文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

追憶の「青梅赤塚不二夫会館」 記念館を失った漫画家の末路とは!?

2023-04-28 00:49:11 | 論考

「青梅赤塚不二夫会館」が閉館し、今年で3年目を迎える。

「青梅赤塚不二夫会館」は、明治後期、東京都青梅市住江町に建築された土蔵造りによる二階建ての診療所をリノベーションし、オープンした赤塚不二夫ミュージアムである。

漫画家になる以前、赤塚は新潟の小熊塗装店に就職し、 見習いの域を脱した頃は、元来画を描く素養も高かったせいもあり、チャップリンの「ライムライト」をはじめとする映画看板を手掛けるようになっていた。

そんな赤塚が、映画看板による街興しに奮闘する青梅商工会の姿をたまたまテレビを通して知ったことにより関心を抱き、赤塚作品を文化遺産として後世に遺したいという二番目の妻、眞知子の切なる願いと、やはり映画看板も含め、昭和レトロによる地域復興を視野に入れていた青梅商工会の思惑が合致。話がトントン拍子で進む中、2003年10月18日、赤塚不二夫会館はオープンする。

因みに、青梅市と赤塚との結び付きは一切なく、強いて挙げるなら、赤塚が友人らと奥多摩で渓流釣りを満喫した折、宿の主人の願いを快諾し、描いて差し上げたバカボンのパパのイラスト入りのサイン色紙(1975年6月8日付け)が展示物の一つとして館内に飾られているくらいである。



オープン直前より赤塚不二夫会館は、メディアでも頻繁に取り上げられ、日に日に来客も増加。時待たずして青梅の観光スポットとなり、広く世間一般による耳目を集めるに至ったことは言うまでもない。

2008年8月2日、赤塚が逝去した際には、臨時の記帳台が設置され、八百人もの人が記帳に訪れており、取り分け、赤塚が亡くなったこの年は過去最多の三一〇〇〇人が来館したことも大きなニュースとなった。

また、青梅市は、市政60周年となる2011年、赤塚不二夫会館が青梅を象徴するミュージアムとなった関係から、ニャロメとイヤミのイラストをあしらった原動機付き自転車のナンバープレートを新規、交付済み問わず、無料で配布、交換したことでも話題を集めた。
 
このように、設立から閉館まで、青梅市と持ちつ持たれつの間柄だった赤塚不二夫会館とは、一体どんな記念館であったのか?
 
ここで改めて具体的な詳細に触れてみたいと思う。
 
館内一階では、赤塚の愛猫であった菊千代のフィギュアを祀った「バカ田神社」が建立されていたり、イヤミやめん玉つながりといった赤塚の人気キャラのブロンズ像がオブジェとして設置されていたりと、赤塚らしい遊び心に満ちたディスプレイが施されている。

階段を昇った二階館内には、赤塚が青春時代を過ごしたトキワ荘の一室も再現。そして、メインとなる展示コーナーでは、デビュー前の習作は勿論、赤塚が漫画家デビューした1950年代から晩年となる90年代に至るまでに描かれた美麗なカラー原画を含む百点余りが所狭しと陳列されており、その他にもトキワ荘メンバーやタモリといった漫画家仲間や有名人との交流を貴重なプライベート写真を交えて紹介するコーナーも充実の一言だ。

このような作家的偉業やその人物像にまで目配せをした展示は、ファンならずとも、時を忘れて見入ってしまうこと請け合いである。

また、二階展示室には、かつて赤塚が愛用していた巨大な机がドーンと鎮座しており、机上のパソコンからは、『赤塚不二夫漫画大全集    DVDーROM』やフジオ・プロのホームページを覗くことが出来、この会館に一日中いれば、それこそ、生い立ちも含んだ赤塚不二夫に関するほぼ全ての歴史を把握出来るというナイスな空間がコーディネートされている。

赤塚不二夫資料室では、「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」等、これまで表紙に赤塚キャラや赤塚本人をフィーチャーした数多の雑誌や、今となっては入手困難な貴重なコミックス、フィギュアをはじめとする数々キャラクターグッズをガラスケース越しに堪能することが出来る。

この資料室での展示物で特記すべきは、1995年9月13日にホテル・センチュリーハイアットで開催された「赤塚不二夫先生の漫画家生活40周年と還暦を祝う会」で、翌日の誕生日に還暦を控えた赤塚が身に纏っていた、赤いチャンチャンコならぬ赤いチャップリン・スーツに大きな靴、山高シャポー、ステッキに至るまで飾られていた点だ。

