1974年、前年のオイルショックに端を発する世界的な経済混乱は、更なる物価の上昇や通貨膨張を引き起こすなど、深刻化の一途を辿り、先行き不透明な時代の渦中にあった。
また、そうした社会的フラストレーションを反映してか、ユリ・ゲラーの超能力パフォーマンスが話題を独占したほか、映画「エクソシスト」(監督/ウィリアム・フリードキン)が日本公開され、五島勉の「ノストラダムスの大予言」がベストセラーになるなど、オカルトブームが日本全土を席巻した年でもあった。
第三期連載のピリオドを飾る74~75年度に描かれた『バカボン』には、そんな如何わしき時代相に歩調を合わせた、ともすれば、読者にトラウマを植え付けかねない、怪奇趣味濃厚なエピソードも数多く描かれることになる。
この頃は、オカルトブームの影響なのか、不幸の手紙なる悪辣なジョークが全国的に蔓延し、社会問題を引き起こすことになるが、やはり『バカボン』でも、この不幸の手紙が、そのままストーリーの題材として時宜的に扱われ、恐怖感漂うサイコパスドラマへと昇華された。
「不幸のピーナッツの手紙ですのだ」(74年29号)と題されたエピソードがそれで、表題からも分かるように、本編の核となる手紙をピーナッツに差し換えているのがミソ。
ストーリーは、四八時間以内に食べたら死ぬと書かれた手紙と一緒に送られてきた不幸のピーナッツを受け取ったバカ大の後輩と、それを是が非でも食べさせようと差し迫るバカボンのパパとの激しいせめぎ合いを、画稿狭しと盛り込んだ、極めてシンプルなドタバタ風味溢れるエピソードの一つだが、最後は総毛立つ恐怖を伴ったブラッキーな結末へと収束し、読者を仰天させる。
尚、このピーナッツというキーワードから、本作品が、同年十一月に首相退陣した田中角栄のロッキード疑獄からインスパイアされて描かれたと訴える向きもあるが、トライスター販売の工作資金への領収書に記されたピーナッツ(防衛庁による早期警戒機・P3‐C(ロッキード社製)の導入疑惑に絡んだ暗号の説もある。)が流行語になるのは、ロッキード裁判の渦中にあった1976年であり、本作が発表された二年後のことであった。
赤塚には、作品を執筆するに向け、このような時代の行く末を鋭く予見する不思議な嗅覚が、潜在意識において、敏感に働くことが多々あった。
しかし、こうしたオカルティックな作品群の中でも、筆者が特別に愛着を寄せるエピソードは、悪夢的な笑いを取り入れた、超自然的な怪異譚であり、それら出色の諸作品についても、この場にて纏めて論及しておきたい。
*
「30年目の初顔合せなのだ」(「別冊少年マガジン」74年11月号)は、虚構と現実が未分化に具象化した紙一重のテイストが、作品の持つ不条理な位相を更に深めてゆく、エンドレスホラーの傑作。
バカボンのパパには、三〇年間、付き合っている友人がいるが、未だ一度も彼の姿を目にしたことがなく、会っても、常にその手だけしか見たことがなかった。
ある日パパは、今日こそはその正体を確認しようと、友人宅を訪れる。
彼には、妻と小学生の息子がいた。
その妻と息子もまた、人前では、手だけしか見せないのだ。
その友人や家族とは、将棋を指すのも、すき焼きをつつくのも、いつも襖越しであるため、パパはちっとも面白くない。
苛立ったパパは、彼らの顔を見たい一心で、咄嗟に襖を開けるが、隣の部屋は、裳抜けの殻だった。
だが、パパがまた襖を閉めると、再び三つの手が現れ、どんちゃん騒ぎをし出すのだ。
業を煮やしたパパは、三人が寝静まった頃合いを見計り、何と、友人宅を放火する。
パパは、燃え盛る家の窓から、助けを求める三つの手を見定めるが、結局その姿はわからぬまま、家は全焼してしまう。
そして、翌日の新聞には、火災現場から、焼死体が発見されず、三つの手の骨だけが遺されていたというニュースが報じられる。
友人とその家族は、果たして本当に存在したのか……。
謎が謎を呼ぶ、唐突で呆気ないラストも強い印象を残す一作だ。
このような摩訶不思議なシチュエーションと、ドライなハードナンセンスとの結合は、軽度な眩暈感をもたらすだけではなく、異世界のロジックを基盤とした作劇の妙故に、読む側に虚構の黙約を取り付け、超現実を現実化した日常的前提を、そのドラマの中に屹立させる役割を果たすのだ。
*
この他にも、パパの夢に現れた巨大な電動ノコギリが、現実世界でパパやバカボンを襲い、足や身体を切断してゆく恐怖の連鎖が、衝撃的震撼を引き起こす「夢のノコギリの大切なのだ」(74年26号)や、慌て者の神様が、イスとイヌを履き違え、イスに生命を宿してしまったことに端緒を為す珍トラブルをプロットに据えた「エクソイストの大恐怖なのだ」(74年38号)といった作品も、非現実的ファンタジーを、現実の枠組みの中に織り込み、そこから生じる意味の落差を、心地好いトワイライトへと昇華してゆく、高度なパラレル図式を持った秀作と言えるだろう。
因みに、バカ大の後輩達の見た夢が現実のものとなり、奇怪な形の自転車を拾ったり、遭遇した宇宙人と昼間から飲み歩いたりと、お伽噺のテイストを持ち込んだ導入部も秀逸な「夢のノコギリの大切なのだ」は、その後パパが悪夢の世界に翻弄されるサスペンスフルな展開を迎え、殺気立った緊張感がドラマ全体の空気を支配する中、ラストはパパがノコギリを壊し、粗末に棄てたことに全てが起因するという、因果律が落ちとして付く。
このように、パラレルな世界を往還する奇形の物語でありながらも、そのドラマトゥルギーは、ロジカルなシークエンスによって貫かれており、本作品のエピソード自体の完成度は頗る高い。
そして、これらの慄然を湛えた諸タイトルは、ナンセンスにおける様々な意匠を追求する中、暗澹たる世紀末ムードへのディアクロニシティが、新たな異化作用を誘引し、シニカルな先鋭的ギャグセンスとキュリアスなオカルト的発想が激しく共鳴し合う禍々しき『バカボン』ワールドの新境地を拓くに至った、まさに深化の系譜そのものだったと言えよう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます