文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

二人の妻との別れ 赤塚の逝去 赤塚神話未だ完結せず!

2021-12-22 17:07:40 | 第8章

2006年6月、糟糠の妻として、再婚以来赤塚を陰日向なく支えてきた眞知子夫人が、くも膜下出血により、緊急手術を受けることになる。

術後の経過は良好で、会話を交わせるまでに回復したものの、再び容体は悪化。7月12日、遂に帰らぬ人となってしまった。

まだ、56歳という若さでの逝去だった。

眞知子夫人の急逝から丸二年を経た08年7月30日、前妻で、愛娘・りえ子の実母である登茂子が、子宮頚癌に侵され、鬼籍へと入る。

そして、三日後の8月2日、自身を愛し、支え続けてきてくれた眞知子夫人、登茂子前夫人の今生からの旅立ちを確認したかの如く、今度は赤塚が、入院先の順天堂大学病院にて、静かにその息を引き取った。

享年七二歳。

「人生はギャグ」を信条に、人を、笑いを、漫画を、酒を、そして自由を誰よりも愛し、激情の赴くままに生きてきた豪傑のラストシーンとしては、あまりにも呆気ない幕引きであった。

死因は、肺の炎症性疾患による抹消循環不全。

赤塚の死去は、新聞各紙にトップ記事として報じられ、テレビ媒体においても、NHK、民放各社でその悲報が大々的に取り上げられた。

また、没後間もなく、追悼本が多数緊急出版され、更に、民放、NHKと相次いで放映した追悼番組が、いずれも高い視聴率をマークするなど、改めて、赤塚が戦後の漫画文化を牽引した偉大なる巨人であることを、皮肉にも、その死によって世に知らしめる結果となった。

葬儀は、喪主をりえ子が、葬儀委員長を友人代表の藤子不二雄Ⓐが各々務め、8月6日に通夜、翌7日に告別式が中野区内にある宝仙寺にて営まれる。

その際に、藤子Ⓐをはじめ、フジオ・プロ黄金期、赤塚の懐刀として苦楽を共にした古谷三敏、高井研一郎、北見けんいち、そして、芸能界デビューに際し、赤塚から物心両面に渡り、恩顧を受けたタモリらが、祭壇に向かい弔辞を読み上げた。

中でも、タモリが捧げた哀悼の辞は、衷情を湛えた文語にして、頗る感動が行間から零れており、取り分け、締め括りとして結んだ「私もあなたの数多くの作品のひとつです。」というフレーズは、この年の新語流行語大賞にノミネートされるほど、多大なインパクトを放ち、広く人々の快哉を集めることとなる。

タモリによる、この心揺さぶる手向けの挨拶は、赤塚逝去の翌日、葬儀委員長であり、タモリにとっても昵懇の間柄にある藤子Ⓐたっての希望ということもあり、応諾したという。

途中、途切れることなく、朗々と述べられた、七分五六秒に及ぶこの弔辞は、白紙の台本を読み上げるという、歌舞伎の演目でも知られる勧進帳に見立てた、タモリならではの〝本気ふざけ〟だったと言えよう。

まさに、〝この師にして、この弟子あり〟という言葉をそのまま体現したパフォーマンスであり、私はこの究極の至芸に、改めてタモリというエンターテイナーの途方もない底力を見せ付けられた想いすらした。

告別式には、漫画家仲間のほか、出版、芸能関係者、ファン、友人知人ら、凡そ一二〇〇人が参列し、葬送曲である『天才バカボン』(第一作)の主題歌が流れる中、その出棺を見送った。

その後、赤塚の遺骸は、フジオ・プロのお膝元でもある新宿・落合斎場にて荼毘に付される。戒名は、〝不二院釋漫雄〟。

古谷三敏は、赤塚の死に際し、インタビューで、ギャグ漫画というジャンルは、赤塚不二夫で始まり、赤塚不二夫で終わったと語った。

赤塚以降、ギャグ漫画を描く才能が何人か追従したが、その多くは、物語を絡めたストーリーギャグに区分されるもので、赤塚のように、ひたすらナンセンスに徹し、ラディカルな笑いを追求し続けた漫画家が、現在に至るまで一切現れていないのは、紛れもない事実でもあるのだ。