余談だが、この時、パーティーに参列した落語家の立川談志は、この時の赤塚のスーツ姿を次のように振り返っている。

「タモリや青島(名和註・幸男)前知事もスピーチに駆けつけてくれた還暦のパーティーの時に彼は白塗り(原文ママ)のチャーリー・チャップリンの姿をして、現れましたよね。その事自体は別に面白くもなんともなかったんだけど、あの姿の中に赤塚さんの悲しみや憂い、ギャグがあったんだ、もっと 見てやらなきゃいけなかったんだ、という反省が私の中に今もありますね。」(『赤塚さんは「味の素」』/おそ松くん』第22巻・竹書房文庫、05年)

筆者もまた、当時テレビのワイドショー番組を通し、真っ赤なチャップリン・スーツを纏った赤塚が軽快にステップを踏む姿を視聴した際、談志と同様の感想を抱いていたこともあり、実物を目の当たりにした時など、感慨多端の想いに耽っていた。

他にも、還暦記念に親交の深い漫画家やタレントなどが寄せ書きをした襖絵なども瞠目に値するアイテムと言えるだろう。

順路の最後には、赤塚堂本舗なるお土産コーナーがあり、ここでしか手に入らない赤塚キャラをプリントした煎餅や青梅の特産品、Tシャツ、ポストカード、現行発売中の赤塚関連書籍などが販売されていた。

手前味噌で恐縮だが、以前、私が社会評論社より上梓した『赤塚不二夫大先生を読む』『赤塚不二夫というメディア    破戒と諧謔のギャグゲリラ伝説』の二冊も委託で置いて下さっており、来館の際、学芸員の方に伺ったところ、何人かの来館客の方が、赤塚作品とその人となりへの理解を深めるべく、お買い求め下さったとのことだった。

拙著をお買い上げ下さった皆様方には、この場にて改めて御礼申し上げたい。

青梅赤塚不二夫会館は、「宝塚市手塚治虫記念館」や「川崎市藤子・F・不二雄ミュージアム」とは異なり、規模としては幾分小さな美術館であるものの、こじんまりとしたアットホームな空気感は、奇しくも赤塚の人柄を偲ばせるかのような安らぎがあり、個人的には不平不満を訴えたくなるレベルのものではなかった。

中には、長谷邦夫が代筆した原稿や書籍まで資料として展示してあったり、赤塚グッズコーナーでは、かつて「コミックボンボン」のグラビアに掲載されたイヤミが跨がるバイクのラジコン模型をファン自作のプレゼントなどと記載ミス(実際の製作者は元ストリーム・ベースのプロモデラーである小田雅弘)があったりと、ツッコミ処は満載だが、それでも赤塚不二夫の偉業と足跡を辿れる只唯一の記念館として、貴重な存在であったことは言うまでもない。

近年は、折からの「おそ松さん」ブームも追い風となり、客足も若年層を中心に右肩上がりに急増。今後も赤塚不二夫の偉業を伝える常設の記念館として、半永久的に存続されるであろうと思われていた、まさにその矢先の出来事であった。

それは筆者にとっては、青天の霹靂というべきニュースだった。

2020年1月、建物の老朽化から耐震や雨漏り等の問題が生じ、改修が必要となったこと。更には、管理を受け持つ青梅商工会の方々の高齢化が進み、後継者不足も伴い、運営が厳しくなったとの理由から、赤塚不二夫会館の閉館が決定する。

皆までは語らないが、閉館の理由としてはそれだけではあるまい。

閉館決定に伴い、当初は閉館日を3月31日としており、「昭和の元気をありがとう!!    感謝祭」と題したイベントを開催。同月14日から閉館日に至るまで、入館料無料で開放し、28日と29日においては、地元酒造によるコラボ企画、日本酒の利き酒チャレンジや、インディーズ・ミュージシャンらによる野外ライヴの開催なども予定されていたが、新型コロナウイルスの感染拡大防止の観点から、来館スペースを写真撮影コーナーのみに縮小。更には、東京都により外出自粛要請が出された直後というタイミングと重なり、4日前倒しとなる3月27日に閉館を余儀なくされた。

