ニャロメ人気が最高潮の盛り上がりを見せていたこの時期、市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地における自決事件により、帰らぬ人となってしまった、ノーベル文学賞候補作家・三島由紀夫が、その死の少し前に、次のような随筆を「サンデー毎日」誌上にて発表していた。
旧仮名遣いで書かれた文章であるため、現在の観点からは、若干読み辛いかも知れないが、ここに引用してみたい。
「いつのころからか、私は自分の小学生の娘や息子と、少年週刊誌を奪ひ合って読むやうになつた。「モーレツ・ア太郎」(原文ママ)は毎号欠かしたことがなく、私は猫のニャロメと毛虫のケムンパスと奇怪な生物ベシ(原文ママ)のファンである。このナンセンスは徹底的で、かつて時代物劇画に私が求めてゐた破壊主義と共通する点がある。それはヒーローが一番ひどい目に会ふといふ主題の扱ひでも共通してゐる。
私だつて面白いのだから、今の若者もかふいふものを面白がるのもムリはない。劇画や漫画の作者がどんな思想を持たうと自由であるが、啓蒙家や教育者や図式的風刺家になったら、その時点でもうおしまひである。
~中略~
ヤング・ベ平連の高校生と話したとき、「モーレツ・ア太郎」の話になって、その少年が、
「あれは本当に心から笑へますね」
と、大人びた口調で言つた言葉が、いつまでも耳から離れない。大人はたとへ「ア太郎」を愛読してゐても、かうまで含羞のない素直な賛辞を呈することはできぬだらう。赤塚不二夫は世にも幸福な作者である。」
(『突拍子もない教養を開拓してほしい 劇画における若者論』/
「サンデー毎日」70年2月1日号)
熱心な漫画ファンでもあった三島は、かつて颯爽たる『鉄腕アトム』を創造した手塚治虫を、『火の鳥』(恐らく『黎明編』を指しているのだと思われる。)においては、日教組の御用漫画家になり果てたと批判し、『宇宙虫』で素晴らしきニヒリズムを描いて見せた水木しげるに対しても、「ガロ」に発表された『こどもの国』や『新講談宮本武蔵』シリーズにおける一連の諸作品では、見るも無残な政治主義に堕落した印象を受けたとの心情を、この時率直に述べている。
そのうえで、『もーれつア太郎』に見られるスラップスティックを喜ぶメンタリティーは、図式化され、政治主義に染まったこれら漫画や劇画の根底を成す精神原理とは、相反するものではないかと結んだのだ。
当時の三島は、安保条約の制約下にある自衛隊とは異なる民兵組織「楯の会」を率い、ナルシスティックなパフォーマンスと揶揄されながらも、作家活動と並行し、民族派運動にも従事していた。
議論の俎上にあげるまでもない不毛な同語反復が、今となっては失笑の対象になりかねない東大全共闘主催の討論会に参加するなど、精神的ストイシズムへと近接する反面、思想領域の枠を越えた柔軟な思考と作家的バランスを備えた三島による、この赤塚漫画への論究は、赤塚が、三島が憂うところの浅慮な政治的イデオロギーに埋没したテーゼとは無縁のアナーキズムに立脚し、ニャロメを客体化せしめているというアイロニカルな真実をズバリ言い当てており、短文ながらも、虚像と実像の裂け目から事物の本質を炙り出す三島の知慧が注がれた、赤塚ファンにとっては目から鱗が落ちる、実に興味深いオピニオンと言えよう。
つまり、漫画家が幅広く読者に訴え掛けるような、啓蒙的観点を基盤に据えた社会思想を思考姿勢とした漫画を描こうとしたところで、もはやその作品は、既成の定義や偏向的な規範概念に縛られたエピゴーネンを喧伝する宣伝媒体に過ぎず、特に、新たなセオリーを開拓したところで、イノベーションを発揮せしめるギャグ漫画の不文律に照らし合わせれば、非生産性を成立根拠とするナンセンスが引き起こす興奮や、読者の破壊衝動を満たして充分なカタルシスといったものとは、この時点で大いに隔たったものであるという正鵠を、三島は射ているのだ。
無論、赤塚漫画にも、時にはドラマの根幹を支えるそのテーゼにおいて、読み手の心的発達を促す教訓的なメッセージや、社会風刺を込めた辛辣なウィットが注がれた作品も少なからずあったことが指摘出来ないわけではない。
だが、それらが、スラップスティックナンセンスの特性を活かしたうえで、笑いのオブラードに包んで指し示した、読者の倫理的センティメントを涵養し得るテーゼであり、また、支配的エスタブリッシュメントに見られる体質腐敗の構図や、歪んだ社会通念がもたらす偽善的コモンセンスに向けた痛切なイロニーであることは、赤塚漫画を通読すれば、自明の理として導き出され、その一部の隙もない徹底したナンセンスぶりからも、赤塚漫画に啓蒙理念に基づく政治的な主義思想が入り込む余地など一切なかったということを著しく痛感させられる。
さて、ニャロメの行動原理を一貫したアナーキズムに基づくものであると縷々述べてきたが、そのアナーキズムを厳密に定義するなら、リベラリズムに帰着する自然アナーキズムとでも形容すべきものであり、そこには国家や政府に対する無政府主義本来のレジスタンス的な政治意識からも背理した、個人の放恣を頑なに主張するミーイズム的メンタリティーが弥漫していることは言うまでもない。
そう、ニャロメが示威する反逆反骨のスタイルは、あらゆる規範や規約から解き放たれた真の自由人たらんとする進歩的な生き方でもあるのだ。
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