そういった意味でも、ギャグ漫画というジャンルは、赤塚不二夫という一国一人の天才漫画家の為だけに設えられた、特別な指定席だったのかも知れない。

暫し、赤塚の歴史と本質に無理解を示す局外者は、酒で身を滅ぼした破滅型の漫画家であると、訳知り顔で、赤塚を揶揄するよう語りたがる。

確かに、過度の飲酒が、自らの気力や体力、創作意欲をスポイルしたことに、疑いの余地はない。

とはいえ、最晩年においても、新連載を立ち上げ、またマイナーな境涯に生きる子供達のために、笑いをプレゼントしたいという願いから、時代に先んじたバリアフリー絵本を完成させたりと、漫画家としての底意地を見せ付けた赤塚に、アルコールがその才能を全て奪い去ったという嘲謔は、当てはまらないだろう。

日本のギャグシーンを活性化し、劇的に広げた最初の開拓者・赤塚不二夫。

2009年には、アニメーションの分野でも、ヒットアニメの原作提供という観点から評価され、東京国際アニメフェア第5回功労賞を受賞。

同年夏からは、東京・銀座の松屋百貨店を皮切りに、『追悼 赤塚不二夫展 ギャグで駆け抜けた72年』が全国巡業で開催され、11年には、浅野忠信主演による『これでいいのだ‼ 映画☆赤塚不二夫』(監督・佐藤英明、4月30日公開)が東映系で、翌12年には、綾瀬はるかを主演に迎えた実写版『映画 ひみつのアッコちゃん』(監督・川村泰祐、9月1日公開)が松竹系で、それぞれ劇場公開された。

更に「赤塚不二夫生誕80周年」を迎えた2015年には、二次媒体における赤塚需要が活発化し、『天才バカボン』と名作アニメ『フランダースの犬』とのコラボレート作品『天才バカヴォン〜蘇るフランダースの犬〜』が、CGクリエーターのFROGMANによって長編アニメーション化され、全国東映系にて5月23日に劇場公開される。

この年は、成人した六つ子兄弟のその後を描いたテレビアニメ『おそ松さん』(15年10月6日〜16年3月29日)を、『おそ松くん』(第二作)と同様studioぴえろが制作。テレビ東京系列にて放映開始されるやいなや、深夜アニメとしては異例とも言える高視聴率をマークし、イベントの開催や記念切手、多数の関連書籍のリリース等、社会現象を巻き起こすほどのヒット作へと発展した。

その後も、同局同放送枠にて、第二期(17年10月3日〜18年3月27日)、第三期(20年10月13日〜21年3月30日)とシリーズ化され、19年には、松竹の配給で劇場版も公開されている。

『天才バカボン』もまた、studioぴえろ+制作により、『深夜!天才バカボン』(18年7月11日〜9月26日)のタイトルで、五度目のテレビアニメ化がなされ、『おそ松さん』と同じくテレビ東京より放映開始。アニメーション以外にも、くりぃむしちゅーの上田晋也を主演(バカボンのパパ役)に招き、日本テレビの『金曜ロードSHOW!』枠にて、『天才バカボン〜家族の絆』(16年3月11日放映)のタイトルで、実写ドラマ化された。

その後も『天才バカボン2』(17年1月6日放映)、『天才バカボン3〜愛と青春のバカ田大学』(18年5月4日)と、続編が製作、放映され、そのメディアミックス展開において、新たな可能性を拡げたことも補記しておきたい。

主題歌は、全三作ともにアニメ第一作の『天才バカボン』が起用され、タモリがこれをカヴァーしている。

また、『おそ松くん』『天才バカボン』に続く代表作である『レッツラゴン』『もーれつア太郎』も、それぞれ、『男子!レッツラゴン』(15年7月30日〜8月9日)、『もーれつア太郎 木枯らしに踊る花吹雪』(18年12月19日〜12月24日)のタイトルで、本多劇場、俳優座劇場にて舞台化されるなど、赤塚ワールドは、他メディアとのシナジーを創出しながら、作者亡き後も更なる展開を迎えている。

