文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

ブラックユーモアを少女誌に定着させた『ジャジャ子ちゃん』

2020-05-29 20:09:43 | 第3章

毎回、見開き2ページという、限られたスペースで掲載されながらも、その中でワンアイデアの面白さを徹底的に追求し、起承転結を巧妙にドラマに盛り込んだ『ジャジャ子ちゃん』(「少女フレンド」65年25号~66年27号、67年13号~44号)もまた、磨きに磨かれたブラックな感覚が、全編に渡って冴え渡る隠れた傑作の一本である。

主人公のジャジャ子ちゃんは、その名の通り、邪気のない可愛さの中にも、激しく破天荒な一面を併せ持ったジャジャ馬娘だが、曲がったことが大嫌いな、竹を割った真っ直ぐな性格の女の子だ。

まさに、チビ太のパーソナリティーをそのまま女の子へと移し替えた、バイタリティー溢れるキャラクターで、子供のデリケートな気持ちを考えず、一方的に理不尽な押し付けを強いる大人の態度に我慢ならないジャジャ子は、ありとあらゆる報復手段を駆使し、大人達に痛烈な復讐劇を繰り広げてゆく……。

数あるエピソードで、まごうことなき傑作は、「中どくそば」(67年17号)の巻だ。

お母さんから、お金を貰って外食してくるように言われたジャジャ子は、町外れの中華そば屋に入り、チャーシュー麺をオーダーするが、何とチャーシューが酷く腐っていた。

ジャジャ子は、当然ながら取り換えてくれるようにせがむが、相手が子供だと見下した店主は、それに全く応じようとはしない。

頭にきたジャジャ子は、店の看板に書かれたある一文字を書き直し、その店の客足が遠退くよう、とんでもない悪戯を仕向けることとなる。

大人の奥底深くに澱んだいかがわしさをあぶり出し、それらに対し、微笑ましくも、苦味に満ちたリベンジを貫徹させてゆくジャジャ子ちゃん。ブラックユーモアという概念を少女誌で初めて定着させたトリックスターならぬトリックヒロインとしてのその存在感は、今振り返ってみても、心に強烈な残像を残すほど鮮烈に際立っている。

型破り且つアイロニーに満ちた策謀を緩急自在に操ることで、ままならぬ現実を容赦なくやり込め、パニックに陥れた状況と無邪気に戯れてしまうジャジャ子ちゃんの恐るべき行動規範は、へんな子ちゃんと同じく、筋道の通らない大人の論理に嫌悪を抱きながら、現実生活の中で様々な撞着を余儀なくされている子供達の溜飲を下げること間違いないだろう。

その後、ジャジャ子ちゃんは、スターシステムに登録され、『おそ松くん』にチビ太のガールフレンドとして度々登場し、繊細にして瑞々しい、純情な一面を見せたほか、1974年には、単発の読み切り(『ジャジャ子』/「小学五年生」74年11月号)で、若干のイメージを変え、一度だけ再登場し、甘酸っぱくも、心が綻ぶ初恋のエピソードを披露するなど、再三に渡ってフィーチャリングされ、産みの親である赤塚にとっても、大層お気に入りのキャラクターであったことが窺える。


最強フレーズ「それだけではあるまい!」

2020-05-29 07:25:02 | 第3章

二代目へんな子ちゃんといえば、彼女の十八番ともいうべき「それだけではあるまい!」という決め台詞が、連載当時、『週刊女性』の愛読者の間で、有名なフレーズとなったが、この冷笑的な言い回しは、赤塚が天才と認める数少ない漫画家の一人である谷岡ヤスジの代表作『ヤスジのメッタメタガキ道講座』で書かれた台詞を頂戴して生まれたものではないだろうか?

