文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

誰が主役になっても違和感のない強烈なキャラクター群

2019-05-21 21:18:21 | 第2章

そこで、必要となったのは、強烈なビジュアルインパクトを放つ、しかし、読者のハートにフィットする親和感とスター性を兼ね揃えた新たなバイプレイヤーを作り出し、形骸化しつつあった『おそ松くん』の世界観を一新することであった。

まず、手始めに、六つ子の好敵手として『ナマちゃん』の脇役から人気キャラクターへと成長し、その後、一枚看板として主役を張るまでに至ったカン太郎を原型としたチビ太の出番を増やすことにした。

続いて、作品世界において、常にトラブルの発端となるアンチヒーローとして、長髪、三枚出っ歯のサイテー男・イヤミ、更に、彼らを取り巻くサブキャラクターとして、オールシーズン、でっかい縦縞パンツ一丁で過ごすメタボリックな壮年男・デカパン、頭頂部にお子さまランチの旗を翻したオカッパ頭の幼児・ハタ坊、何でも吸い込んでしまう大口が印象的な中年男・ダヨーンを立て続けに登板させ、誌面を盛り上げてゆく。

誰を主役に迎えても、全く違和感を感じさせない強力な個性を際立たせたキャラクター達が入り乱れるアンサンブルな狂騒劇は、どこまでも愉快で自由奔放な祝祭的空間を創出し、延いては、詰め込み教育の弊害から、落ちこぼれなるカテゴリーが生まれつつあった教育実践の場において、学力偏重主義がもたらす一元的な価値観や恣意的な序列構造に、不信と不満を抱く子供達の精神的ストレスを解消して余りある生理的快感を強く解き放った。

やがて、これらのトリックスター的なサブキャラクター達は、毎回シチュエーションが変わるに従い、演じる役柄もまた、様々な様相を呈するようになり、そのキャラクターの立ち位置における移り変わりの巧妙さは、ドラマにファンキーなスパイスを効かせる魅力の一つとなってゆく。

そして、連載初期に登場し、六つ子との対決軸において、一回こっきりのライバルとしての役割しか持ち得なかったスモッグ親分やマッドサイエンティストの役どころは、チビ太やイヤミに振り当てられ、場合によっては、彼ら寄りの視点に立ったストーリーも描かれるなど、映画の配役システムを意識的に取り入れることにより、主役である六つ子との相関関係は微妙に変動し始めた。

排卵誘発剤など広く知られていなかった時代に、六つ子という設定が打ち出されただけでも、その衝撃は計り知れないものがあったが、チビ太、イヤミ、デカパン、ハタ坊、ダヨーンが織り成す非日常を喚起する脱論理的なドラマは、これまで以上にその作品世界に厚みを加えたのだ。


生活ユーモア漫画からの脱却

2019-05-21 21:16:33 | 第2章

連載開始間もない頃の『おそ松くん』で繰り返されていたギャグは、見分けが付かないことを良いことに、お互いの悪戯を擦り付け合う六つ子に業を煮やした父親が、容姿をわかりやすく判別させるため、それぞれの頭を坊主にし、髪の毛を一本、二本、三本と残して、管理しようとするエピソード(「あたまをまるめて家出をしよう!」/62年17号)や、親子喧嘩をした六つ子が誘拐犯と結託して、父母に身代金を要求する騒動を描いた「ウヒョホと笑ってゆうかいだ」(62年18号)、ガールフレンドのトト子ちゃんに格好良いところを見せようと、体調を崩し、試合に出られなくなったプロボクサーであるトト子の兄(ファイティング弱井)の代わりに、ワンラウンドごとに、六回戦を六人で交代して戦うその奮闘ぶりが何とも楽しい「なんでもやるよ六回戦」(62年25号)といったストーリーからも想像が付くように、家庭や地域社会で、同じ顔とスタイルが六つも存在することで起こる驚倒と様々な日常的混乱を笑いに直結させたものがその大半を占めていた。