「赤塚不二夫生誕80周年」に当たる15年〜16年は、折からの『おそ松さん』ブームの余勢もかって、その原作者である赤塚の人物像、更には赤塚イズム、赤塚スピリットに対する再発見が様々なメディアを通し、活発化したことも、その没後において、特記すべき事柄と言えるだろう。

四ヶ月間(15年12月1日〜16年3月31日)という期間限定で、赤塚をリスペクトするアーティストや作家、タレント、ミュージャン、演出家、学者らが、其々の専門分野をテーマに掲げながら、独自の見解により赤塚イズムを解き明かしてゆく特別講義『バカ田大学』が、東京大学・山上会館にて開講され、連日盛況を収めることになる。

16年には、赤塚の波乱に満ちた生涯と漫画家としての足跡を丹念に追ったドキュメンタリー映画『マンガをはみだした男 赤塚不二夫』(企画・プロデュース/坂本雅司・監督/冨永昌敬)が、シネグリーオによって製作。ポレポレ東中野、下北沢トリウッドほか、全国にて順次ロードショー公開された。

この作品は、有名無名問わず、赤塚ゆかりの人物へのインタビューや、テレビ番組、プライベート映像等、生前の映像素材を用いて纏められたもので、赤塚の歴史を紐解くうえでも、その資料的価値は高い。

音楽家のU -zhaan作曲によるテーマソング『ラーガ・バガヴァッド』の作詞の担当は、タモリであり、タモリ自らが歌唱を務め、本編に彩りを添えたこともここに追記しておく。

赤塚ワールドの聖典である原作のコミックスも、現在はオンデマンド版『赤塚不二夫漫画大全集』を初めとする数々の復刻本で、その殆どを閲読することが出来る。

時代は移り変わっても、赤塚ギャグの先鋭的センスは永久不変であり、初めて赤塚作品を手にした新世代の読者にとって、それは、新たな知覚の扉を開く、未知なる衝撃との遭遇であるに違いない。

そう、数々の傑作と伝説を遺して去って行った、全身ギャグ漫画家・赤塚不二夫の神話は、今尚完結していないのだ。


『赤塚不二夫漫画大全集DVD‐ROM』の発売と赤塚不二夫会館の設立 そして長い眠りへ…

2021-12-22 17:06:55 | 第8章

 

2002年4月、『ニャロメをさがせ!』執筆の最中、赤塚は脳内出血で倒れ、緊急手術を受けることになる。

手術により、無事一命を取り留めたものの、意識を失い、以後、天寿を全うするその日まで、再び目を覚ますことなく、長い眠りへと就くことになった。

その後、作品はスタッフの手によって、丁寧に仕上げられるが、この『ニャロメをさがせ』が、漫画家・赤塚不二夫にとって、最後の作品となってしまった。

因みに、最後のマスメディアへの登場は、「週刊プレイボーイ」誌上(02年№17)で企画された、全日本プロレスの取締役会長であり、現役の人気レスラーでもある、グレート・ムタこと武藤敬司との対談ページだった。

初対面ながらも、二人は意気投合し、特に赤塚は、クレバーで男気溢れる武藤のキャラクターをことのほか気に入ったという。

この年の7月、これまで四〇年余りに渡って描かれた、赤塚漫画の約3分の2を収録した『赤塚不二夫漫画大全集DVD︱ROM』が、小学館より発売される。代筆分、凡そ2000ページを含む、52000ページ以上に渡る赤塚漫画のアンソロジーで、このような全集が編纂されたのは、巨匠漫画家としては、講談社の『手塚治虫全集』(全400巻)、中央公論社の『藤子不二雄ランド』(全301巻)、集英社の『ちばてつや全集』(全135巻)に続く、四番目の壮挙となる。

尚、2005年には、オンデマンド形式によって、DVD︱ROMに収録された全てのタイトルが、全271巻(平均192ページ)の内訳により書籍化された。DVD︱ROMを購入しなければ、通覧出来なかった単行本未収録等のレア作品が、気軽に手に取って読めるようになったことは、文化遺産を後世に伝えるという社会的意義を鑑みても、非常に喜ばしい。 

