文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

赤塚ワールドの作風の決定 天才・赤塚の驚異的なギャグ創出力

2021-05-11 09:11:10 | 第5章

このように、赤塚漫画には、様々な才能が、集大成となって成り立っているという側面があるが、その作業工程の中で、唯一どのスタッフも入り込めない領域がある。

それは、ブレーンストーミングの際に出したアイデアを記したメモを元に、ネーム用紙にコマ割りをし、吹き出しを書き入れてゆくという作業だ。

赤塚漫画の作風は、このネーム入れ、そして、その次に清書用の原稿用紙に、キャラクターの顔の表情や動き、背景の位置などを鉛筆によるデッサンで捉えてゆく、所謂アタリの作業によって全てが決まる。

もし、このネームとアタリを別の人間がやれば、ストーリーも絵も、赤塚漫画とは似て非なる別物の作品へと変貌してしまうのだ。

「週刊文春」連載の『ギャグゲリラ』の担当記者だった青山徹は、貪欲にアイデアを取り込み、一本のギャグストーリーを紡ぎ出してゆく赤塚の創出力をこう評している。

「やっぱり赤塚先生はクリエイターなんですよ。クリエイターは、アイデアを自分の身体に取り込んで、何らかの形に変容させて表現する。

~中略~

特に、アイデア会議の結果がパッとしなくて、あまり期待できないなと思っていても、出来上がりが素晴らしいことが多々ありました。そんなときは、本当にこの人は凄いんだと実感しましたね。いったん先生のペンが走り出すと、とたんギャグにも動きが出てきて俄然面白くなるという不思議さ。あれこそ赤塚マジックでしょう。」

(『週刊文春「ギャグゲリラ」傑作選』文春文庫、09年)

同じく「週刊文春」で、初代赤塚番を務めていた平尾隆弘も、「赤塚先生はとにかく天才ですから、ほんの毛の先くらいな些細なことにも、面白いと思えばビビッと反応してくる。編集者が提供出来るとしても、それはあくまできっかけに過ぎない。」と、アイデアを自家薬篭中の物にしてゆくその才気に惜しみない賞賛を送っている。

人気キャラクター・ウナギイヌをフィーチャーしたDVDマガジン『昭和カルチャーズ「元祖天才バカボン」feat.ウナギイヌ』(角川SSCムック、16年)でのインタビューにて、古谷三敏は「バカボンのアイデアは面白い物を出すのに何で自分の漫画は面白くないんだ」と、「週刊少年マガジン」の担当記者だった五十嵐隆夫より手厳しい指摘を受けたことを述懐していたが、これこそまさに、漫画家としてのトータル的な資質において、天才と凡才の差が明瞭に現れての評価と言えるだろう。

北見けんいちは、「がんサポート」2011年7月号の取材で、赤塚の漫画家としての類い稀なる才腕を次のような言葉で一目置く。

「作品を作る前、(名和註・赤塚)先生や登茂子さん、高井さんや古谷さんらのスタッフに担当編集者が集まって、ワイワイと雑談する。その中から先生が面白いアイデアを拾い上げて漫画を作っていく。先生は断片的なアイデアやエピソードを1本の作品に仕立てるプロデューサーとしても天才的な能力を発揮していました」

実際、赤塚のマネージメントを長らく務めていた横山孝雄の証言(曙文庫『天才バカボンのおやじ』第1巻の解説)によると、ブレーンストーミングの際には存在しなかったアイデアが、ネーム執筆の時、ふんだんに盛り込まれることがあり、このように興に乗じた際に、突然変異で生まれた新語等も少なくなかったようだ。

「週刊少年サンデー」で長期に渡り、赤塚番を務めていた武居俊樹は、その著書『赤塚不二夫のことを書いたのだ』で、アイデア会議を経た後、13ページの作品が完成に至るまで費やされる時間は、ネームに二時間、アタリに四時間で、赤塚の担当箇所が概ね六時間程であると証言しており、その後、赤塚は他の作品の執筆に取り掛かる。

拙著『赤塚不二夫大先生を読む 「本気ふざけ」的解釈 Book1』や『コアでいいのだ!赤塚不二夫』(出版ワークス、19年)所収の『レアリティーズブック』、『少女漫画家 赤塚不二夫』(ギャンビット、20年)等に掲載されている赤塚直筆のアタリ原稿をご覧頂ければ、一目瞭然だが、ラフな下描きとはいえ、その作画部分はキャラクターの表情、動きに至るまで、そのままペン入れをしても差し支えないくらい、線の一本一本が細やかに整理されており、特にこの時代(1970年代)、赤塚に限っては、月産にして、平均三〇〇枚近くのギャグ作品を描いていたわけである。

長谷邦夫は、当時の超タイトとも言うべき執筆ペースについて、次のように振り返る。

「ストーリーマンガのように背景の大画面を何頁もスタッフにまかせてしまうことの出来ないギャグマンガである。全ての駒に赤塚の手が入らないと完成できない。だからギャグ物三百頁というのは超ハードな仕事量であった。」

(『ギャグにとり憑かれた男 赤塚不二夫とのマンガ格闘記』冒険社、97年)

また、ブレーンストーミングに関しても、「連続して三本の作品のアイデア作りに参加すると、ほんとに頭の中が真っ白という状態になってしまう。」と、同時に語っており、その壮烈極まりない仕事ぶりの一端が垣間見れよう。

赤塚の手を離れたアタリ原稿は、チーフスタッフが、下絵のデッサンを鉛筆による一本線で、キッチリとした絵に起こし、ペン入れ、背景描き、ベタ塗り、仕上げ等、更に三時間の流れ作業を経由し、漸く一本の作品として仕上がってゆく。

赤塚がこのように、全てのスタッフがアイデア出しや作画に協力する完全分業制を敷いたのも、一日一本以上の作品を生み出さざるを得ない超絶的な過密スケジュールの渦中に身を置いた自らの状況に加え、毎回、ナンセンスに依存した消耗度の高いギャグを無尽蔵に弾き出してゆくには、個人の能力の限界を超越したバックボーンを整えなくてはならないというシビアな現実を見据えてのことだったのだろう。


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