文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

多種多様な『バカボン』ワールドを包括的に捉えたショートショート・シリーズ

2021-05-22 21:27:51 | 第5章

 

週刊誌連載では、終焉期を迎えることとなる第四期『バカボン』は、毎週5ページという限られたスペースの中に、ドラマをコンパクトに凝縮したギャグ漫画版ショートショートといった体裁のシリーズであるが、短いページ数ながらも、多種多彩な『バカボン』ワールドの全体像を包括的に捉えた好企画で、赤塚らしい先鋭的表現の領域を歩んだ挿話も少なくない。

パパがたい焼きで巨万の富を得た先輩の大邸宅に遊びに行く「億万長者の家をご訪問なのだ」(76年14号)は、パパが先輩の邸宅の庭番に、「ご主人にバカボンのパパがきたとつたえてください」と伝える、何の変哲もない平凡な導入部から始まる。

だが、庭番が女中に「女中さん バカボンファーザーがきました」と耳打ちしてから一転、女中は女中頭に「バカファーザーがおこしになりました‼」と告げ、ドラマはおかしな流れへと変転してゆく。

女中からその言葉を受けた女中頭は、執事に「バカファーザーがおころしにきました‼」と緊迫した面持ちで報告する。

大慌ての執事は、執事長に「バカファーザーが殺しにきました‼」と伝えるなど、伝言内容は、更にエスカレートし、秘書室長の耳に入った時は、「ゴッドファーザーがご主人を殺しに‼」に変わり、その言葉は夫人を経由し、殺人予告として、先輩の耳に入る。

怒った先輩は、「よーし こっちこそ やつのドテッぱらに風穴をあけてやれ‼」と夫人に伝える。

その言葉は、秘書室長に「ようし こっちこそ風穴をあけてやるのよ‼」と伝言され、今度は「「ようこそ」と風穴をあけるんだ‼」と執事長に伝えられる。

そして、執事長から「ようこそだ‼風穴をとおすんだ‼」と報告を受けた執事は、女中頭に「ようこそきたなと風穴をとおせ‼」と託け、そのメッセージは「ようこそきたなととおすのよ‼」と歪曲され、女中へと取り次がれる。

最後に女中から「ようこそおいでくださいましたとおとおしするのよ」と耳打ちされた庭番が、「ようこそおいでくださいました‼どうぞ‼     ご主人がおまちです」と、より丁寧な言葉をパパに告げ、邸宅へと案内する。

テーマから大きく外れつつも、最後には、再び同一のテーマへと帰納する循環と反復の相互浸透を違和感のない笑いへと置換してゆく作劇上のテクニックが、既成のギャグ漫画の表出水準を上回る精度を殊の外際立たせており、通常の赤塚ナンセンスの発展形としての刻印を明瞭化せしめている。

針小棒大を主題に、現代人の頽落ぶりを炙り出したファルスは数あれど、これほど簡潔で、またアイロニーに満ちた類型提示は見たことがなく、地味ながらも、本作に注がれたそのエスプリットは至りて絶妙だ。

「アレをのみたいのだ」(76年26号)は、アレを飲みたい、飲みたいと渇望するバカ大の後輩に、パパが困惑するエピソードで、結局何が飲みたいのか、分からないまま落ちを迎えるが、その落ちのコマを透かして見た瞬間、後輩の飲みたいものがそこに浮かび上がるという、漫画の方法論の拡大にも繋がる見事なトリックが仕組まれており、これまた、落ちが突発的なファンタジーへと帰結してゆく傑作だ。

書籍媒体ならではの特質をギャグへと組み換えたそのギミック性は、物語の予定調和さえも覆してゆく脱漫画的な浮遊感覚を強く滲ませており、読者に鮮烈な驚倒を指し示すであろうメソッドであることは間違いない。