赤塚不二夫会館のオープンから1年半後の2005年3月29日には、JR青梅駅の駅メロがアニメ「ひみつのアッコちゃん」シリーズのテーマソングをアレンジしたものが採用されたこともホットな話題を振り撒いたものの、閉館に伴い、現在のメロディへと変更されてしまった。

無論、駅構内に貫禄充分に飾られていたバカボンのパパのブロンズ像も既に撤去されてしまっている。

大御所漫画家のミュージアムの閉館にしては、あまりにもあっけない幕切れであり、いとも簡単に閉館への同意を示す公式の態度に対しては、腸が煮え繰り返る程の憤りを覚える。

オープンから長らく館長を務めてきた横川秀利氏は、閉館に対し、無念の想いを滲ませつつも、「多くのお客さんに親しまれ、様々なイベントを楽しんでもらえた。赤塚先生とキャラクターに感謝したい」という言葉を「読売新聞」の取材で遺している。

赤塚不二夫会館の閉館により、暫し放心状態となった筆者であったが、そうしたショックも束の間の2022年9月12日、今度は「下落合の象徴」「ギャグ漫画の殿堂」とまで謳われた中落合はフジオ・プロビル解体のアナウンスに更なる悲しみを募らせる。

解体に際し、赤塚のプライベート写真や想い出の品々、僅かばかりの生原稿を展示した「フジオプロ旧社屋を壊すのだ!!展」が催され、連日にわかファンも含めた訪問客により活況を呈したことは記憶に新しい。

だが、所詮それまでの展開でしかなく、この「さよならイベント」も、マスメディアを通じ、幾ばくかの話題を振り撒いただけに過ぎない。

フジオ・プロ旧社屋も建物の老朽化による原因不明の雨漏りにより、取り壊しを余儀なくされたとは、公式の弁だが、赤塚不二夫会館しかり、破壊ばかりでその末のビルドが全くないことに、怒りよりも悲しみが先行してしまう。

赤塚といえば、没後、晩年の酒浸りのイメージから、侮蔑や嘲笑を込め、その存在が益々矮小化され続けている漫画家である。

事実、赤塚不二夫会館が閉館になった際、SNSでは、一部の泡沫ユーザーらによって、閉館の理由として客足が全く延びないために、運営が成り立たなくなり、倒産したからであると、事実無根も甚だしい風説が流布されていたが、今となっては、こうした戯れ言が、当たり前の事実として認定されているかのようで歯痒さを禁じ得ない。

また、追い打ちを掛けるように、同年同月20日には、コミックパークよりオンデマンド形式によって書籍化されていた『赤塚不二夫漫画大全集』が、サービス終了となり、『天才バカボン』『おそ松くん』『もーれつア太郎』といった代表的な赤塚マンガを除いたタイトルが閲読出来るチャンスを一気に喪失してしまった。

まるで、現世において、赤塚不二夫が遺した面影が刻一刻と失われてゆくかの如き状況だ。

だが、そうした赤塚を取り巻く八方塞がりな現状において、只一筋の光明としては、2023年4月末現在、未だフジオ・プロビルが解体されていないことだ。

 まさか、  公式はフジオ・プロ旧社屋を遺し、建物内のスペースを有効活用した第二の赤塚不二夫ミュージアムを構想中だというのだろうか?

いや、公式に赤塚不二夫や赤塚作品へ向けたそこまでの愛情や気魄があるとは到底思えないし、そんな殊勝な展開など、妄想するだけ野暮というものだろう。

とはいえ、誰よりも赤塚不二夫ディレッタントを自認している筆者としては、藁をも掴むそんな妄想こそが、赤塚矮小化に拍車が掛かるこの現状に対する唯一の抵抗であり、癒しでもあるのだ。


赤塚不二夫とロックンロール 1973年、矢沢永吉、キャロルとの邂逅

2023-04-06 20:49:51 | 論考

 

今回は、赤塚不二夫と、矢沢永吉率いる「ルイジアンナ」や「ファンキー・モンキー・ベイビー」のヒットで知られる伝説のロックバンド・キャロルとの関係性について、知り得る範囲内ではあるが、赤塚がキャロルに関心を示す至った経緯をはじめ論述して行きたい

赤塚不二夫とキャロル、何とも意外な組み合わせに疑問を抱く御仁もおられると思うが、赤塚は、かつてキャロルの全盛時代、私設応援団長を務めていたことがあった。

以前、筆者が、元メンバーであるリードギターの内海利勝氏にキャロル時代のことを伺った際、写真家の篠山紀信、ファッションデザイナーの山本寛斎、そして漫画家の赤塚不二夫といった当代きっての一流クリエイターが後ろ楯になって応援してくれたことも、キャロルがメジャーになる助走となったとの述懐を頂いた。

