今日のBL(佛立レディース)御講

2010年08月07日 | Weblog
今日は、BLソレイユ(日曜の組)御講がつとまりました。
御講は午後1時半から約1時間15分。
御教歌
よろこびて 持たばたもて 法花経を うたがふならば たもつかひなし
を讃題に頂いて御法門を説かせていただきました。
随喜すなわちご信心に対する喜びと、感謝の思いが大事で、反対に疑いや迷い、不平不満を以てご信心させてもらっているのはご信心をおたもちしている甲斐(かい)がないという意味です。
「あゝ有難や、まれに人身を得、たまたま仏法にあえり」という御文(ごもん)が、いつも拝読している「妙講一座」(みょうこういちざ・・開導日扇聖人ご制定、本門佛立宗の法要の式文)あります。いつも読ませていただいていますが、これには深い意味が込められています。
佛立信者の人生観ともいえる御文で、この宇宙の悠久な生命の流れの中に、数限りないほど多くの生き物が生まれては死に、死んでは生まれています。その生きとし生けるものの中で、この私はたまたま、人として生を享け、そして仏法の中での最高峰、法華経本門八品の教え、上行所伝の御題目にめぐりあうことができました。
人でなければ意識も理性もなく、ただ生まれ、食い合い、子孫を産み、死ぬことも分からず死んでいく。それが人間と生まれることができただけでもマレの中のマレです。そして仏性を持ち、その仏性をみがく仏道に入り、しかも、真実の仏の種となる上行所伝の御題目にめぐり逢い、さまざまなお計らいをいただくことができます。病気の時には、命を助けていただき、悩める時には救いの手をさしのべていただき、このご信心のお蔭で菩薩行のご奉公までさせていただき、他人様を救い尽くそうとされるみ仏やお祖師様のお手伝いまでさせてもえ、その功徳で、この身に仏身を感得することさえできるのです。
そう考えますと財産らしい財産もなく、地位も名誉もないに等しくても、この私ほど幸せな果報者はないと思える・・・・それが佛立信者の喜びの源泉となります。
忘我の境地とか、エクスタシー的ないっときの法悦ではなく、じわじわと、ふつふつと喜びが湧いて尽きない・・そのような静かな、深い、他者への慈悲までこもった佛立信者の喜び・・・これがあればこそ開導聖人も、その他の先輩の教講も、法難やご苦労、つらさ、苦しさを乗り越えてご奉公されたのです。
5年半前に入信された女性で、難病に冒され、また、当時、人にだまされ辛い日々を送っていた方がおられます。毎日、この方は自分を騙した、その人を憎み続け、かえってそれが自分の身に帰って来て悶々として苦しんでおられました。
最初の内は御題目を唱えながら、その騙した人をいわば呪うような気持ちで罰が下って欲しいという思いさえあったそうです。ところが、毎日、御題目を一所懸命にお唱えして、さらには自分よりもっと困っている方を教化しようと、御宝前に手を合わせていました。しばらくして、教化をしてくれお世話してくれた方に言われました。「あら、貴方、何かにらむような目つきがなくなり、優しい表情になりましたね。それが御利益を頂いたということですよ」と。それから大小さまざまなお計らいをいただき、今も、この方は熱心にご信心をなさっています。進行性の彼女の病気もほとんど進行せず、たくましく優しい夫に守られ、大勢の親切な周囲のご信者にも恵まれています。そのような難病であれば愚痴の一つも言い、暗くなるのが通例ですが、いつも明るく感謝の思いで暮らしています。
この方は、今は遠い北海道のお寺でご信心に励んでいます。




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