因みに、このDVD―ROMの編集にあたったのが、『のらガキ』、『母ちゃん№1』、『不二夫のギャグありき』等、「週刊少年サンデー」で、最後の赤塚番を務めた赤岡進と、この年小学館を定年退職することになる武居俊樹だった。

武居の編集者生活は、『おそ松くん』の編集担当に始まり、この『赤塚不二夫漫画大全集』で終わった。

武居にとって、この『赤塚大全集』は、感慨一入のラストワークだったに違いない。

翌2003年、妻である眞知子の尽力により、青梅市に、赤塚漫画の生原稿やグッズ、貴重な写真や資料などを展示した常設ミュージアム〝赤塚不二夫会館〟が設立される。

明治時代後期に建てられた病院を改造した館内には、赤塚がクリエーターを志す原点となったジョン・フォード監督の「駅馬車」の看板が掲げられているほか、トキワ荘の一室が再現されているなど、アットホームな空間の中にも、赤塚の足跡を追体験出来る、臨場感一杯の仕掛けが施されていて、興味深い。(但し、2020年3月27日、施設の老朽化により閉館。)

2000年代は、様々な雑誌メディアで赤塚特集が度々組まれ、90年代にも増して、復刻本、関連書籍が続々刊行されるという、再評価の機運が一気に盛り上がった、赤塚にとって、第二のルネッサンス期でもあった。

赤塚不二夫のDNAを受け継いだ、漫画家、イラストレーター、作家、ミュージシャン、論客といったサブカルチャーの現役の担い手達が、赤塚ワールドから受けた多大な影響やリスペクトを、至る媒体を通して、語るようになり、彼らを支持する若いサブカルファンからも、赤塚は、良しにつけ悪しにつけ、カリスマ的評価を得るに至った。

またこの頃は、パチンコ、パチスロ機の題材に赤塚漫画が使用されたり、赤塚キャラを刷り込んだあらゆるグッズが製品化されたりと、三次媒体における赤塚需要が最も活性化した時期でもあった。

そのため、それらから発生した多額のロイヤリティが、フジオ・プロに転がり込み、この時全ての創作活動を停止していた赤塚の名が、長者番付の上位に食い込むという意想外の余波を生むことになる。

時折、泡沫ブログ等で、師弟関係にあるタモリが、赤塚の高額な治療費、入院費の一切合切を工面したという話が流布されるが、これも事実無根の讒訴であることを、この場にて物申しておきたい。


空前のベストセラーバリアフリー絵本『よ~いどん!』と漫画家生活最後の作品『ニャロメをさがせ!』

2021-12-22 17:06:03 | 第8章

『よ~いどん!』は、視覚障害者と晴眼者が一緒に楽しめ、お互いがコミュニケーションが取り合える漫画を描きたいという一心から、点字コーディネータの協力を仰ぎ、実現化した渾身の一冊だ。

ニャロメ、チビ太、イヤミ、ダヨーン、デカパン、ケムンパス、べし、ウナギイヌといったお馴染みの赤塚キャラ達が、隆起印刷により縁取りされており、指で辿りながら、キャラクターのデザインを理解し、点字による説明で物語を追って楽しむというコンセプトによって作られた。

B5版のプラスチック素材にタッチプリントされた本書は、絵と触図、文字と点字が至るページでミックスされ、描かれているが、途中、晴眼者がハンディキャップを背負った立場にある彼らから点字を教えてもらうことを主眼としたページも挟み込まれており、遊び心の中にも、赤塚らしい配慮が行き届いている点も見逃せない。

この本は、点字本としては異例とも言える一五〇〇〇部を売り上げる空前のヒットセラーを記録したが、赤塚は、定価を少しでもリーズナブルに抑え、提供したいという願いから、印税を辞退する。