勿論、キャロルのプロデュースを務めたロカビリー歌手のミッキー・カーチス、所属事務所「バウハウス」代表取締役の漆原好夫やマネージメントを務めた中井國二(元渡辺プロダクション所属で、ザ・タイガースのマネージャーだったことでも知られる)らの辣腕ぶり、後にドキュメンタリー映画「キャロル」を製作する元NHKディレクター・龍村仁の存在も大きかったことは言うまでもない。

そもそも生前の赤塚不二夫は、専ら美空ひばりや軍歌を愛聴しており、それらを除けば、初期のエルビス・プレスリーやザ・ビートルズなどを一時期耳にしていたともいうが、基本、ロックやモダン・ジャズに関しては、ただ音がうるさいと思うだけだと語っていたほど、音楽的関心度は至って低かった。

そんな赤塚が、キャロルに対し、強く興味を抱くようになったのは、新宿を拠点に飲み歩くようになった69年頃、元々赤塚マンガのファンでもあったジャズ評論家の相倉久人との邂逅があり、相倉から、当時、ザ・フラワーズを率いていた、ロックシンガーの内田裕也を紹介されたことに端を発する。

元来イケイケな無頼漢である内田と、シャイで小心者の赤塚とでは、まさに水と油といった相性である筈だが、不思議と気が合い、その後も長く交流を重ねる間柄となった。

1971年、内田は、新進気鋭の作曲家であり、音楽出版社「アルファ・レコード」を主宰する村井邦彦、ロカビリー・ブームを牽引し、この時、自身のバンド、サムライズを解散したばかりのミッキー・カーチスらとともに新レーベル「マッシュルーム・レコード」を設立する。

マッシュルーム・レコード設立に際し、村井邦彦やミッキー・カーチスには、どういった意識があったかは不明だが、内田に限っていえば、同レーベルにて、プロデューサーという立場を活用し、若いロックミュージシャンを育成したいという願望が常にあったようだ

1970年、嵐のようなグループサウンズ・ブームが過ぎ去り、内田、ザ・モップスの鈴木ヒロミツ、はっぴいえんどの前身・エイプリルフールの松本隆、後に「ナイアガラレーベル」を主宰する大瀧詠一といった、当時のロックシーンをリードしていたミュージシャンらによる「ロックは日本語で歌うべきか英語で歌うべきか」をテーマに据えた、所謂「日本語ロック論争」が勃発する。

70年当時、国内におけるロックシーンは、まだまだ定着化しておらず、今となっては、議論の俎上に乗せるまでもないこんな論争がファンの間で耳目を集めるほど、観念的にも行き詰まっていたのだ。

それから数年が経った1973年、一向にロック熱が高まらないでいる状況を打破すべく、内田が立ち上げたのが「日本ロックンロール振興会」なる団体なのだ。

日本のロックの未来のためにも、「日本ロックンロール振興会」の活動を本格化したい。

そのためにも、会長には若者に影響力のある著名人を名誉会長として迎えたい。

当初は、作家の五木寛之、イラストレーターの横尾忠則、エッセイストの植草甚一等も候補に挙がっていたというが、そうした著名な文化人よりも、73年当時、サブカルチャーにおけるオピニオンリーダーとして、若者達に浸透していたのは、「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」「週刊少年キング」「週刊文春」と、週刊誌4本の連載を持つ超売れっ子の漫画家であった赤塚不二夫にほかならないという内田独自の判断より、赤塚に会長職としての白羽の矢を立てたのだ。

1972年12月20日、日本フォノグラムより「ルイジアンナ」を引っ提げ、キャロルがデビューする。

キャロルは、川崎在住の矢沢永吉(ベース&ヴォーカル)を中心に、ジョニー大倉(大倉洋一、サイドギター&ヴォーカル)、内海利勝(リードギター)、今井英雄(ドラムス、後にユウ岡崎と交代)が集まったインスタントバンドであったが、結成から二ヶ月後の10月1日、当時ヤングの人気者であった愛川欽也がMCを務めるフジテレビの若者向け生番組「リブ・ヤング!」でメディア初登場。フィフティーズ・スタイルのロキシー・ファションをテーマとした企画で、この時キャロルは、テレビ局側からオファーを受けてではなく、あくまで一般公募での出演だった。