本作の連載を開始する前に、赤塚が上梓したエッセイに、その根拠となる一節を見ることが出来る。

「ペロペロキャンディをなめてるあ(・)の(・)ガキ(名和註・ガキ夫)が、バーに行ってホステスを前にこう言う。

「ここは酒を飲ませるだけではあるまい」

このセリフは今でも覚えているが、ほんのガキが、じつは女とヤらせる所だと見抜いている場面で、この無駄のないセリフに、吾輩は喝采を送ったものである。」

(『地獄の交遊録』コア出版、89年)

傍観者的な態度を保ちながらも、他人の心をつぶさに読み取る得意の瞬間読心術で、相手に心理的な打撃を与え、翻弄させる際に、へんな子ちゃんが言い放つ決まり文句としては、なるほど要領を得ており、彼女のシニカルなキャラクターを浮き上がらせる、その象徴となって余りある最強フレーズと言えるだろう。


平成の時代に復活した二代目『へんな子ちゃん』

2020-05-29 06:43:25 | 第3章

 

連載終了から実に二〇年余りの時を越え、『へんな子ちゃん』は、一般女性週刊誌(「週刊女性」91年1月8日・15日合併号~94年8月16日号)に発表の舞台を移し、キャラクターデザインをリニューアル。同名異作のシリーズとして平成の世に再び登場することとなった。

初代へんな子ちゃんは、母子家庭で、お母さんと二人だけで暮らす、若干貧しい生活を強いられていた女の子だったが、二代目へんな子ちゃんは、亭主関白を気取りつつも、会社や酒場では、女好きでセクハラ癖のある一面を露呈してしまう痛々しいお父さん、家族想いでしっかり者のお母さん、色情的で、出会った男とは必ず関係を持ってしまう、当時で言うところのイケイケギャル風のお姉さん、『ドラえもん』がその名の由来なのかは定かではないが、へんな子ちゃんが拾ってきた、人語を喋る野良犬ののび太等の家族に囲まれ、決して貧しいわけではなく、かといって、それほど生活水準が高いわけでもない中級レベルの家庭の中で暮らしているという設定だ。

二代目へんな子ちゃんは、そのキャラクターメイクにおいても、髪型やファッション等、若干のマイナーチェンジが計られており、新たなる魅力を醸し出している。

取り分け、アフロヘアにリボンを纏ったそのデザインは、アメリカの人気カートゥニスト、アーニー・ブッシュミラーの代表作『フリッツィ・リッツ』に登場する名キャラクター・ナンシーの風采をそのままスライドさせたものと見て間違いないだろう。

また、その人物設定も、何の特別な能力も持たない普通(?)の女の子だった初代とは異なり、人や物体を凝視することで、目からビームを放ち、対象となるものを爆破させたり、変形させたりするというサイコキネシスや、人の心の奥底を鋭く読み取るテレパシーといった超能力を身に付けており、そのパーソナリティーにおいては、底意地が悪いというよりも、物事に対する斜に構えた一面のみが強調され、本質的には心の優しい女の子という性格付けがなされている。

サディスティックな残虐性を弄し、平穏な日常を戦慄の瞬間へと変えてゆく、ある意味魔的な存在である初代へんな子ちゃんとは違い、二代目『へんな子ちゃん』では、傍観者的なスタンスをキープしつつも、世の中に蔓延る理不尽を持ち前の超能力でぶった斬ってゆくという、時には、読者に胸のすくような生理的快感をもたらすエピソードも多い。

そうした点からも、平成版『へんな子ちゃん』もまた、寓意性を含み、それなりの読み応えもあるのだが、ギャグセンスの鋭敏さ、モチーフの選択、短いページ数ながらも、起伏を与えて発展させたスリリングなドラマ構成等、それら全てよりアプローチされた多層性に富んだ作劇法を勘案した際、元祖『へんな子ちゃん』の側に軍配が上がるのは、言わずもがなであろう。

しかしながら、掲載誌「週刊女性」では、三年以上に及ぶ長期連載となり、あらゆるコーナーにへんな子ちゃんのイラストが登場し、誌面を賑わすなど、それなりにOL、主婦層からの支持を集めたようで、最晩年(90年代)の赤塚作品をシンボライズするシリーズとなった。