こうした予期せぬ混乱と驚きを爼上に乗せ、書物という物質そのものの意味作用を弄ぶギャグは、この時既に、多方面に渡り展開していた。

バカボンのパパが、ドラマの本筋とは関係なく、今週限りで死んでしまうという寝耳に水のプロローグから始まる「神様と約束なのだ」(73年11号)は、漫画評論の分野において、語られる頻度こそないに等しいものの、掲載誌「少年マガジン」のカバーからいきなり『バカボン』が始まるといった、ビジュアル的訴求性を最大限に活かしたパフォーマンスを、この時披露しており、ギャグ師・赤塚の武勇伝の一端として、未だコアなファンの間で語り継がれている。


キッチュとアバンギャルドの二律背反 壮大なギャグの実験場となった「10本立て大興行」

2021-05-22 13:55:26 | 第5章

キッチュとアバンギャルドの両概念を、同一の合理性を伴い、融合させたファースの見本市、その名も「10本立て大興行」(72年51号)は、「赤塚不二夫ワンマンショー」と銘打ち企画された、壮大なギャグの実験場としての畏怖さえ感じさせる、空前にして絶後のナンセンス超大作だ。

70ページにも及ぶ十本立てのエピソードの中で、特に異端性を放つのが、「下落合タイムス」や「事実小説 フジオ・プロにタコヤキを見た」といった、本来の漫画とは異なる趣向で読者にアプローチしたユーモアページである。

近隣住民しか知り得ない商店の広告や、地域交流を主眼としたマニアックなトピックが新聞記事に準え、臆面もなく掲載されたり、通常ペラと呼ばれる20行×10行の二〇〇字詰め原稿用紙六枚に渡って、挿し絵付きナンセンス小説がダラダラ書き綴られていたりと、いずれも、非存在の領域から更なる笑いの有効性を模索した、赤塚の創作に対するフロンティア精神の発露となっている。

尚、「フジオ・プロにタコヤキを見た」は、一応ユーモア小説の体を成してはいるが、「五十嵐記者は今朝からユウウツだった。重い百キロぐらいもあろうか、とにかく重いキンタマ、いや頭をゲタで出来た枕から上げたのはちょうど時計の針が7時を指してる午後九時だった。」といった支離滅裂なプロローグが全てを物語るように、内容らしい内容は全くもってない。

とはいえ、漫画や小説本来の物語性からも離反した特異な価値を持つこの抽象領域には、赤塚が求める脱論理性を存立基盤に据えた不条理感覚が、至るところで散見出来るなど、決して軽んじては見れない。

また、同じく「10本立て大興行」に収録されている「フジオ・プロ実験漫画研究会」なる架空の団体が執筆した「これはイケない‼」では、飽きっぽい部員が描いた漫画という設定で、バカボンとその友達の身体の一部や背景がどんどん消えてゆき、最後は二人の目だけが残り、全ての物体が跡形もなく喪失してしまう、ミニマルアートの最終形態とも言うべきフリーダムな奇想がドラマ全般において貫かれており、定型の構成を持たない抽象芸術ならではの視覚的効果を追求した、アーティスティックな破壊的愉悦がそこにある。

このように、原作者自らがトリックスターとなって、読者の想像力に過激な挑発を繰り出してゆくギャグは、作者と読者の気持ちが一体化して初めて成立するものであり、それを翻然として悟った赤塚は、この後更に、漫画を描くという営為そのものを笑いへと変容させてゆく。


痛烈な矢を射込んで迫り来るウィットに富んだ言葉遊び

2021-05-20 07:45:10 | 第5章

こうしたウィットを伴った赤塚独特の言葉遊びは、キャラクターの投げ掛けた言葉が意外な形に加工されて跳ね返り、痛烈な矢を射込んで読者に迫り来るといった、より過激さを孕んだ様態を呈してくる。

その最たるエピソードが、東大出のインテリ泥棒に犯罪用語を連発し、尋問する目ん玉つながりの無教養ぶりを、教育水準の格差に絡めて、徹底的に弄り倒した「おまわりポリ公のダジャレ合戦1」(74年9号)であろう。

