金融危機の意味

2008年10月10日 | Weblog
金融危機の影響が今後、いろいろ出てくるに違いない。
仏教と金融とはほとんど無関係で、もちろん釈尊の時代は貨幣が本格的に流通する前であったから、詳しくは説いておられない。
ただ、法華経には長者が、自分の行方不明になってしまった子供を偶然、見つけ出し、だんだん仕事を覚えさせて、ついにその商売を譲ったというたとえ話が出ていることから、都市部ではインドでも貨幣経済が発達しつつあったことは故・中村元東大教授がその著書の中でふれておられる。
法華経には、また「少欲知足」・・・「欲少なくして、足ることを知れ」という教説が出ているから、その頃から、貨幣経済の浸透によって、人間の欲望が増大して弊害が出てきてしまったことを物語っていると言えよう。
便利な貨幣制度も、株式によって資金を得て、会社を興して事業展開し、自由な競争によって経済を発展させようという資本主義の制度も、その制度の目的をみなが心得て、本来の利点が発揮できる限り、素晴らしいものである。
しかし、現在の状態を見る限り、資本主義という制度自体が制度疲労を起こしていると思われる。個人投資家にしても、企業を育成するなどということは眼中にない人が多く、僅かな値上がりによる差益を狙い、一日に何回も頻繁に売買をネット上でして儲けようとしているそうである。
また、投資ファンド会社などの投機的な売買によって、穀物などが値上がりして途上国では小麦や食べ物が価格上昇し、そのため餓死者まで多数、出ているという。石油価格にしても同様である。また、今回のサブプライムローンの問題もしかりで、何でも証券化してそれをもとに儲けようということがまかり通る限り、資本主義が土台から揺らいでしまうのではないかと思う。
お寺とこのような経済問題は無縁というわけにはいかない。特に、私どもの宗門では、多くのお年寄りが心の拠り所としてご信心をさせていただき、実際にお金を使いながら修行もされているし、ご奉公もされているのであるから影響甚大である。
人生のほとんどを、真面目に勤務して、家庭を営み、家族を養い、子どもを育ててきた社会の功労者がお年寄りである。その人たちの持っていた資産が、まったく予期もしていないやり方で、外部から減らされ、利息もいままでロクに支払われず、手も足ももぎ取られているようなものである。
多くの国や政府で対応策を打ち出し、いろいろ手を打っているようであるが、もはやコントロールができないとなれば、その制度のどこかがおかしいか、全部がおかしいことになる。
急に新たな経済システムを構築しようとしても無理かもしれない。しかし、人間の欲望によって資本主義がもろく崩れ去るようであれば、抜本的に考え直さなければならないであろう。ただ、経済だけの問題でなく、いまの時代が末法とよばれるように、これは多分に宗教的問題、教育の問題がからんでいることだと思う。
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