蛤(はまぐり)御門

2008年02月06日 | Weblog
今朝はなんと、朝4時に目が覚めてしまいました。
残念、せっかくホテルに泊まった時くらいは、6時か6時半か、ぎりぎりまで寝ていてもいいのに。せっかく早く目が覚めたので本山・宥清寺に開門参詣させていただきました。
京都は思いのほか、暖かで、寒さに対してしっかり武装していたのに拍子抜け。
でも歩いているうちは良かったのですが、本堂の中はさすがに寒ッという感じでした。先日も、今回もご披露を聞いていますと参詣数があまり多くないよう。33年前、私が本山で学生時代、参詣人数は寒参詣で1000人を超えている日が多かった気がします。それからしますと、今は6割くらいかな。ちょっと、寂しい。寒中を参詣するような強信(ごうしん)の人がどんどん減っているんですね。
その帰り道、京都御所のあたりにさしかかったので、携帯で写真でもと思って入ったところ、この門に「蛤御門」と表示されていました。
蛤御門というと、「蛤御門の変」とか「禁門の変」とか、歴史の授業で昔、習ったことを想い出しました。
でも、どういう事情で、誰がどうしたなどということなど、ほとんど記憶にありません。調べたら尊皇攘夷の論に傾いていた長州藩の藩士たちが会津や薩摩、桑名と対立して、蛤御門の付近で衝突して戦いが繰り広げられ、その時にあがった火によって京都市中が丸焼けになったとあります。
その火事を「どんどん焼け」「どんど焼け」「鉄砲焼け」などといい、わが開導日扇聖人もその時代の方ですから重大な被害をこうむられました。そこで開導日扇聖人の御教歌の中にも
「信心の うまき味ひ 知ったなら 京の丸やき いもの?ぢゃわい」
と、痛手をこうむりながら、そんなことに負けまいと、どんど焼けのことを詠まれています。確か以前からこの門を通っていたのですが蛤御門とは知りませんでした。
けさ、この門の表札を見て、「あぁ、これがあの有名な門なの」と初めて思いました。
当時、京都を舞台に活躍していた人たちは、その後、明治時代の政治を牛耳るようになったのだけど、この時、ずいぶん、文化遺産が失われたのだなぁと少し、悲しい気持ちになりました。何でも創り上げるのには時間がかかりますが、破壊するのは一瞬ですよね。
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1 コメント

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Unknown (さかなしゃん)
2008-02-07 02:01:54
2月になって気候も世相も冷え切るなか、御導師のブログを見れると心までホットになった気持ちがします♪またとてもインテリジェンスですが、凡人にも分かりやすく書いて下さってるのがとてもありがたいです。最近、モードとしての商業市場主義なブッディストマガジンの広告を見る度、正直「あ~あ・・・」と思います。こんな事を思う暇あったらご奉公、下種に励まなくては!と思う今日この頃です。 合掌
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