティー番組(『まんが海賊クイズ』/NETテレビ(現・テレビ朝日)、66年3月25日~68年4月5日、共演・黒柳徹子、森田拳次)にレギュラー出演するなど、熱狂的な人気に支えられながら、赤塚は時代の渦中へと巻き込まれてゆく。

マスメディアの露出に加え、一躍大人気漫画家となった赤塚に、出版各社から連載、読み切り等、更なる原稿の依頼が舞い込むようになる。

正に、一日一本の作品を消化しなければ、締め切りに追い付かないという執筆量を抱えることになった赤塚は、物理的な理由から、制作にあたり、作業の合理化を図るべく完全な分業体制を敷き、作品の大量生産をキープしてゆくプロダクションシステムを、ギャグ漫画家としてこの時初めて導入。1965年4月2日、前述した株式会社「フジオ・プロダクション」を設立する。

もともとフジオ・プロは、1962年頃、党員が増え過ぎたことによるトラブルが災いし、自然消滅した東日本漫画研究会の灯を絶やしたくないという想いから、当時既に売れっ子になりつつあった赤塚を中心に、長谷邦夫、横山孝雄、高井研一郎、よこたとくお、山内ジョージといったその残党と、この時、赤塚の最初の妻であった稲生登茂子らによって結成された「まんが七福人・プロダクション」を母体とした漫画製作システムである。

まんが七福人・プロは、その頃、忙しくなりつつあった赤塚の執筆をサポートする赤塚主体のプロダクションというよりも、それぞれ独立した漫画家達が、お互いを刺激し合いながら、新しい漫画を創造してゆこうという高邁な理念のもとに組織された、謂わば、新漫画党のスタイルや規模を矮小化したイメージの強いファクトリーであり、実際、千代田区神田の雑居ビルにオフィスを構え、赤塚を除く東日本漫画研究会の元メンバー達が、曙出版の『まんがクレイジィ』なる貸本向けの雑誌単行本に、作品を競作で発表するなどしていたが(9号まで刊行)、多忙による赤塚のチームそのものへの不参加と、神田に構えた事務所が安普請で南京虫の巣窟と化した衛生上の問題もあり、結局、その活動は不活発のまま、終止符を打つこととなった。

連載開始から一年目を迎えた1963年、遂に断トツの人気を誇るようになり、『おそ松くん』をもっと読みたいというファンからの要望が強まってきた状況に呼応するかのように、『おそ松くん』のページ数を増大させようという企画提案が「週刊少年サンデー」編集部より立ち上がる。

だが、当時のアシスタントは、妻の登茂子のほか、イレギュラーで助っ人に来ていた高井研一郎ぐらいしかおらず、赤塚としても、アシスタントを増やさないことには、それ以上のページ数の増加など、物理的に乗り切れるレベルではなかった。

そうした流れのなか、担当の樺島記者がアシスタントにと赤塚に紹介してきたのが、この時、少女漫画を中心に活動していた新進漫画家で、かつては手塚治虫のアシスタントを務めていたという古谷三敏であった。

当時、ストーリー漫画志望で、ギャグ漫画など漫画の範疇ではないといったある種の排他的感情を抱いていた古谷は、赤塚のアシスタントになることを固辞していたものの、樺島記者に半ば強制的に赤塚の仕事場に連れて来られ、なし崩し的にその仕事を手伝わされる羽目になったという。

その頃の心情を古谷はこう述懐する。

「僕はもともと手塚治虫のアシスタントですからね。あの人(名和註・手塚)は言ってみれば将軍さまみたいな感じなわけですよね。赤塚不二夫は大名としますよね。だから、そこのアシスタントですから直参の旗本なわけですよ、感覚的に。だから、当時、赤塚不二夫は「おそ松くん」ですごい売れていたんですけど、それがなんぼのもんじゃという感じがあるわけですよね。」

(『バカは死んでもバカなのだ・赤塚不二夫対談集』毎日新聞社、01年)

当初は、意に沿わない仕事を押し付けられ、気乗りしなかった古谷だったが、赤塚の謙虚で、尚且つフレンドリーな人柄に接しているうちに、次第にその人間的魅力に惹かれ、赤塚が日々格闘しているギャグ漫画というフィールドそのものにも興味を持ち始めてゆく。

