文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

これでいいのか!? 『これでいいのだ!! 映画★赤塚不二夫』論評

2023-03-30 14:09:31 | 論考

これでいいのだ!! 映画★赤塚不二夫の映画レビュー・感想・評価「テレビの特番以下の出来に期待はずれ~」 - Yahoo!映画

2011年4月30日、全国東映系にて『これでいいのだ!!    映画★赤塚不二夫』がゴールデンウィークの新作映画として公開された。

製作は、松田優作の『遊戯』シリーズや『ビー・バップ・ハイスクール』シリーズ、『あぶない刑事』シリーズと、1970年代から2000年代に掛け、邦画界の雄として時代を牽引してきた黒澤満率いるセントラル・アーツ。監督はこの作品がデビュー作となる佐藤英明。脚本はその佐藤と『踊る大捜査線』シリーズで一躍名を成した放送作家集団「パジャマ党」(萩本欽一主宰)出身のシナリオライター・君塚良一だ。

筆者は、漫画マニアでもあると同時に、大の映画マニアでもあり、取り分け邦画に対する想いは、他の映画ライター諸氏にも負けないくらい並々ならないものがある。

そんな自らの嗜好を語った上で敢えて言わせて頂くなら、この『これでいいのだ!!     映画★赤塚不二夫』は、筆者がこれまで鑑賞してきた古今東西の映画作品の中で、これ以上の駄作には御目に掛ったことがないと言っても憚らないほど、万死に値する最低最悪なレベルだったのだ。

実際、「映画・com」や「Yahoo!映画」、「Amazon」等のレビューを見ても、酷評のオンパレードで、人気の指数を示す★の数も及第点にすら及ばないほど、世間一般においても、その評価は圧倒的に低い。

では、どんな点がこの作品に駄作の烙印を押す要因になったのか。

その一つ一つを掘り下げて検証してみたい。

まず、ストーリーから簡潔に説明すれば、遡ること昭和42年、新入社員として小学館に入社した武田初美は、入社式で人気No.1のギャグ漫画家・赤塚不二夫に出会う。

当初は、赤塚の破天荒ぶりに不快感を示していた初美だったが、「週刊少年サンデー」編集部に配属され、編集長より赤塚の担当を命じられる。

初美は、気乗りしないまま、フジオ・プロに赴くが、やがて、赤塚の才能と人間的魅力に魅せられ、赤塚との二人三脚で数々の傑作ギャグ漫画を生み出してゆくというのがそのあらましだ。

主人公・赤塚不二夫を演ずるのは、『ねじ式』や『殺し屋1』等の名演でも知られる実力派俳優の浅野忠信。

生尻を出して走り回るなど、浅野忠信の怪演は、実際の赤塚本人とのシンクロニシティすら感じ、その一挙一動からも、赤塚に負けず劣らずギャグやおバカが大好きであるという浅野本来のキャラクターが伝わってくるかのようで、頗る好感が持てる。

新人編集者を演じた堀北真希も、その佇まいからか、『ALWAYS    三丁目の夕日』シリーズをはじめ、昭和に生きるヒロインを演じさせたら、ピカ一な存在だけに、本作においても、そのオーラは健在であった。

他にも、「週刊少年サンデー」の編集長役に佐藤浩市、赤塚の最初の妻・トシコ役に木村多江、そして赤塚の実母・ヨリ役にいしだあゆみといった名だたる演劇陣が脇を固める。

元来昭和キッズ特有の漫画ファンであった浅野は、1998年、ごま書房から復刊された『ギャグゲリラ』第1巻の巻末において推薦文を執筆するなど、赤塚マンガにも強い愛着を示しており、その浅野が本編の製作とともに赤塚役を務めると発表された際、個人的にその妙々たるキャスティングに対し、膝を打ったわけだが、本編鑑賞後、それは喜びから絶望に、絶望から怒りへと変質するであろうとは、この時は当然知る由もなかった。

どんなに魅力ある俳優、人気のある俳優を起用したところで、脚本と演出が駄目ならば、その作品がヒットしないのは当然だ。

ドラマは、長年赤塚とは公私ともに親しい間柄だった元「週刊少年サンデー」赤塚番記者の武居俊樹が2005年に文藝春秋より上梓した『赤塚不二夫のことを書いたのだ』をベースにしているものの、武居記者を女性化させるといった設定も含め、フィクション的要素が異常な程強く、時代考証も適当で、当時を知るリアルタイム世代や漫画マニアからしたら面喰らう内容なのだ。

原作の武居記者の著作そのものがかなり曖昧な記憶で書かれているため、風説を流布する展開になるであろうことは、予め予想は付いていたが、監督と脚本を務めた佐藤英明が、赤塚作品や赤塚の人物像そのものを、全く理解していないため、赤塚の創作に対する真摯な姿勢や、60年代から70年代に幾度となくブレイクを果たした赤塚を取り巻く世間、マスメディアからの熱狂的支持というものが一切伝わって来ない。