目ん玉つながりが、「おまえのダチ(友達)はな マエ(前科)があってな タタキ(強盗)カツアゲ(恐喝)カッパライ(窃盗)スケコマシ(女騙し)にコロシ(殺人)までやってムショ(刑務所)からトンズラ(脱走)した大ワル(犯罪者)なんだぞ‼ あんなやつがハジキ(拳銃)やヤッパ(短刀)をのんで(持って)シャバをウロチョロ(徘徊)されちゃヤバい(大変な)んだよ‼」と息巻けば、東大出の容疑者は、「東大の哲学の教授の講義より難解だなあ・・・・ ナンカイきいてもわからないや‼」とぼやき、尻尾を巻くといった全く噛み合わない遣り取りが延々と続く。

目ん玉つながりは、インテリ泥棒の提案から、意思の疎通を図るべく、新たな隠語を作り、再度取り調べに挑もうとするが……。

この目ん玉つながりとインテリ泥棒との掛け合いは、その後も「おまわりポリ公のダジャレ合戦2」(74年10号)、「おまわりポリ公のダジャレ合戦3」(74年11号)、「天才シャレなしバカボン」(74年12号)と、三週に渡って続き、通常の『バカボン』のモデルケースとは明確な差違を示す漫才的対話に、ドラマの一貫を求めた新シリーズとしてプレゼンテーションされる。

日常からの転覆を図ったコント的浮遊性が持つエキセントリックな世界観とは無縁のシリーズだが、駄洒落や言葉遊びの畳み掛けに、起伏に満ちた張りと高揚感を溶解させてゆくことで、各話とも、ズレ下がりのドラマ特有の停滞性を超越した目眩く動態性を、その認識影響の中に深く及ぼしている。

漫画執筆における台詞の役割は、あくまで補助的であると指摘されることが多々あるが、特にこれらの諸作品は、その吹き出しの中に、絵にも勝る面白さがあるという典型例を示しており、赤塚漫画の鋭さは、絵やアイデアよりも、この台詞廻しの卓越ぶりにあると、飯沢匡、吉行淳之介、野坂昭如、井上ひさし、筒井康隆、東海林さだお等、高名な作家達の間でも、その評価は頗る高い。

また、岸田國士戯曲賞を受賞した劇作家の別役実は、その不条理性溢れる独特のドラマトゥルギーと哲学的寓意を含有したダイアローグに惚れ込み、1978年に『天才バカボンのパパなのだ』(10月14日~10月22日、文学座アトリエにて上演)というタイトルで舞台化し、一部より高い声誉を得るに至ったことも、この場にて追記しておきたい。


「角い角い世界なのだ」に見る想念的実験と画一化した世界へのアフォリズム

2021-05-19 13:05:46 | 第5章

こうした想念的実験をベースに踏まえたシミュレーションは、この世に存在する森羅万象全ての「丸」が「角」へと変貌してしまったバーチャルな物語を、不条理劇のような寸劇スタイルで規範化した「角い角い世界なのだ」(73年13号)でも融通し、用いられている。

「ガリレオ・ガリレイは「地球は四角い」という大発見をした‼」というモノローグから始まる本作は、吹き出しは勿論、背景の太陽や自転車、自動車のタイヤも四角く、ハタ坊の日の丸の旗も日の角になっており、本編の狂言廻しであるバカボンのパパもまた、パの字が◯であるため、バカボンのババに呼び名が変わっているといった、徹底したパラダイム転換を発想の原点に求めたイリュージョニズムが、そのフレームの中で確保されつつも、最後には、仮想と現実との間のズレが出し抜けに明示され、このドラマにおけるデフォルトを一気に覆してゆく。

「全てが画一化された四角四面の世の中じゃ、豊かな情緒も文化も生まれない」

これは、1980年代、とあるテレビ番組に、赤塚がゲスト出演した際、統一され、平準化した指導理念によって支配されつつあった学校教育の現場、延いては、あらゆる価値概念が均一化してゆく社会全般の意識の在り方に対し、冗談交じりに呟いた箴言の一つだそうだが、非生産性を成立根拠とするナンセンス漫画の特性を纏ったエピソードでありながらも、その根幹を支えるテーゼに、そうした赤塚らしい反骨のメッセージが込められているように思えてならないのは、私だけだろうか……。