とはいえ、キャロルは、ツイスト・パーティのコーナーでは、ハンブルク時代のビートルズを彷彿とさせるリーゼントヘアに黒革ジャン、黒革パンツというスタイルで登場。「ジョニー・B・グッド」や「グッド・オールド・ロックンロール」といった50年代ロックンロールの名曲をダイナミック且つグルーヴィーなノリでパフォーマンスし、観る者を圧倒した。

その後、この番組を観ていたミッキー・カーチスがキャロルに惚れ込み、自らプロデュースを申し入れ、早速、メンバーのジョニー大倉、矢沢永吉作詞作曲による「ルイジアンナ」をレコーディング。以降、彼らの伝説的な活躍は説明するまでもないだろう。

だが、このレコーディングまでには、すったもんだがあった。

実は、前述の「リブ・ヤング!」には、内田裕也がゲスト出演していた。

内田といえば、ヒット曲のないシンガーと揶揄されながらも、日本のロックンロールの開祖的存在であり、その影響力は甚大だ。

番組共演を機に、初対面ながら内田との距離を縮めた矢沢は、内田にキャロルがプロデビューするに辺り、「先生!僕らを男にして下さい!」つまりは、バンドをプロデュースして欲しいと懇願。意気に感じた内田はこれを快諾する。

しかし、その後、ミッキー・カーチスの熱意に圧倒され、加えて、ミッキーのプロデュース案が具体性を帯びていた点から、矢沢はミッキーのレーベルでのデビューに鞍替えする。

無論、内田がこの経緯に怒り心頭となったのは言うまでもない。

だが、その後、呼び出した焼肉屋にて、矢沢が丁寧に詫びを入れたことで、内田の怒りも収まり一件落着。その際に矢沢は、内田に「自分に非があるので、一発殴って下さい」と伝えたともいう。

矢沢の男としての潔さを気に入った内田は、矢沢、延いてはキャロルが間違いなくビッグになると確信し、陰ながらキャロルを応援することを決意。以降、関西でメキメキと頭角を現していた桑名正博率いるファニー・カンパニーとキャロルをジョイントさせることで、ロックンロール業界のボトムアップを図ろうとする。

つまり「日本ロックンロール振興会」は、キャロルの登場ありきで発足したようなものなのだ。

実際、内田は至る所で、キャロルを紹介し、自身がプロデュースするロック・コンサートには、必ずやキャロルをステージに立たせた

1973年2月28日、渋谷の西武劇場で開催され、後に内田のライフワークとなる「第一回ニュー・イヤーズ・ワールド・ロック・フェスティバル」にもキャロルは出演し、新人ながらも他の名だたる共演者を圧倒したそのライヴ・パフォーマンスは、今尚語り草となっている。

彼らは、初の大舞台への緊張をほぐすべく、出番前、大量に飲酒を重ね、またその状態で超絶的ともいうべきハードな演奏を披露した結果、極度のトランス状態に陥ってしまい、何と、ステージ上で失神してしまったのだ。

つまりは、キャロルに限っての失神は、グループサウンズ時代、ザ・カーナビーツやオックスといった人気のアイドルバンドが営業で失神していたパフォーマンスとは異なり、その激烈なライヴが内発的衝動となって発生した、前代未聞のドキュメントでもあったのだ。

そんなキャロルと赤塚不二夫が邂逅を果たしたのが、73年1月23日、当時新宿区河田町にあったフジテレビの第1スタジオで、東京12チャンネル系の「私の作った番組     マイテレビジョン     赤塚不二夫の激情No.1」(1月25日放送)の収録に際してであった。

この時、石川社中の総勢一三〇名の貴婦人方が花笠をかざす下稽古の最中で、キャロルもまた、デビュー曲「ルイジアンナ」を懸命にリハーサルしていた。

「赤塚不二夫の激情No.1」で、ディレクターを務め、当時テレビマンユニオン所属だった佐藤輝は、ミッキー・カーチスよりデビュー間もないのキャロルを紹介されていた。

佐藤は、その時点ではまだプレイすら聴いていないにも拘わらず、高いヴォルティジで将来のヴィジョンを挑戦的に語る矢沢のキャラクターに圧倒され、赤塚の承諾のもと、その一週間後の収録予定である「激情No.1」に出演させてしまう。