フィクションにしては、弾け足りない。ノンフィクションにしては、余りにも事実と掛け離れているといったどっち付かずの状態で、何とも後味の悪い、中途半端な仕上がりだ。

また、赤塚が単なる無教養でだらしなく、傍迷惑な存在としてのバカとしか描かれていない点は、特段に辟易とする箇所でもある。

赤塚の言うバカとは、常識や既成概念に捕らわれない規格外の人物であり、そのバカという言葉の中には、フロンティア・スピリッツや僅かながらの知性が含まれていることは言うまでもない。

そんな生き様をテーマにするのなら、赤塚の熱に浮かされたかのような創作へのエネルギーと、天衣無縫にして豪放磊落なそのキャラクター描写に心血を注ぐことが重要なのだ。

つまり、ギャグ・メーカーとして間断のない自己増殖を続け、奇っ怪な生活を送りながらも、その日常を作品にフィードバックさせ、様々な笑いの可能性を追求してゆく姿こそが、この時代の赤塚不二夫という展開にするべきだったと言うことだ。

ドラマの盛り上がりに乏しいのも、この作品に対する歯痒いところだ。

赤塚の作家としての偉業を描くなら、武居記者が赤塚番を務めていた昭和40年代だけでも、「シェー!!」の大流行にシンボライズされる『おそ松くん』の爆発的ヒット(昭和40年~41年)、ニャロメブーム(『もーれつア太郎』)の到来(44年~45年)、『天才バカボン』『レッツラゴン』『ギャグゲリラ』の三作品同時連載(47年~48年)と三度に渡って絶頂期を迎えており、その時のブームの様子を是非とも検証して欲しかった。

事実、この十年間においては、小学館漫画賞受賞(昭和40年)、長女誕生(40年)、レーシング・チーム「ZENY」の設立と赤字解散(43年~44年)、「週刊少年マガジン」から競合誌「週刊少年サンデー」への『天才バカボン』移籍事件(44年)、芸能プロダクション「フジビデオ・エンタープライズ」の立ち上げ(44年)、最愛の母の逝去(45年)、ニューヨークへの短期遊学(46年)、アニメーション製作会社「不二アートフィルム」の設立(46年)、雑誌「 まんがNo.1」の創刊と廃刊(47年~48年)、文藝春秋漫画賞受賞(47年)、最初の妻との離婚(48年)、経理担当による二億円横領事件(49年)、ギャグ漫画の登竜門「赤塚賞」(「週刊少年ジャンプ」)の設立(49年)と、赤塚自身、公私に渡り、波乱万丈の日常に身を委ねていた。

このような具体的な出来事をプロットとして正確に据え、光と影をもって迫る演出によって具現化したならば、物語にももっと深みが出たのではないだろうか。

本作の要として、赤塚と母親の関係が重要なプロットとして描かれている。

ただ、これも実に不快感を露にしたもので、取り分け顕著に感じるのが、いしだあゆみ演じるヨリが亡くなった時、その中で、赤塚がブリーフ一丁で泣きながら母親の亡骸に抱き付いているシーンである。

佐藤監督は、どういう演出意図でこのシーンを挟み込んだのが不明だが、赤塚自身、そんなことをして母親を看取っていないし、まさか、赤塚を不気味なマザコンとして晒し者にすることで、その人物像を全て描き切ろうと考えたのだろうか。

確かに、トキワ荘時代、赤塚は、息子の窮状を察し、身の回りの世話をすべく、上京して来た母親の抱き膝を枕代わりにするなど、仕事そっちのけでずっと母親にジャレ付いていたという。

その姿を目の当たりにした仲間達から「マザコンの極致」と失笑を受けたのも、決してネタの類いではないだろう。

しかし、赤塚で謂う所のマザコンとは、戦後間もない動乱期を、シベリアに抑留されていた父親に代わり、女の細腕一つで育てくれた母親に対する強い慕情の現れであって、単なる母親依存のそれとは全くもって異質なものなのだ。

原作者の武居俊樹、テーマとなった赤塚不二夫、浅野忠信、堀北真希をはじめとするキャスト陣、この映画のために恥を欠かされた人達は沢山いるが、演じ手の中で取り分け気の毒に思えてならなかったのが、赤塚もかつて大ファンであったいしだあゆみだ。

臨終したシーンの時などは、激痩せの上、ノーメイクで出演し、そこにライトを一杯に当てているものだから、いしだの姿がまるで捕らわれた宇宙人を彷彿させるかのようなのだ。

この監督は、映画そのものだけではなく、女優に対しても愛情がないのかと、図らずも勘繰ってしまう。

ただ、唯一嫌いにはなれないシーンもある。

それは、ラスト近くで、赤塚と元トリオ・ザ・パンチの内藤陳演じるマタギとの攻防のシーンで、内藤の静かなる迫力を秘めた満身創痍のキャラクターは、アーネスト・ヘミングウェイの『老人と海』の主人公・サンチャゴを想起させ、思わずにニヤリとさせられる。

