赤塚漫画が持つ諧謔性、ナンセンス性故に、本来タブー視されて然るべきスプラッター描写も、一つのブラックユーモアとして容認され、取り分けその傾向は、規制のない大人向け漫画を媒体とした際、顕著に現れる。
銀座の路上で、現金一億円入りの風呂敷包みを拾ったトラック運転手が、その後、遺失物法により全額所有権を取得するという、「一億円拾得事件」に材を求めた「悪魔の棲む金」(80年5月15日号)では、目ん玉つながりが、その一億円を拾う役どころで登場した。
警察官が、勤務中に遺失物を拾得した場合、法律上、遺失物取得者の権利が失効してしまうため、目ん玉つながりは、一般市民と同等の立場となる非番になるその時間まで、職務を放棄し、風呂敷包みを前に待ち続ける。
その場を一歩も動けないため、小便や大便を垂れ流し、ひたすら非番になる瞬間を待ち続ける目ん玉つながりだったが、とうとう見境が付かなくなり、現金を交番に届けに行こうとした子供や、非番になった時のため、私服を譲ってもらうつもりだったサラリーマンを、警棒で撲殺したり、撃ち殺したりと、鬼畜の如き凶行へと及ぶ。
そして、目ん玉つながりが勤務時間を終え、待ちに待った非番となった時、場面は路地裏へと変わり、テレビ局のディレクターと、ドッキリカメラと書かれた看板を手にしたタレントとの次のようなやり取りが落ちとして付く。
「おい 大変なことになっちゃったよ…… 人を三人も殺っちゃったよ……」
「出るに出られないぞ こりゃ……」
このように、時事ネタを扱った作品もまた、一種異様な不条理さが渦巻き、その笑いは、ラディカルな水平思考と奇想天外なロジックを論拠に、より毒々しく紡がれてゆく。
『ギャグゲリラ』成功の鍵を分析するならば、センチメンタリズムと峻別した乾いたギャグに、全ての展開を委ねたところにある。
そして、その時起きた事件や社会的な事柄に対し、一般市民が抱くであろう多種多様な感情が、ブラックユーモアを基本形態としながらも、各エピソードに、人間ドラマとしてのメリハリや躍動感を吹き込む生命線の役割を担うのだ。
また、エピソードによっては、エスタブリッシュメントが頑なまでにしがみ付こうとするコモンセンスや思想規範さえ、嘲笑の対象として徹底的に皮肉られ、その心性に滲み込んだ人間のそこはかとない俗物性や狡猾さが、鋭敏なウィットによって、浮き彫りにされてゆく。
ここで言う鋭敏なウィットとは、パロディー的視座に立脚した、赤塚独特のレトリックにある。
そうした見地に照らし合わせた場合においても、この『ギャグゲリラ』は、赤塚の文化的パロディストとしての精髄を最も濃密に宿した、赤塚成人向け漫画の原点にして、決定打であると位置付けて然るべきシリーズと言えるだろう。
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