事実、その笑劇の中には、スティミュラントの度合いの強い、新鮮な笑いがきっしりと詰まってはいた。

しかし、主人公が六つ子というシチュエーションに頼った作劇ばかりでは、やがて笑いのフォームが硬直化し、プロットやシナリオの構成、サブジェクトの選択において、新鮮味が損なわれる危険性を十分に孕んでおり、そのことに気付いた赤塚は、エイリアン的なデーモニシュなキャラクターと六つ子の対決軸から生まれる影響関係をテーマの前提に添えることで、現実から宙吊りの状態となった、カオスで突拍子もないドラマを創り上げることに活路を見出だすようになったのだ。

既に、連載第四回目(「わしのむすこが7人いるーっ‼」/62年19号)の段階で、おそ松と喧嘩したタヌキの子供が、仕返しとばかりに、おそ松に化け、松野家や街の住民に悪戯の限りを尽くすという、ナンセンスな意趣を凝らしたエピソードが描かれてはいたが、ここで描かれたドラマはまだ、日常と非日常という対置する二つのキャラクターが異種結合した果てに生じる、超現実的構造を持つ笑いを呈示するには至っておらず、総体的にも、何処か牧歌的ムードを漂わせた旧態依然の生活ユーモア漫画特有の体裁を纏っていた。

しかし、六つ子とサンタクロースの親子、サンタの便乗泥棒による三つ巴のプレゼント争奪戦を主題として描いた「サンタのむすこがやってきた」(63年1号)を契機に、その作風は大きく変質を遂げる。

本線の物語世界を思いのまま駆け抜け、脱線に次ぐ脱線が展開される破壊的なストーリーテリングが、瞬発的に非日常へと突き抜け、心地好い混乱を引き起こすように、日常に支配されたあらゆる事物から全てを解き放つナンセンスな興奮とハプニング性をふんだんに取り入れたスピード感溢れるファルスとを、そのワールドビューにおいて一体化させていったのだ。

六つ子を使って動物実験をするマッドサイエンティスト(「六つ子をつかって動物実験」/63年3・4号)、キセルの煙で正体を隠し、六つ子を文字通り煙に巻く謎の暴力団の親分(「せいぞろいスモッグ一家」/63年10号)、お手伝い用として松野一家に送られながらも、思考回路の故障から大暴れし、家中を滅茶苦茶にしてしまうポンコツロボット(「キーコキーコとおてつだい」/63年18号)、東京五輪の年を一年間違えて早くやってきた人食い人種のオリンピック選手(「あつい国からお客さま」/63年43号)等、これらの出鱈目且つ予断を許さぬ過激なキャラクターと六つ子との対立のドラマが生み出す荒唐無稽なイリュージョニズムは、読む者のドーパミンを大量放出させるかのような笑いのトランス性を引き起こし、生活ユーモア漫画の様式的なマニュアルから完全に脱出し得えるとともに、新たな笑いの趨勢を整えることに成功した。

だが、連載も一年を越える頃になると、躍動性に乏しい生活ユーモア漫画の伝統たる季節的なテーマに沿った作劇を自ら放棄したことにより、作品テーマの類型呈示は制限され、週刊誌連載というハイペースで型破りな笑いを蕩尽し尽くした結果、六つ子をフィーチャリングしたギャグは、全てスポイルされる状況へと陥ってしまった。

六つ子以外にも、家でも会社でも肩身の狭い想いをしつつも、家族を養うために毎日齷齪働く父権喪失を絵に描いたような父親の松造や、頼りない松造に代わって、松野家を仕切り、六つ子を厳しく教育してゆくしっかり者の母親・松代、長身で美形という恵まれたルックスと、その清楚なイメージからは想像も付かないほど、我が儘で気が強い、ある意味本能に忠実な女の子だが、それでも六つ子にとっては、共通のマドンナであるトト子ちゃんなど、既にレギュラー化していたキャラクターはそれなりにいたものの、彼らの至ってノーマルな個性では、日常と異常の葛藤から生成される不条理なシチュエーションに、更なる破壊と混乱を植え付けて然るべきエレメントになり得ずにいた。