また、「丸」を「角」に変換した言葉遊びも相変わらずの冴えを見せ、パパが読む新聞記事に書かれた見出しは、「田中角栄 〝角(円)切り上げ〟についてのべる」「西ドイツのカク(マル)クはどうなる」「東京 角(丸)の内の角(丸)ビルに金庫ドロ」「過激派学生革角(マル)派内ゲバで三人死亡」「ことしも火をふくか ジャイアンツ□(O)N砲」といった案配で、空飛ぶ円盤は空飛ぶ角盤へと挿げ替えられる。

そして、バカボンのパパは、その角盤に乗って、地球へと訪れた宇宙人と遭遇する。 

その宇宙人は、故郷である星で角(核)戦争が勃発し、それを角(丸)く収めたご褒美として、地球旅行をプレゼントされたとパパに語るのだった。

宇宙人は、日活ロマンポルノの「大奥カク秘(□の中に秘と表記)物語」を観たいとパパに懇願するものの、パパに「だめだめ‼あれは成人映画なのだ‼」とたしなめられる。

その後も負けじと、宇宙人が「ぼくは星人だから 成人映画を見てもいいんだ‼」と反論するなど、駄洒落によるお約束のやり取りも、高いディメンションによって紡がれており、そのネームの練達ぶりは、このような言語反復からも窺い知ることが出来よう。

ところで、本エピソードに登場する宇宙人が観たいと語る実際の『大奥㊙物語』の配給は、日活ではなく東映で、公開年も1967年と、時期的にもずれている。

本作が発表された時期から察するに、この「大奥カク秘物語」は、小川節子主演による日活ロマンポルノ映画『㊙大奥外伝 尼寺淫の門』(監督/藤井克彦)のことを指しているのではないだろうか……。


「キェンキャイキャキャキョン」 言語の解体と遊戯化

2021-05-18 14:01:25 | 第5章

エピソード内の全ての台詞をキャ行に変換し、展開してゆく「キェンキャイキャキャキョン」(72年17号)は、言語の解体と遊戯化を融合せしめた数ある『バカボン』ワールドにおいても、ナンセンスに隣接したSF的寓意が、読者の思考の盲点を突く、メタフィジカルなデペイズマン的構造を包含した好事例として、是非とも刮目して欲しい一作だ。

「キャキャキュキャキュキャオ キュキャオキュロ」(赤塚不二夫とフジオ・プロ)と変換された執筆者名からも分かるように、読者が意味を判読し得るギリギリのラインで、キャキャ語へと置き換えられたこの作品は、ある朝、パパが目覚めると、バカボンの左手人差し指が人面疽状になっており、その指が腹話術人形のように、「キュキャヨウ‼」(おはよう‼)と挨拶するところから始まる。

その後も、「キャウハ キェンキ イイキョ」(今日は天気いいよ)と、パパに話し掛けるバカボンだったが、パパはさっぱりその意味が解らない。

外に出ると、レレレのおじさんから「キョレキャケキェスカ?」(おでかけですか?)と挨拶され、目ん玉つながりからは「キュラ‼ キャイホキュルキョ」(こら‼ 逮捕するぞ)と怒鳴られる。

そう、みんな、人面疽を持って、キャキャ語を話すのだ。

商店街に繰り出すと、街中の看板も全てキャキャ語にすり替わっている。

「キャキンコ」(パチンコ)、「キャッポロキャーメン」(サッポロラーメン)、「キャムラキャン」(木村パン)といった具合だ。

また、電話帳を開くと、記載されている電話番号までが、数字ではなく、キャキャ語変換されていたり、テレビを点ければ、落語家のキャツラキャンシ(桂三枝)が、「エー キャイド キャパキャパシイ オキャナシヲ キョーシキャゲキャス」(えー、毎度馬鹿馬鹿しいお話を申し上げます)と前口上を述べていたりと、キャキャ語は、更に大量なウェイトを伴い、あらゆる媒体を通し、パパに迫り来る。