そして、その一部は全国の盲学校に寄贈され、良質の教育ツールとして、今尚活用されているというから驚きだ。

『よ~いどん!』が刊行された二年後の2002年、「赤塚不二夫のさわる絵本」第二弾『ニャロメをさがせ!』がリリースされる。

主人公・ニャロメの仲間への思い遣りを綴った人情譚で、意外な展開を迎えながら辿り着くその粋なラストシーンには、ホロリとさせられると同時に、膝を打つこと請け合いだ。


『これでいいのだ。』『バカは死んでもバカなのだ』 底知れぬ人間力の一端を伝える対談集

2021-12-22 17:04:49 | 第8章

『酒仙人ダヨーン』が描かれた同じ頃、暫し休眠状態だった赤塚アニメの方も復活を遂げるなど、幸運が続く。 

三作目の『ひみつのアッコちゃん』(東映動画)や『天才バカボン』の四作目に当たる『レレレの天才バカボン』(スタジオぴえろ)が、それぞれフジテレビ系、テレビ東京系で放映開始され、平成生まれの新世代にも、赤塚ワールドをアピールする好機が到来したのだ。 

だが、1980年代後期~90年代初頭の赤塚アニメのリバイバルラッシュの時とは異なり、再び赤塚の手によるリメイク漫画が描かれることはなかった。

2000年、赤塚にとって久方ぶりとなるベストセラーが、二冊続けてリリースされる。

一つは、メディアファクトリーから刊行された『赤塚不二夫対談集 これでいいのだ。』、そしてもう一つは、『赤塚不二夫のさわる絵本 よ~いどん!』(小学館)という、視覚障害を持つ子供達を対象にしたバリアフリー絵本である。

『赤塚不二夫対談集 これでいいのだ。』は、生きている間に、赤塚らしい対談本を作って欲しいという眞知子夫人たっての希望で、実現した豪華対談集だ。

この時期、赤塚は食道癌の摘出手術により、声も出ないという最悪の健康状態にあったが、担当プロデューサーであった長薗安浩の積極果敢な働きもあり、タモリ、北野武(ビートたけし)、立川談志、荒木経惟といった旧知の間柄である人物や、ダウンタウンの松本人志や芥川賞作家の柳美里、山形弁を操る外国人タレント、ダニエル・カールといった異色のメンバーらがラブコールに応じ、99年の6月から8月に掛け、全七回の対談が執り行われる運びとなった。

弛緩とエッジが程好く効いた、七人の侍ならぬ七人の異才、奇才とのトークバトルは、当然、噛み合わない箇所も少なからずあるものの、その言葉の端々には、一般人の常識に固執した硬直思考を吹き飛ばす独自の美意識とダンディズムが溢れており、赤塚の底知れぬ人間力の一端を垣間見ることが出来る。

尚、同時期に『バカは死んでもバカなのだ 赤塚不二夫対談集』(01年)という、もう一冊の対談集が、毎日新聞社より刊行されている。

元旦、酒風呂で赤塚が溺死したという、些か冗談の過ぎた架空のシチュエーションによる、生前葬的な意味合いを込めた弔問対談で、「サンデー毎日」誌上(『赤塚不二夫の読む漫画 これでいいのか』00年1月16日号~01年7月30日)に連載された記事に加筆、訂正を加え、単行本化したものだ。

ゲストには、『月光仮面』の原作者で知られる作家の川内康範、野坂昭如、嵐山光三郎、タレントの所ジョージ、黒柳徹子、女優の秋野暢子、映画監督の若松孝二、森田芳光、手塚真、劇作家の唐十郎、考古学者の吉村作治、漫画家仲間の東海林さだお、藤子不二雄Ⓐほか、総勢二十七名による赤塚ゆかりの各界著名人が招かれ、こちらもまた、500ページ近いボリュームを誇るデラックスな対談集として編纂された。

各ゲストとの対談中、話の腰を折ってしまったり、酔い潰れて眠ってしまったりと、赤塚のトホホな現状をリアルに活写した、対談本としての体裁から幾分外れた構成が為されているが、赤塚と向き合うゲストらの対話の節々からは、然り気無い赤塚愛が感じられ、赤塚の人徳、人望がナチュラルに伝わってくるようで微笑ましい。