もしかしたら、赤塚もまた、事前に内田と会った際に、あれこれキャロルについて窺っていたのかも知れない。

赤塚はキャロルについて、彼らとの対談の際、このように語っている。

赤塚「局の人(名和註・恐らく佐藤輝のことだと思われる。)と打ち合わせしていて、歌手を決めていくうちに今キャロルがすごくいいって言うんだ。それまで僕はキャロルって知らなかったんだけど、録画撮りでつきあって、いっぺんにファンになっちゃった。」(「ロックンロール+マンガ=???」/「ガッツ」73年9月号)

また、キャロルは初めて見た時の衝撃については、このような言葉を残している。

赤塚「君ら(名和註・キャロル)の歌を聞いてて面白いのはね、言葉の意味より、感じで歌詞を作るってことね。僕もセリフに凝るほうだけど・・・・・・。最初、英語かと思ったら、よく聞くと日本語なんだ。(笑)」

デビューから暫くの間、キャロルの放つオリジナル曲の数々は、これまでの日本人の感覚で作られた楽曲とはフィーリングが異質だと、評論家や音楽ファンから頻繁に評されていた。

それは作詞、作曲を受け持ったジョニーにしても、矢沢にしても、ビートルズやローリング・ストーンズの撒いたロックン・ロールの種から芽吹いたそのスピリッツを自身の原点として捉えていたからに他ならない。

当時、キャロルのファンだった中学生が、代表曲である「ルイジアンナ」や「ファンキー・モンキー・ベイビー」を聴き、「僕らが知らないマニアックな洋楽をそのまま日本語に訳したものかと思った」と語っていたが、まさに言い得て妙な賛辞である。

矢沢はこの対談で、赤塚に次のような悩みを吐露している。

矢沢「ファンから色々と手紙で言ってくるんですよ。ここはこうしたほうがいいとか。」

それに対し、赤塚はこうアドバイスする。

赤塚「漫画にも共通すると思うんだけど、読者のご機嫌をとっちゃダメなんだよね。ナメられちゃうわけだよ。こんなものでどうでしょうかって出すと、ダメだ、もっと面白いものを持ってこいってことになるんだ。ザマアミロって感じで出すと、面白いですねってくるわけだよ。(笑)」

要するに、逐一読者の要望を伺ってばかりだと、作家としての個性が損なわれてしまう。

訳のわからないことを書いてくる読者など無視して、読者よりも優位に立つ。少し前に歩むことが大切であり、それは音楽に限っても同じことだと、赤塚は結んでいる。

だが、矢沢はそうは思いつつも、自信がないとも告げる。

また、現段階では、与えられたものをガムシャラにやってきただけであるとも。

その後の矢沢の圧倒的なキャラクターを見ると、何だか別人のように見えなくもないが、昨日今日までキャバレーのドサ回りをしていたようなバンドが一夜にして、時代の最先端に立つロックバンドとして世の注目を集めてしまったのだから、矢沢としても、現状への戸惑いや一歩先の未来への不安など隠し切れない部分もあったに違いない。

むしろ、この時の赤塚の発言の方が矢沢のパブリック・イメージと重なり合って見えるかのようだ。

しかし、赤塚はそんな矢沢に対し、次のような言葉をぷつけている

赤塚「でも、自分たちで作詞作曲してやってきたんだろ。与えられたものとは言えないんじゃないか。」

その上で、ロックンロールを離れず、毎回、リスナーにショックを与える新鮮味があればいいと語り、ひたすらに前進あるのみだとキャロルを奨励する。

赤塚が述べるロックンロールを離れないというのは、住宅に例えれば、土台にあたる部分は非常にオーソドックスなものを下敷きにして、その上で新たな冒険を繰り広げてゆくという意味だ。

そういう意味において、矢沢は敬愛するビートルズを手本にし、音楽をやるからには、人に何と云われようとも、彼らのようなスターになりたいと、その夢を語る。

赤塚はそんな矢沢やキャロルに対し、烈々たるロマンを感じたようだ。

事実、この頃の赤塚は、自身の漫画の中で、キャラクターにキャロルを絶賛するセリフや歌を幾度となく喋せている。

『天才バカボン』では、ノラウマが「ルイジアンナ」を三味線で弾き語りをしたかと思えば(「ノラウマ社員の無責任なのだ」/「週刊少年マガジン」73年20号)、『おそ松くん』では、爆発の被害に遭ったイヤミが這這の体で「ファンキー・モンキー・ベイビー」を歌ったりと(「ウソ発見爆弾だス」/「週刊少年キング」73年47号)、画稿越しからも、キャロルに対する傾倒ぶりが如実に伝わって来る。


