お盆  

2008年08月14日 | Weblog
東京では7月がお盆で、8月の旧盆は、遠妙寺のご信者は休暇で遠方に行くか、あるいは田舎に帰るかです。ですから、お寺はお盆の時がわりあい暇な感じで、他のお寺とはそのへんが、少し、違いますね。
しかし、中には8月の旧盆にお墓参りをしたり、ご回向をお願いしますという方もあります。
まぁ、そんなわけで今日は、お盆についてウンチク。

お盆とふつうに言いますと、ものを運ぶお盆のように聞こえます。
仏教で使うお盆という言葉は詳しくは盂蘭盆(うらぼん)、正しくは烏藍婆拏(う
らんばな)といいます。
これは、サンスクリット語・ウランバナに由来しています。その意味は、倒懸(と
うけん)ということで「さかさ吊りの苦しみ」ということです。
 盂蘭盆経(うらぼんぎょう)によりますと、釈尊の御弟子の一人、目連尊者(もくれんそんじゃ)に関する説話が説かれています。その話は、わが息子・目連を育てるため、はかりの目盛りをごまかしてまでして、もうけを得ていた、その罪により死後に餓鬼界に堕ち、苦しみさまよっている母・青提女(しょうだいにょ)を目連がどのように救うかというテーマです。
 お盆に先祖を弔うことは、インドの雨期に僧侶が土の中にいる虫を踏み殺さないように、お寺の中にとどまって修行した期間が設けられましたが、これを「夏安居」(げあんご)といいます。その最終日が7月15日で、その時に、目連尊者がその母親を餓鬼界からすくい上げるために、お釈迦様におそわったとおり、多くの僧侶に供養して功徳を積み、その功徳によって母親が苦しみから逃れられたというのです。
 日本では、習わしとして昔から精霊棚(しようりようだな)というものを作って、そこに先祖の霊を招き寄せるとしていた宗旨が多いようです。そして菩提寺の僧侶に来てもらい、お経を読んでもらいます。これを棚経と言いますが軒数が多いとほんの何分ということになります。そして、来てもらった僧侶に布施供養します。今では、これも時間がないのと、招く方も信仰心が薄いことが多いので、家の人は座っていっしょに拝みもせず、坊さんは置いてある御布施を勝手にもらって次に回るということになりやすいのです。
 ちょっと回向の本来の精神からかけ離れていますが、いかがでしょうか。
 お寺では施餓鬼法要を行い、そこに檀徒が参詣して餓鬼の世界におちて苦しんでいる人々に供養の品々を供え少しでも餓鬼界の人びとの苦しみがなくなり、楽になることを願い、お坊さんがお経を読むのです。
 しかし、要は、本当に精霊が救われるか否かです。
 開導日扇聖人は
 施餓鬼して経よまんより法界の 回向に口唱するぞめでたし
と教えの歌を詠まれて、ワケの分からないお経を読むより、本当の信心を込めてお題目をお唱えする方がよいと言われています。また、
弔わる卒塔婆(そとば)のこゝろ知るならば チャラポンよりも南無妙法蓮華経
と「チャラポン」と音を出す、「ドラ」(銅鑼)などの楽器を鳴らして、お経を唱えて法要をするよりも、弔われる卒塔婆(塔婆)つまり霊の心を知れば、心を込めて亡くなった人の子孫が中心となって御題目を唱えよとお示しです。
 いま、遠妙寺では7月15日には、「盂蘭盆(うらぼん)総回向」を行い、8月15日にも行事を設けて、戦没者慰霊法要を行い、また、お盆だからとご回向なさる方にも当然、対応しています。
 昔から佛立宗では常盆、常回向といい、日常の御講でもご回向を行っています。お寺参詣の際も毎日、朝にも夕方にもご回向を奨励し、塔婆を建てて弔う習慣があります。これを常盆、常彼岸といいます。
 しかし、何を勘違いしたのか、ときどき、常盆常彼岸だからお盆、お彼岸に、お寺でご回向を行事として行うのは、開導聖人のみこころに叶わない、極端に言えば、謗法だと思っている人もあるようです。
 それはおかしな事です。常盆、常回向だからこそ、お盆の時はお盆の時で、思いを込めてキチンとご回向をしていただくことが大切ではないでしょうか。
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