そして、連載終了から約十四年後の2008年には、株式会社GDHの傘下企業であるゴンゾロッソの製作により、二代目『へんな子ちゃん』は、ウェブアニメーションとして復活する。

赤塚の直筆原稿をそのまま取り込み、デジタル処理により動きを付け加えた所謂コミックモーションとして再現され、動画共有サイトの公式チャンネル(GONZO・DOGA)にて、全六話がインターネット配信された。

原作のテンポを損なうことなく、声優のアフレコや効果音を乗せ、巧みに映像へと落とし込んだ画像エフェクト技術が大きな評判を呼び、全エピソードがDVDにて完全パッケージ化。最新の赤塚アニメとして注目され、『へんな子ちゃん』は、名実ともに赤塚の代表作として一般にも広く知られるようになった。


『へんな子ちゃん』サディズムの欲求渦巻く倒錯性

2020-05-26 23:30:18 | 第3章

このように、ギャグ漫画の第一人者として、ナンセンス街道を爆走して行く一方で、旧態依然の児童漫画の古層から飛び出しながらも、旧世代漫画の終局にあるその残滓を有効活用しつつ、ファンタジー色豊かな少女漫画や、生活ユーモア漫画の新たなワールドビューを遍在的に生み出してきた赤塚だが、やはり『おそ松くん』、『天才バカボン』などの爆発的人気もあり、破壊的なギャグを叩き出す少女向けナンセンスにも次第に手を染めるようになった。

その中には、主人公のキャラクター、延いては、その一挙手一投足に著しく過激な毒性が息づき、読者の脳内レセプターに強烈なインパクトを響かして余りある作品もあった。

「りぼん」誌上にて『ミータンとおはよう』に引き継いで連載されることとなった『へんな子ちゃん』(67年9月号~69年8月号他)がそれである。

アメリカのパロディー・サタイア誌「MAD」を「ボーイズライフ」編集長・田中一喜に紹介され、同誌に掲載されているブラック度の高い諸作品に触れた赤塚は、大いなるショックを受け、自らの作品にも、タブーに触れたヘイトフルなテイストを積極的に取り入れていこうというモチベーションが大きく膨らんだという。

そうした内発的なデザイアーから描き出された作品が、ほかならぬ『いじわる一家』や『スリラー教授』であり、本作『へんな子ちゃん』であった。

過去に、母親との間に起きたある出来事が原因で、性格が恐ろしいまでにひねくれてしまったへんな子ちゃんは、いつしか、大人だろうが、子供だろうが、サディスティックな攻撃で相手を瞬殺する、徹底した意地悪を繰り返すことに生き甲斐を見出だすようになっていた。

自分に怯える気弱な女の子に、気味が悪いくらい親切にして恐怖感を煽らし、遂には、ノイローゼにさせてしまう恐るべきへんな子ちゃんは、人の恋路を邪魔をすることも何のその、自らの悪戯を窘められたことに逆恨みした結果、本来なら何の罪もない筈の近所の一家に救いようのない嫌がらせを繰り返し、揚げ句の果てには、街から追い出してしまったりと、目に付いた対象を次々と不幸のどん底へと叩き落としてゆく。

当初は読み切りのつもりで描かれた『へんな子ちゃん』だったが、心地好い脱線に貫かれた、しかし、そのおぞましいまでのへんな子ちゃんの背徳性は、読者の日常での鬱屈した憤怒や不満を吐き出すに充分なカタルシスを放ち、その後、同誌の人気連載漫画として浸透していった。

サディズムの欲求が渦巻く倒錯性を全身に纏い、秩序を撹乱することで、激しい悦楽を貪るへんな子ちゃんだが、所詮は小さな女の子。それでも、彼女の自尊心が打ち砕かれるのは、いい子だと大人から褒められた時だという、純粋な要素を取り除き、底無しのインモラリティーを貫いたその迷いのない性格描写には、人間の有り様におけるデカダンな根源特性が、リアルな次元でもって局在化されている。