最後の連載漫画『酒仙人ダヨーン』 最愛の友へのラブレター

2021-12-22 00:25:00 | 第8章

年明けの99年元旦、突如として赤塚漫画の新作連載が「ビッグコミックスぺリオール」誌上にてスタートする。

『酒仙人ダヨーン』(「ビッグコミックスペリオール」1号~2号)なるタイトルの作品で、イヤミによく似た風貌の老仙人が、若者に酒道の奥義を伝授するとともに、崇高な人生哲学も教え説いて行くという、その深淵なテーマからも、赤塚自身、長期連載を意識していたことがよく分かる。

扉ページのクレジットには、赤塚の名前以外に、作画協力・あだち勉とあるが、あだちの担当箇所は清書とペン入れのみに留まり、下絵は全て赤塚によって描かれたのだという。

この時代の赤塚にしてみたら、それだけでも本作品に並々ならぬ意気込みを懸けていたのだということが伝わってくる。

赤塚が記者会見の時、やりたい仕事があると語っていたが、その仕事とは、まさにこの『酒仙人ダヨーン』だったのだろう。

『酒仙人ダヨーン』を執筆するモチベーションを刺激したのは、ある人物との出会いだった。

その人物の名は、東隆明。

かつては、俳優、演出家、脚本家、劇団主宰、プロダクション経営等、芸能畑を中心に活躍していたが、現在は、〝自然会〟なるコミュニティー・ネットワークを発足させ、大自然の摂理による究極の愛と平和を伝導している、まさに仙人然としたカリスマ的人物である。

元内閣総理大臣・近衛文麿の実子にして、元大日本帝国陸軍中尉であった近衛文隆の所謂庶子という、近衛家の血を引く特異な生い立ちの持ち主としても有名で、政財界においても彼の信奉者は多い。

そうした身分の高い立場にある人間でありながらも、〝巷の酔っ払い仙人〟と自らを名乗り、別け隔てなく人と接するざっくばらんな性格の持ち主としても知られ、老若男女、多くの人から愛される好人物でもあった。

したがって、赤塚が東の人間的魅力に惹かれ、深い親交を持つようになったことも、充分理解出来る。

東隆明の証言「〝竜の湯〟という下落合にある温泉施設で、ワシが教え子相手にセミナーを開いとったら、酔っ払ったあのオッサン(名和註・赤塚)がいきなり乱入して来て、「このインチキ教祖が!」とか抜かしやがったんや(笑)。で、ワシも「なら、お前さんは三流漫画家かい?」って突っ込んだら、「ふざけるな! 俺は元超一流の今は五流だ」とか言ってなぁ。こりゃ、噂通りのおもろいオッサンやってことで、すぐ意気投合して、以来飲み友達になったんや」

実際、双方ともインチキ教祖、三流漫画家といった概念から対極に位置する、ステージの高い存在であるが、初対面にも拘わらず、そうしたドギツイことを言い合い、寛容し合えるほど、お互いを近しい間柄に感じていたのだろう。

赤塚は、ある時酒を飲みながら、東にこう語ったという。

「あんたをモデルにした漫画を描きたい」

この頃既に、漫画家として現役を引退していたに等しく、またガン宣告を受けながらも、四六時中酒を手離さず、酩酊している赤塚が、再び連載を起こすなんて、東にしたら、それ自体が全く現実感のない絵空事のように思えたそうだ。

連載の構想も酔った勢いで出た戯れ言の一つだと捉え、その後も、特に気に留めることもなかったというが、作品は早急に描かれ、東を驚せた。

もはや漫画を描く意欲も失われ、酒浸りになったと思われた赤塚のクリエーター魂に再び火を付けたのが、東だった。

赤塚にとって東は、生前最後に愛した人間であり、この『酒仙人ダヨーン』も、ファンや一般の読者ではなく、東だけに読んでもらいたい一心で立ち上げた連載だったのだろう。    

しかし、再び体調が悪化し、第二話をもってこの連載は中断する。

続きを読みたかったという所感を抱いたのは、ファンだけではなく、東もまた同じだったに違いない。