監督の佐藤は、学生時代、内藤が新宿ゴールデン街に軒を構える「深夜+1」でアルバイトをしており、内藤とは師弟の間柄だった。

そんな佐藤の初監督作品のために、内藤はノーギャラで出演を快諾したというエピソードがある。

名だたる賞とは無縁の本作が、内藤の死後である翌年、唯一日本冒険小説協会特別賞を受賞したのも、同会の会長を務める内藤との関係があったからと見て間違いあるまい。

さて、話が横道に逸れてしまい、話題をドラマに戻すが、本作は、感性も才能も突出していない素人監督が己の主観だけで作品を撮ってはいけないという見本であり、本編中においても、著しく赤塚の存在や偉業を矮小化してやまない描写も多い。

物語の中盤、『もーれつア太郎』の人気が最下位に転落し、連載が打ち切られる運びになるが、連載が終了した1970年当時、ニャロメの大活躍で、そこまで人気が低迷するのは、絶対に有り得ない話であるし、『もーれつア太郎』よりずっと後に連載された『仙べえ』(藤子不二雄)が『ア太郎』を抜くという展開もまた、タイムラグが甚だしい。

更には、スランプに陥った赤塚が、長野の温泉地に雲隠れするという展開を迎えるが、実際は暴力団員の愛人女性とのトラブルから美人局に遭い、それを恐れて、長野の山奥まで逃げたというのが真相だ。

そもそも、70年代初頭から半ばに掛けて、週刊誌五本、二本の代筆を含め月刊誌七本の締め切りを抱えていた超売れっ子の赤塚が、寡作のつげ義春ではあるまいし、何ヵ月も長野の旅館で羽を伸ばしているなんて、違和感どころの話ではない。

その長野の旅館から、東京で赤塚の安否を心配する初美に、「ぼくは    いま    長野県の松山会館という民宿で     これを描いています    マドのそとは     ごらんのように    雪で真っ白です!!」の文字が描かれた、絵が何も入っていない真っ白な扉ページを『レッツラゴン』の第一回目として送るが、実際これは、『天才バカボン』(「眠れないのだ夢の中」/「週刊少年マガジン」74年13号)の扉ページで使われたもの。

『レッツラゴン』の初回の扉ページは、遊学中のニューヨークから航空便で送った筈。それに連載開始は1971年である。

美術に関しても、様々な赤塚関連の書籍で、当時スタジオを構えていた新宿十二社の市川ビルや代々木の村田ビル、中落合のひとみマンションなどの写真が相当数掲載されているのだから、そういった文献を漁って参考にするべきだった。

既に、市川ビル、村田ビルは取り壊されたので、
致し方ないにしても、赤塚マンガ全盛期に本拠地としていたひとみマンションは、名称を改め、未だ現存しているのだから、リアリズムを考慮して、そこでロケをして欲しかった。

個人的には、こちらも好きな作品とは言えないが、市川準監督の『トキワ荘の青春』(96年)では、その辺りの美術がしっかりしていたと思う。

セットに並べてあるフィギュア等のキャラクター・グッズもしかり。赤塚アニメが1980年代後半にリバイバルした際、トミーから発売したものを見繕っており、興醒め。

やはり、当時発売されていたマスダヤや今井科学、アオシマ文化教材社等のブリキ人形やプラモデルなどのグッズを並べ、時代考証を的確にすることは、選択肢の一つとしてもなかったのだろうか。

近年、伝説の浅草芸人・深見千三郎のもとで芸人修行に励むビートたけしの青春時代を描いた名作「浅草キッド」や、明石家さんまと不肖の付き人・ジミー大西との泣き笑いの交流とその師弟関係を綴った「Jimmy~アホみたいなホンマの話~」、2020年に新型コロナウイルスの感染を伴う肺炎で死去した志村けんの生涯をテーマとした「志村けんとドリフ大爆笑物語」といった、大御所お笑い芸人をフィーチャーした作品が続々と映像化された経緯から、この作品では描かれなかったタモリと赤塚不二夫の出会いをテーマとした物語を是非、映画、ドラマなりで観てみたいという声がネットを中心にチラホラ聞こえる。

だが、死して尚、赤塚不二夫という存在が国民のサンドバッグであるかの如く、叩かれ続けている現状を思うと、そのような映画なり、ドラマなりは、何があっても製作して欲しくないというのが、赤塚不二夫ディレッタントである筆者の切なる願いでもある。

何故ならば、タモリという稀代のエンターテイナーを持ち上げるために、赤塚の存在を徹底して愚弄するドラマとして仕上がり、そうした作られた不名誉が公然とした歴史的事実として、泡沫SNSユーザーらによって連綿と語り継がれることは、火を見るより明らかだからだ。

尚、本編を監督した佐藤英明だが、その後、商業映画において再びメガフォンを執ることはなく、2016年、心筋梗塞により五四歳の若さでその生涯に幕を閉じることになる。

佐藤英明は、『これでいいのだ!!     映画★赤塚不二夫』に向けられた世の批判を発奮材料に、暫し雌伏の時を経て、映画監督として再チャレンジしたいという希望を抱いていたとも聞く。

佐藤監督の次回作を鑑賞してみたかったとは露程も思わなかったが、まだ亡くなるには早過ぎるその年齢を慮ると、気の毒に思えてはならない。

この場にて、改めて佐藤監督のご冥福をお祈りしたい。