そうした点からも、へんな子ちゃんは、人格の生々しいまでの所業を最重視し、炙り出してゆく、赤塚ならではのキャラクター作りの神髄にして本質が、クリアに示された好例と言えるだろう。


純粋感動の発露『怪球マン』

2020-05-25 00:22:28 | 第3章

『タトル君』と時同じくしてスタートした『怪球マン』(「どっかんV」77年4月創刊号~78年5月号)は、赤塚作品としては珍しい、ベースボールコミックの物語構造の枠組みに依拠しつつ、ドラマを紡ぎながらも、野球ドラマとサイエンスフィクションの特性を折衷させて展開。エキセントリックな日常型コメディーへと発展させた。

元プロ野球の選手と元ソフトボールの名選手を父と母に持つ球太は、その才能を受け継ぐことなく、打てば空振り、守ればエラーというそのお粗末な運動神経から、チームメイトの足を引っ張ってばかりいた。

ある夜、野球の下手さを窘められたことで、両親とちょっとした口論となり、家を飛び出した球太は、路上で突然、豪速球ボールに遭遇する。

「夜なのに、だれが野球をやってるんだろう⁉ 」

「今日はナイターはないし…。」

不思議に思う球太の目の前に、今度は泥棒が……。

捕まえてやろうと、駄目元でそのボールを泥棒に投げ付けようとする球太だが、ノーコンの筈が、見事泥棒に命中。何と、そのボールは、球太の意のままに動いてくれる不思議なボールだった。

このボールを使って、試合で大活躍しようと目論む球太だったが、実はこのボール、言葉も喋れば、大飯も喰らい、巨大化もすれば、不思議な変身能力をも備えているという、遠い銀河の彼方からやって来た究極の宇宙生物だったのだ。

主人公が、運動音痴で地味目なルックスである小学生と、見た目はただの野球のボールというコンビであるため、少なからず、画稿に華やかさを欠いた印象を与えるきらいがあるが、飛躍に次ぐ飛躍で、「一寸先は闇」という、読者の想像とは異質な次元へと着地するフォーマットが見事に定着していて、緩急のある投球術でナンセンスにシンカーを加えながら、読者に笑いを投げ掛ける、赤塚ギャグ作法の熟練さを改めて痛感させられるシリーズだ。

最終回においては、スポーツマンシップにも通ずる心技の錬成が示唆されるなど、心が綻ぶようや純粋な感動が発露され、徹底したナンセンスが叩き出されたシリーズでありながらも、読後は頗る爽快な余韻を残している。

野球に題材を求めた赤塚漫画では、本作の連載開始から遡ること十数年前に、「中学一年コース」に描かれた『ジンクスくん』(62年4月号~63年3月号)という作品を忘れてはならない。

野球部で万年補欠の兄貴が、弟がオネショをした時に限ってホームランをかっ飛ばせるというジンクスを、作品のモチーフとして捉えているが、次第に自分で道を切り開いてゆくことの大切さに目覚めた兄貴が、試行錯誤を重ねながら、自力で名選手へと成長を遂げる過程を丹念に描いたこのドラマは、万年補欠の野球少年の、微笑ましくも、拭い切れない劣弱意識を然り気なく浮き彫りにしながら、如何に、人の心が迷妄に捕らわれやすいかをユーモラスに描き出している。

デリュージョンとSFとの共通項は、とかく見出し難いが、『ジンクスくん』を通して、読者に放たれた「勇気と自信を持って接すれば、道は必ず切り開ける」という熱烈なメッセージからは、『怪球マン』におけるテーマの深層との連鎖性が嗅ぎ取れ、十数年のブランクを経て符合した両作品のシンクロニシティが何とも興味深い。