バカボンのパパもまた、キャロルの大ファンであることを語り、バカ田大学時代のニックネームがキャロルであったことも述懐している。(大学卒業後は、東洋工業(現・マツダ)に入社し、マツダ・キャロルを作る仕事に就く予定でもあった。)

かつて、パパとバカボンがハードロックにエスノックをフュージョンした怪作、モップスの「御意見無用」の一節である「えーじゃないか   ええじゃないか!」とおどけるシーンがギャグとして挟み込まれていたり(「週刊ぼくらマガジン」71年20号)、彼らにとって最大のヒット曲となった「月光仮面」のパロディーをウナギイヌのテーマソングに採用したりと(「週刊少年マガジン」72年36号)、一時的ではあるが、モップスネタを『バカボン』に仕込んでいたこともあった。

だが、キャロルを扱ったギャグの頻度はモップスのそれを遥かに凌いでおり、その熱中度をとって見ても、キャロル私設応援団長の名に恥じない肩入れぶりだ。

赤塚とキャロルは、その後も「内田裕也大芸能生活15周年記念リサイタル・ロックンロールBAKA」(73年9月10日、於・中野サンプラザ)でも、ともにゲストとして招致されるなど、公の場において、複数回共演する。

「ロックンロールBAKA」は、9月12日にも渋谷公会堂でも催され、この時既にソロアーティストとなり、意気軒昂な活躍を見せていた元ザ・タイガース、元PYGの沢田研二がゲスト出演。赤塚が出演した中野サンプラザにおいては、後にタモリが所属することになる田辺エージェンシー社長、元ザ・スパイダースのリーダー・田辺昭知や、PYGを前身とする井上尭之バンド、赤塚とは「まんが海賊クイズ」の共演を機に昵懇の間柄となった黒柳徹子、更には、日本シャンソン界の母であり、「ブルースの女王」の名を欲しいままにした淡谷のり子も来賓として駆け付けた。

このリサイタルでは、赤塚はポスターやチケットのイラストを無償で提供し、赤塚やキャロル以外にも、後援が赤塚の他、アントニオ猪木、倍賞美津子、梶芽衣子、篠山紀信、藤田敏八、横尾忠則といった豪華メンバーで、内田の多彩な交友関係の一端が垣間見れよう。

1975年4月13日、メンバー内の確執から、小雨が降り頻る日比谷野外音楽堂で、キャロルは解散ライヴを開催する。

アクシデント(スタッフによる演出)により、ステージのセットが炎上し、「CAROL」と書かれた電飾が焼け崩れてしまう様は、まさしく青春の燃焼そのものを象徴しており、今尚伝説として日本のロック史に名を刻んでいる。

尚、キャロル解散後、元メンバーらと赤塚の間に交流があったというエピソードは、寡聞にして一切聞かない。

だが、赤塚にとってキャロルは、タモリと出会う以前、最も肩入れしたアーティストであったのは紛うことなき事実だ。

赤塚がタモリと邂逅を果たすのは、キャロル解散から二ヶ月程経ってからのことである。

因みに、藤井フミヤをはじめとする元ザ・チェッカーズの面々、元BOOWYの氷室京介ら、キャロルの大ファンであったことを公言して憚らないアーティストは大勢いる。

お笑いコンビのとんねるずもその一つだ。

そんなキャロルチルドレン、矢沢チルドレンのとんねるずが公開オーディション番組「お笑いスター誕生!」に出演した際、他の審査員達が、とんねるずが繰り出すパフォーマンスに対し、勢いだけの素人芸であるとジャッジを下す中、赤塚とタモリだけは、その面白さを絶賛したという。

また、石橋貴明の述懐によれば、赤塚とタモリの二人から、とんねるずはこのままのスタイルでやればいいというアドバイスも受けたそうな。

筆者は、そんな石橋の回想に触れ、かつて赤塚がキャロルに向けて語った同様のアドバイスを思い起した。

感性だけは過激にして生意気。一方で礼儀正しく、いつまでもピュアなハートを抱いている。

いつの時代にも、赤塚がそんな若者達に強いロマンと愛惜を抱いていたことに疑いの余地はあるまい。