また、赤塚は、掬い上げたギャグの良し悪しをモニタリングする客観的基準を設けることで、アイデアのレベルアップを目指そうと、樺島記者とのブレーンストーミングに、毎回古谷を同席させるようになる。

だが、この何気ない展開が、予期せぬ効を奏し、古谷の潜在していたギャグの天分を引き出すこととなったのだ。

赤塚と樺島記者の白熱するディスカッションも、最初は横目で見ていた古谷だったが、より気脈が通じ合い、興に乗じるようになると、古谷も時折、自らの意見を挟むようになり、赤塚のセンスさえも凌駕しかねない奇抜で斬新なギャグをいくつも発想し、いつしか、作品のテーマに対し、エフェクティブなアイデアを打ち出すまでになった。

そう、古谷が赤塚漫画の重要なパートと密接に連係することにより、作品世界に新たな血が注入され、ギャグ漫画という特質上、様式化されたアイデアを手に変え品を変え、繰り返さざるを得ない作劇上の限界を高い次元で乗り越えるとともに、笑いの構造領域を一層広げるいくつものメソッドが生まれたのだ。

尚、この時の古谷との奇妙な邂逅から、その後アシスタントとしての才気溢れる仕事ぶり、代表作の『ダメおやじ』のヒットにより、人気ギャグ漫画家への華麗なる転身を遂げてゆく道程を、赤塚の回想ダイジェスト『古谷三敏伝』(「少年サンデー 春休み増刊号」75年4月15日発行)で描かれているので、興味のある方は是非一読して頂きたい。

古谷が赤塚のチーフアシスタントとして、作画面からアイデア出しに至るまで、オールマイティーに機能するようになった頃、更に仕事の守備範囲も広がり、収入も一気に増えたことから、赤塚はもう一人のアシスタントを招き入れる。

漫画家志望の若者で、多摩美術大学付属芸術学園で写真技術を学び、その後、自ら写真館を営んでいたという異色の経歴を持つ北見けんいちだ。

元々手塚治虫の熱烈なファンだった北見は、特に赤塚作品が好きというわけではなく、「週刊少年サンデー」編集部に原稿を持ち込んだ際、たまたま北見と面会をしたのが赤塚担当の樺島記者で、その時、赤塚を紹介され、今、アシスタントを募集しているから、手伝ってみないかという誘いを受けたのがそもそもの始まりであった。

少しでも漫画の仕事に携わることが出来ればという心情から、その誘いを一もなく二もなく引き受け、藁をも掴む想いで、赤塚のアシスタントになったと語る北見だが、実はこの時、本命として、手塚治虫の虫プロのアニメーター募集にも、ちゃっかり履歴書を送っていた。

その時のことを北見はこう振り返る。

「ちょうどそのころ、虫プロでもアニメーターを募集してて、僕はそっちにも応募していたんですよ。で、三月に採用通知が来たんだけど、僕は一月(名和註・1964年)から赤塚先生のところに通っていて、もう三ヶ月もなじんじゃっていたから、そっち(名和註・漫画家)の道に進むことになったんです。運命ってわからないよねえ。今となっては、向こうに行っていなくてよかったと思うよ。」

(『総特集・赤塚不二夫』河出書房新社、08年)

当初は二、三年で見切りを付けて独立するつもりだったとのことだが、親分肌でありながらも、気さくで親しみやすい赤塚の傍らがこの上なく居心地良く、その後ブレイクする『釣りバカ日誌』(原作/やまさき十三)の作画を受け持つまで、実に十五年の長きに渡り、時には、赤塚のモラルの枠を超えた奔放な私生活に、多少ならずとも自身のプライベートを犠牲にされつつも、主に作画スタッフとして、また、その後長期連載することになる『赤塚不二夫のギャグ・ゲリラ』のアイデアブレーンとして、誠心誠意を尽くし、赤塚作品をフォローしてゆく。

但し、厳密に言えば、1964年当時、まだフジオ・プロという組織はなく、その制作工程も不定形で、アシスタントもそれほど多くなかったせいか、完全分業によって作業の合理化を図るシステムも確立されてはいなかった。