パパは一刻も早くキャキャ語を理解し、その言語世界に同化しようと、人差し指をハンマーで叩き、人面疽を作ろうと試みるが、結局指が膨れ上がっただけだった。

だが、努力の甲斐もあり、いつしか、パパはキャキャ語を喋れるようになる。

「キョレデキャイノダ」(これでいいのだ)と、安心して眠りに付くパパだったが、ドラマは思わぬ急展開によって決着を見る。

流動する秩序に過剰な波動を引き起こす、恐るべき仮構的世界。まさにそこは、精神の原風景にさえ、不合理な非体系化をもたらす無の領域と例えて憚らないだろう。

だが、その超展開的な不条理性感度は、超越論的次元へとループする非現実の合理性がラディカルなまでに、指し示されているが故、発想の初期段階より、ナンセンス漫画固有の虚構的概念が既に覚醒状態にあり、恰もパラノイア的夢想空間に足を踏み入れたかのような、ヘテロドックスなトリップ感覚を読者に植え付けて余りある、強固なファクターになり得ているのだ。

このような誇張を極限までに推し進めた言語遊戯を本作のテーマに据えた赤塚の脳構造は、一体どうなっているのか……。

長谷邦夫は、本作が執筆された背景に、赤塚が古くからの映画マニアであったことを一つの仮説として挙げている。

その上で、自著(『天才バカ本なのだ‼』)の中で、長谷は、本作を描く上でのヒントになった作品こそ、シドニー・ギリアット監督による1950年公開のイギリス映画『絶壁の彼方に』(主演/ダグラス・フェアバンクス・Jr.)ではないかと推論した。

『絶壁の彼方に』は、東西冷戦の真っ只中にあった時代に、西欧諸国が脅威に感じていた架空の東欧小国・ヴォスニアで、それまでの研究成果が高い評価を受け、表彰されることとなったアメリカの天才ドクターが、この地に訪れたことによって巻き込まれるトラブルを、緩急自在の劇構成を基軸にサスペンスフルに切り取った、1950年代のイギリスを代表する活劇映画の一本だ。

この作品、架空の国を舞台設定としているため、そこで使われる言語も、世界中の誰もが聞いたことのないヴォスニア語が考案され、劇中、飛び交うという実に凝った演出が施されているのだ。

何しろ、このヴォスニア語、シドニー・ギリアットのオファーを受けた複数の言語学者によって、チェコスロバキア、エストニア、フィンランド、ハンガリーの各国語をベースに創作されたもので、本編中、バーの看板や切手、新聞から書物に至る全ての小道具においても、使用されるといった徹底ぶりだ。

全く言葉の通じない国に、一人閉ざされた恐怖……。

成る程、言語的寓意を強めた「キェンキャイキャキャキョン」のその世界観とも、軌を一にしていると言えなくもない。

実際、筆者(名和)も名画座巡りを趣味としていた学生時代、この『絶壁の彼方に』をスクリーンで初めて鑑賞し、真っ先に思い浮かんだのが、本作「キェンキャイキャキャキョン」だった。

また、『絶壁の彼方に』の脚本を担当したフランク・ローンダーとシドニー・ギリアットの二人は、本作を発表する以前、アルフレッド・ヒッチコック監督にとってのイギリス時代の代表作『バルカン超特急』(主演/マーガレット・ロックウッド)のシナリオも共同執筆しており、バンドリカという仮想国を舞台にした物語を、この時既に創出していた。

ヒッチコック作品の大ファンであった赤塚が、そうした守備範囲の関係から『絶壁の彼方に』を観て、その特異なシチュエーションに、視覚的なインパクトを受けたであろうことは想像に難くない。

今となっては、状況証拠を元にした検証でしか語ることが出来ないが、そうした赤塚の嗜好を照らし合わせたうえでも、この長谷の推論が的外れであることはなさそうだ。