文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

メインストリーム『天才バカボン』への連動 狂気的倒錯のエスカレーション

2021-05-08 21:43:21 | 第5章

『天才バカボンのおやじ』は、大人読者を対象としていることもあり、少年誌版の『バカボン』を愛読していた子供読者が触れれば、トラウマ必至のエログロネタも、遠慮なくそのテーマの中に取り入れられている。

毎回バカボンのパパを、更なる非日常的日常へと誘引してゆくゲストキャラクター達も、パパとアベック旅行をしているうちに、本物の男色家へと覚醒を遂げるヒゲ面のカオルちゃん、二人の生活を邪魔したものは、全て殺害してゆく新婚カップル、雌のニワトリと入籍した獣姦男、重度のマゾヒスト故、無茶な被虐要求を重ね、遂には命を落としてしまう警察官、自らが生やしている尻尾で美人妻を調教する畸型人間等、いずれも異常性を突き抜けた存在で、恣意的で複雑怪奇なその行動原理が、大人漫画という位相次元をも転覆させ、ドラマを滑稽的効果と溶解させつつも、未だかつて、誰もが目にしたことのない分裂生成型ナンセンスの世界へと、読者を釣り込んでゆくのだ。

そうした作品群の中でも、今尚まごうことなき傑作として誉れ高い一作が、「怪僧ケツプーチンなのだ」(70年3月18日号)という怪異譚だ。

ある日パパは、暇潰しがてら、毛虫を相手に将棋を指そうと、将棋盤を用意するが、うっかり将棋の駒を毛虫の上に落としてしまい、毛虫を死なせてしまう。

パパは、葬式をあげ、毛虫を供養してあげようと、電話で僧侶を呼び出すが、この僧侶、とんでもないホモの好色漢だった。

パパは、読経を終えた僧侶を労い、お茶を勧めるが、僧侶はこれを拒否。酒とツマミに縄を要求する。

「めずらしいものを食べる人なのだ‼」

パパが不思議に思いながら、酒と縄を僧侶に差し出すと、僧侶はいきなりパパをその縄で縛り上げ、ズボンを脱がす。

そして、剥き出しになったパパの臀部に醤油を垂らし、それをペロッと舐めては、酒のツマミにするという、どこまでもアブノーマルな性癖を披瀝し出すのだ。

恥辱を受けたパパは、怒りの余り、友人とともに変態僧侶の寺に殴り込むが、ここでも僧侶に一喝され、再びケツを差し出しては、酒の肴にされてしまう。

その時のパパと僧侶の遣り取りが傑作で、僧侶が「たわむれに ケツをしゃぶって そのあまり ウマサになきて 三歩あゆまず」と詠ずれば、パパが「東海の 小島のケツの 白砂に われなきぬれて ケツとたわむるっ‼」と返歌を詠むという、石川啄木の短歌のパロディーが唐突に挟み込まれる。

一度ならず二度までも、僧侶に蹂躙されたパパは、今度こそ、リベンジを果たすべく、バカ大の後輩の空手家を従え、再び寺に襲撃を掛けるが、思いもよらぬ結(ケツ)末に、パパは驚愕する。

ホモセクシャルネタは、他エピソードでも、幾つか取り上げられているが、ここまで解釈の意図を放棄した反理知主義を媒に持つ衝動性は、類例を見ず、あらゆる倫理的規範を相対化せしめる強大無比な破壊性という観点に立脚すれば、その極限を示した変態性の中にも、そこはかとない豊穣な愉悦が、逆説的とはいえ潜んでいるのだ。

そして、『天才バカボンのおやじ』で開陳された、大らかでデモニッシュに包まれたアンリアルな寓話的世界観は、メインストリームである『天才バカボン』の作風においても密接に連動し、その狂気的倒錯のエスカレーションは、更なる界層を高めてゆくことになる。

尚、前述の僧侶、通称・ケツプーチンは、「週刊少年マガジン」誌にも登場していると、長谷邦夫の著作『天才バカ本なのだ‼』(評伝社、93年)で書き伝えられているが、指摘されているエピソード「悪寛和尚の金もうけ」(68年44号)に登場する、煩悩の塊という頽落ぶりが見事にキャラクター化された悪寛和尚とは全くの別人であり、この著述もまた、赤塚関連書籍にままある誤謬であることをついでに銘記しておきたい。


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